25 不眠

 秋野が数日ぶりに部屋に戻ったら、哲は風呂から出てきたところだった。
「ただいま」
「ああ──戻ったのか」
 ソファに座って煙草を銜えた秋野の前を哲が歩いて通り過ぎる。バスタオルで頭を拭きながらだったので、秋野から顔は見えなかった。
「水取ってくる」
 低く呟いて階下に降りて行った哲を見送り、秋野はソファに腰を下ろした。
 数日顔を見ないのは珍しいことでもない。久しぶりに会ったというわけでもなし、哲の素っ気なさは普段と何も変わらなかった。煙草に火を点けかけ、灰皿が手元にないと気が付いた。立ち上がりかけたところで哲が階段を上ってきたので声をかける。
「なあ哲、悪いがそこの灰皿──」
 哲はミネラルウォーターのボトルを手に持っていたが、灰皿どころか、こちらに歩み寄る途中でボトルを床に落とした。投げ捨てたわけではなく、滑り落ちた、という感じに思わず秋野の眉が上がる。
「哲? 落としたぞ、水」
 まだ言い終わっていないうちに、哲は秋野の上に覆いかぶさるようにして倒れ込んだ。
「痛っ」
 哲の頭が鼻先に激突して一瞬目が眩む。星が散るとはこういう感じか。暴力と縁が深い人生だったが、幸い鼻の骨を折ったことは過去に一度もない。だが、哲の石頭で危うく初めてを経験するところだった。
「お前な──」
 べったりと被さった哲を押しのけ上体を起こす。哲の頭はまるでカボチャか何かのように秋野の胸の上に乗ったままだ。湿った髪に指を突っ込んで顔を横に向けさせる。秋野の鼻を折りかけた錠前屋は、口を半開きにしたまま寝落ちしていた。

 

「あ──?」
「起きたのか」
 秋野の胸の上に預けていた哲の頭が微かに持ち上がる。哲はこちらを見上げようとしたが、ベッドの上に座って脚の間に抱えているので、完全に背中側になっている秋野の顔は見えなかったらしい。普段なら離せとか鬱陶しいとか喚きながら暴れるところだが、哲は上げかけた頭を落とし、小さな溜息を吐いた。
「あー、ぶっ倒れた?」
「ああ。俺の顔に頭突きしてな」
「マジか」
「お前の石頭で鼻が折れるとこだったぞ」
「悪ぃ悪ぃ」
 げらげら笑った哲は、ん、と言って手を顔の横に上げた。煙草の匂いがするからだろう。秋野は銜えていた煙草を摘み、哲の指に挟んでやった。哲はいつもよりゆっくりと吸い付けると煙を吐き、煙草を戻して寄越した。
「寝落ちってことは、不眠がきたのか」
「そう。たまたまてめえがいねえ間にな」
 哲はたまに数日続く不眠になることがある。きっかけは特にないらしく、ある日突然眠れなくなってまた突然解消するらしい。
「風呂に入ってあったまったせいか、突然治りやがった」
 それでもまだ眠いのだろう。ぶっ倒れてからまだ一時間程度、何日も寝ていなかったのなら当然だ。
「治ったなら早く寝ろよ」
 そう言って身体をずらしかけたが、哲が退けようとしないから秋野の動きも途中で止まる。
「何だ」
「あったけえ、背中が」
「重たいよ」
 硬い身体を押しのけてベッドから出る。哲は転がされた姿勢のまま舌打ちしたが、特別文句も言わない。これまた当然、基本的に錠前屋は秋野と並んで眠るのも好きではないのだ、本当は。
 今はすっかり慣れたと見えて拒否こそしないが、そもそも誰かの温もりを求めたりする質ではない哲は、付き合っていた女とも朝まで一緒にいることはほとんどなかったらしい。それはもう哲の性質の問題であって、そう簡単に変わったりはしないだろう。
 そんなことで寂しさは感じないから強制する気は元々ない。嫌がる顔を見て楽しむくらいは勿論させてもらうが、秋野の縄張りで眠ることを許容してくれただけでも僥倖だと思っていた。
 秋野が風呂から出てきたら哲はベッドにはいたが寝転がってはおらず、煙草を吸っていた。まだ治っていなかったのかと一瞬思ったが、眠そうな目をみたら何とか眠気に耐えているのが分かる。
「何やってるんだ」
「ああ?」
「我慢してないで寝ろよ。眠れそうなんだろ?」
 頷いた哲は銜えていた煙草をベッドサイドの灰皿に投げ捨てて、秋野を手招いた。
「何だ?」
 何を求められているのか分からないままベッドに近づく。真横に立った秋野を見上げる哲の目は、眠そうだがいつもと──昔と同じだった。
 険しい、と感じる一歩手前。表情を消すことはあるが、秋野に向ける哲の目が優しげだったり穏やかだったりしたことはほとんどない。もしかしたら一度もないかもしれない。だが、それで構わなかった。そういう錠前屋が死ぬほど欲しくて足掻いたのだ。
 昔も、そして、今もまだ。
 何も言わずじっと見つめる哲に屈みこむ。哲は眠たそうな溜息を吐きながら、それでも秋野の下唇に思い切り噛みついた。優しさの欠片もなく、思い切り歯を食い込ませる。
「──俺がいなくて眠れなかったとか、冗談でも言ってくれる気があるか?」
 戯れに言ってみたら、哲は思い切り鼻を鳴らした後、あるわけねえ、と吐き捨てた。まあそうだろう。当然の反応に思わず笑う。
「そんなんだったら年中不眠じゃねえかお前、てめえがいようがいまいが眠れるし、つーかそもそもあれに理由も原因もねえんだっつーの」
「知ってるよ、冗談だ」
「くだらねえこと言ってんなよ」
 そう言いながら、哲の掌が秋野のTシャツをたくし上げ、脇腹を撫で上げた。硬く乾いた指の感触。哲がこんなふうに触れてくることは滅多にない。
「……哲?」
「いなくたって気になんねえ。戻ってくんなら別にどこで誰と何してたって俺の知ったことじゃねえし、いねえのも気づいてねえことあるし」
「知ってるよ」
 哲の言葉に嘘も虚勢もないから頷いた。まっすぐな睫毛が目の下に繊細な陰影を作る。肉の薄い頬に影が落ち、男くさい顔が更に凶暴に見えた。
「そんでも、目の前にいたら、欲しいと思う」
 聞き取りにくいほど低い、囁くような声。自分でも聞きたくないのかもしれない。それでも哲は静かに続けた。
「欲しくてたまんねえ」
「──眠くないのか?」
 唇の上で呟いた秋野の頬骨を親指で辿りながら、哲は小さく──だがはっきりと呟いた。
「眠れなくたっていい」