26 幸せ

「何でって──アパートが取り壊しになっちまったから」
 哲がそう言うと、エリは「えーっ!」と声を上げた。
「そんな理由!?」
「そんな理由ってお前な」
「だって!」
 エリは手酌で冷酒を注ぎ足し、ガラスの猪口を摘み上げた。

 エリからたまには二人で飲みに行こうと言う誘いがあって、別に予定もなかったから付き合うことにした。連れてこられたのは所謂隠れ家風の創作和食の店で、エリの客がオーナーなのだとか。
 案内された個室は間接照明がやけにムーディーだったが、相手がエリでは明るかろうが暗かろうが大差はない。
 一通り世間話──みづきに新しい彼氏ができたとか、利香のピアノの発表会がどうしたとかそういうの──をしながら飲んだ後、エリが突っ込んできたのは「何故秋野と一緒に住むことにしたか」という話だった。哲にしてみれば特別話したいことでもないから話を逸らそうと試みたが、エリはまったくその話題から離れる気配がない。
「だって、だってよ? てっちゃんが秋野のとこ引っ越すっていったら一大事じゃない? どんな口説き文句に落とされたのかと思うじゃないー!」
「そんなんねえわ」
 華奢なビールグラスに口をつけ、哲は内心溜息を吐いた。エリのことは好きだ。酒も強いから飲み仲間として不足はないのだが、猪田と並んで聞きたがりなのが厄介だった。
「じゃあなんで同居することにしたのよー!」
「部屋探しすんのも面倒だったし」
「ちょっとぉ、誤魔化されないわよぉ」
 エリは地を這うような声で言い、煙草を銜え──エリが禁煙の店を選ぶわけもない──金張りの重たそうなライターで火を点けた。今日はライターがおっさんくさいせいか、仕草がやたらと男っぽく見える。ちなみに服装はデニムにブルー系の色が交じりあったニット。そう書くとシンプルだが、ニットには極細のラメの糸が織り込まれているらしく、間接照明の下でちかちか光った。
「いくら面倒だって秋野のとこに転がり込むなんて今までなら論外だったじゃないのよ……まあ、その辺は後で追及するとして」
「すんな」
「するわよ! その前にお酒追加するわね。てっちゃんそろそろ別のにする?」
「ああ」
 エリがテーブルにさりげなく配置された呼び出しボタンを押して店員を呼び、注文だの配膳だのがされる間話はアイーダの新人のことに終始した。そのまま忘れてもらえねえかなと思ったものの、哲の願い空しくエリはまたその話を持ち出してきた。
「で? なんで前のアパート出ちゃったわけ?」
「……出たくて出たわけじゃねえよ」
 まったく、猪田といいエリといい、食いついたら案外と離れない。
「老朽化で水回りとかがいかれちまったみてえ。耐震構造とかそんなんがやばいのは端から分かってっから誰も気にしてねえけどな。壁ん中の配管から漏水して、二部屋水浸しになったんだってよ」
「てっちゃんとこも?」
「いや、一階。ウチは無事。まあでも、そんで大家も渋々建て替えることにしたって」
 川端によると現在の住民は希望し、且つ完成が待てるなら優先的に入居できることになっていた。だが、オートロック物件と聞いた時点で哲の入居はなくなった。
「新しくなりゃ家賃も高くなるしな」
「それはそうねえ。格安っぽかったもんね、てっちゃんの部屋」
「見た通りボロかったからな」
「そうなんだ」
 笑い声を上げるエリは今日も綺麗にネイルをしていた。細かいラメが入っているらしく、エリが箸を使う度上品な煌めきが目の端を過る。服のラメも光っているから、全身が輝いているようだ。
 哲にはピンクとしか言い表しようがないが、子供服みたいな色ではないピンク。黄味がかってオレンジに近い夕焼けみたいな色が、エリの指先をあたためているように見えた。
「それで? 秋野がそれならうちに来いって?」
「そう」
「身ひとつで?」
「そう」
「もうー! てっちゃあぁん! 何でもそうって言うんでしょ絶対っ」
「よくわかったな」
 エリは指を伸ばし、哲の肩口をぐいぐい押した。
「よくわかったなじゃないわよ!」
「痛えよ、尖った爪で刺すなオイ」
「だってそうやってさあー! ちょっとくらい教えなさいよ! 幸せのお裾分けしなさいよ!」
 別に幸せじゃねえと言いかけて哲はなんとなく口を噤んだ。
 エリが想像するような幸せは、多分秋野と哲の間には存在していない。以前とは違う。それは確かにそうだけれど、例えばごく当たり前のカップルのような関係ではないと思う。自分たちは特別だとか言いたいわけでは決してなくて、ただそうではないと言うだけだ。
 それは多分に哲のせいなのだろう。秋野の内面だけ切り取るならば、歪んでいようがいまいが、哲に対する紛れもない愛情だとかそういうものが──あの野郎も大概物好きだ──あるのだから。
 だが、これがエリの夢見る関係とはまるで違うものだとしても、少なくとも哲にとっては失いたくない何かであるのは誤魔化しようのない事実だった。それを手にしていることを幸せと呼ぶのなら、自分は幸せなのかもしれない。煙草を銜え百円ライターに目を落としながら口を開く。
「老朽化で取り壊すんだってよ、つったら、次住むとこは決まってんのか、って。それで」
 エリは煙を吐きながらゆっくりと瞬きした。
「決めてねえ、これから探すって言ったらここに来いって。そんだけだ」
「なぁにぃ、秋野ったらもっとすっごい殺し文句でてっちゃんを落としたと思ったのに! それじゃあ知り合いに部屋を貸すただの親切な人じゃないのよう!」
 バタバタするエリに思わず笑いながらその時のことを思い出す。
 本当のことを言えば、ちょっと盛っているくらいなのだ。半分寝惚けたみたいな不機嫌な顔で、哲の掌に鍵を押し付けてきた指の感触。殺し文句どころか何を言われたわけでもなかった。ただ、もう帰らなくていいと言われただけ。
「大丈夫だ、心配すんな。自分んときはきっとすげえ殺し文句が聞けるって」
「そう!? そう思う?」
「んー思う思う」
「心が篭ってないわよう!」
「いや、マジで思ってっから」
 哲は手を伸ばして酒を取り、エリの猪口に注いでやった。
「欲しいもんが必ず手に入る人生なんかねえけどよ、逆に考えりゃ手に入らねえって決まってるわけでもねえし」
「そうねえ。まあ、そうよねえ」
 溜息を吐きながら一気に猪口を空けたエリは、更にでかい溜息を吐いた後にガハハと笑った。
「最後に一発デカいのを当ててやりゃあいいってことだ!」
「おい、うっかり野郎っぽくなってんぞ」
「あらやだぁ」
「つーか当てるって、馬じゃ──ああ?」
「何? あっ、ちょっと何よ!」
 エリは哲のスマホを覗き込み、両方の鼻の孔から思い切り煙を吐き出した。
「何なのよー!」
「何って言われても」
 別に頼んでいない。哲が眉間に刻んだ皺を眺めてまた煙を吐き、エリは爪の先で液晶──そこに表示された秋野からのメッセージ──を突き刺した。
「迎えに来るとか、ラブラブ新婚さんかっていうのよ! っていうかもうその辺にいるってどういうことなわけっ」
「知らねえよ、俺は呼んでねえし」
 スマホの電源を切ってポケットに捻じ込む。煙草を灰皿で揉み消して箸を取ったら、エリが首を傾げて哲を見た。
「え、行かないの?」
「はあ? 行かねえよ。何で俺が保育園児みてえに迎えに来てもらわなきゃなんねえんだよ。あの野郎は俺の親かっての」
「行きなさいよ!」
「何でだよ」
「やだもう、てっちゃんたら! 帰ってほら帰ってー! あたしも帰るから!」
「何なんだよ!?」
「だって秋野に幸せだって感じてほしいじゃない!」
 店内に音楽が流れていたことに初めて気づいた。ごく微かな音量のピアノ曲。哲にはどういう音楽なのかよく分からない。いかにも洒落た店でかかっていそうな洒落た曲。
「──あたし、てっちゃん大好きよ」
「そりゃあどうも」
「だから、てっちゃんがしたくないって思うことまで無理矢理してくれなくていいのよ。でもさあ、秋野ってああ見えて──」
「嫌じゃねえよ。分かった、帰るから」
 遮って言ったらエリは頷き、嬉しそうに笑った。エリの纏うニットやネイルの輝きはあくまでも人工的なものだ。だが、どうしてそれがエリ自身からも滲み出て漂う煙の中にも見える気がして、哲は目を瞬いた。

 

「頼んでねえだろ、迎えとか」
 顔を見るなり言ってやったが、仕入屋は聞いているのかいないのか、ただそこに立っていた。
「クソ虎野郎」
「そんなに嫌だったら出て来なきゃいいだろ」
「嫌ってほどのことじゃねえし、エリが耀司みたいになってるし」
「勝が耀司?」
「てめえは父性愛をくすぐるタイプじゃねえと思うけどな。あ、エリは母性か? まあどっちでもいいけど」
 何となく想像がついたのか、秋野は小さく笑った。
「心配性の集まりなんだ、俺の周りは」
「みなさまに愛されてんなあ、おい?」
 ただの軽口で、深い意味なんか欠片もない。それでも薄い茶色の目の奥を束の間過った何かに、秋野自身も哲も気が付いた。
 秋野が哲に与えようとするものが何か、今はもう分かっているが、自分がそれを返せるのかはまだ分からない。昔とは違う関係になった今でも。鍵のかかったドアという歯止めを失った今でも。
 いや、だからこそ、自分は足を止めているのかもしれないとさえ思う。
「──そんな顔すんじゃねえよ」
「どんな顔に見える?」
 秋野は微かに首を傾げ、どこか自嘲めいた笑みを微かに浮かべて歩み寄る哲を見つめていた。
「足りねえのは俺で、お前じゃねえ」
 秋野の背後に重なり浮かび上がる店の明かり。不景気だなんだと言ったって、闇なんて言葉が意味を持たなくなるくらい、夜は明るい。
「それなら、どうして来たんだ」
 秋野はすぐそこに立った哲に向かって穏やかに問いかけた。

──迎えに来た
──待ってる

 電報みたいなメッセージ。無視しようと思ったことに嘘はない。
「仕方ねえだろ、お迎えの時間だっつーんだからよ」
 エリが強く言わなければ、多分すぐには来なかった。だが、結局は来ただろう。腹が立って仕方がないが、まるで夜の飲み屋街だ。隅々まで照らされて、隠せるものなどもう何もない。
「俺はお前の親じゃないよ、錠前屋」
「お前は俺の男だろ」
 腹を殴られたような顔をして、秋野は言葉に詰まって棒立ちになった。
「だから迎えに来たんじゃねえのか」
 口に出すのは二度目だった。普段の悠然とした態度をどこかに置き忘れた仕入屋の顔はなかなか見られないから面白い。
 動揺しきった秋野の顔は、余裕がなくて、何かを恐れるように引き攣って、そうしてなぜか幸せそうにも見えた。