24 コインランドリー、幕切れ

 雑踏の中で誰かと目が合うことは意外によくある。その人物を見ていたわけではなくても、たまたま同時に顔を上げたとか、同じ音に反応して同じ方を向いたとか。
 そのとき哲がそちらに目をやったのも、やたらでかい声で叫んだ奴がいたからだった。同じように一斉に反応した人間のうち、たまたま向き合った場所に彼らがいたのは本当に偶然だ。
 こちらを向いていたのはその二人だけではなかったが、なぜか周囲の数名より目についた。目が合ったのは男の方だが、見覚えがあったのは隣の若い女の方だった。知り合いではなく、どこかで見かけただけの顔。ぼんやりと誰だったかなと思いながらも踵を返そうとしたら、男の方が手を振りながら駆け寄ってきた。
「お兄さん!」
 お兄さんて、何だそりゃ。
 そう思って立ち止まり、笑顔を向けてくる男を上から下までまじまじと眺めた。今風のスリムなスーツに短髪。会社員風の出で立ちだが、明らかに会社員ではない。スーツは似合うが、どこかの虎野郎同様衣裳として似合っているのであって、身体の一部という感じがしない。第一、スーツ着用の職種にしては髪の色が明るすぎた。
「元気でした?」
「……どちらさん?」
 まったく思い出せないので正直に訊ねると、男はあからさまにがっかりした顔をした。少しばかり芝居がかりすぎている、と思った瞬間何かが引っかかり、男が喋り出した途端に記憶の中からそれが飛び出してきた。
「あれ以来コインランドリー来てないんすか?」
 芝居。コインランドリー。近所の若い男。売れない俳優とかいうやつだ。ついでに女に見覚えがあったことも腑に落ちた。何かのCMかポスターか、とにかくそんなもので目にしたタレントか何かだ。多分仕事仲間か、知り合いか。
「ああ──行ってねえ」
 面倒くせえなあ、と思いながら答えたが、男は相変わらず気にする様子もない。そして相変わらず距離が近いから、哲はきっちり一歩後ろに下がった。
「そうなんだ。俺、お兄さんに会えるかなあと思って時間帯変えたりして結構顔出してたのにな」
 本気で残念そうだが、売れないとはいえ俳優ならその程度の演技はできるだろう。
「ああ、そう」
「あっ、ひどい。冷たいっすね」
「冷たいっつーか……そもそもあんたが誰なのかも知らねえし」
「だからご近所さんっす」
 男は甘ったるく笑いながら哲が折角開けた一歩を詰めた。
 哲にどんな芸能人が売れるか売れないかなんて分からない。だが、売れないとは言え男は綺麗な顔立ちをしているし、人混みの中ではそれなりに目立つ。だから哲がぼんやり周囲を見ていたときに目についたのだろう。曲がりなりにも俳優で食っていこうとしているのだから一般人よりは輝きがあって当然か。しかし、残念ながら──と、内心思いながら、哲は小さく溜息を吐いた。
「待ったか?」
 いつの間にか俳優の背後に立っていたこの男と彼は、比べるべくもない。
「遅え」
「仕方ないだろう、俺のせいじゃないよ」
 仕入屋は薄い色の目を細めて笑った。
 背が高い分見えやすいというのもあるだろうが、それだけではないのは分かっている。
 哲は獣みたいな存在感そのものに意識が向くから忘れがちだが、よく見たら並外れて端正な顔立ちなのだ。酒みたいな色の薄茶の目の色も、羽毛か、と突っ込みたくなるような睫毛も。パーツだけではなくて発散される何かが、とにかく犯罪者としては致命的に注目を集めやすい。哲自身は犯罪者かどうか微妙なところではあるが、それでも人の多いところではできるだけ一緒にいたくなかった。
 しかし仕入屋本人は顔を出す地域を選んだりはするものの基本的に無頓着で──身を隠すとなればいくらでも隠せる自信があるからだろう──今もご近所俳優の驚いた顔とすれ違う女の物欲しげな視線には何の興味もなさそうに、自然体でそこに立っていた。
 ミリタリージャケットにデニム、と文字にしてしまえばありきたりだが、多分どちらもハイブランドだ。シンプルなグレーのニットもそれらとそう変わらない値段がするに違いない。
 ちなみに昨晩勢い余って同じくらいお高いだろうシャツを一部引き千切ってやった。お返しなのか違うのか、迂闊に思い出したら膝が笑いそうなことを散々されたしさせられたが、それこそこんなところで思い出せることではないので頭の奥に押し込めて蓋をした。
「ああ、こんにちは」
 秋野はぽかんと口を開けて自分を眺めている俳優にさも今気づきましたという笑顔を向け、哲にはしれっと「知り合いか?」と訊ねてきた。まったく、スーツの男が誰かなんて百も承知のくせに、面の皮が厚いにも程がある。
「知り合いじゃねえ」
 唸った哲の声に我に返ったらしく、俳優の顔面にさっと笑顔が戻ってきた。
「ひどいっすねえ……この間ちょっとお会いしてお話した知り合いっす」
「だから知り合いじゃねえし」
「それは知り合いの基準によると思うけどなあ。俺にとっては立派に知り合いっすよ。で、こちらは」
「同居人」
「彼と用があるなら俺は先に帰ってるけど」
 心にもないことを言う秋野の目が細められ、唇の端が吊り上がる。もしかすると通りすがりの女には素敵な微笑みなんてものに見えたりするのかもしれない。だが、哲と、それからしつこく言うが曲りなりにも俳優──他人の表情を観察し、再現するのが商売の男──には、まったくもってそんなふうには見えなかった。
「用はねえ。じゃあな」
 声を掛けたら頷きはしたものの、口を噤んだまま呆けたように突っ立っている俳優は、さっきと違って色褪せ人ごみに埋没して見えた。
「──ろくでもねえな、お兄ちゃんが凹んで俳優オーラなくしちまっただろうが」
「俺は何もしてないよ。オーラってなんだ」
 すっとぼけたことを言いながらにやにや笑い、秋野は哲を横目で眺めた。
「お兄さん?」
「うるせえなあ、俺がそう呼べって言ったわけじゃねえし、つーか俺は体操のお兄さんかってんだよ」
 言い終わらないうちに秋野が立ち止まり、何かを思い出したように「ああ」と呟いたので哲も「ああ?」と口に出しながら並んで立ち止まった。
 人目のある路上で抱きしめられたことなんか嘗て一度もなかったから、一瞬途轍もなく馬鹿なことを考えた。空から隕石とか何かが降ってきて、こいつは俺の頭を庇おうとしているのだろうか、とか。
 哲が我に返る寸前、哲の背中に回していた手を退けて、秋野が背後を一瞥した。気が変わって追いかけてこようとしていたのか。今度こそ棒を飲み込んだみたいに直立して硬直した俳優が目に入って、哲は大きな溜息を吐いた。
「てめえな──」
「せっかくの猿芝居が無駄になるからな。喚いて俺を殴ったり蹴ったりするなよな」
「自分で猿芝居って言うんじゃねえよ……」
「目立てばいいんだ、目立てば。これでもう寄ってこないだろう」
「追い払いてえと思ったら自分でやんだから余計なことすんじゃねえよ、まったく」
 件の猿芝居を目撃した女が二人、秋野に笑顔を向けられてきゃあきゃあ言っている。
「どうやって? 寄ってくるなって蹴っ飛ばすか?」
 女たちに目を向けたまま、仕入屋は風に乱れた前髪をかき上げた。
「いや。同居人は俺の男だって言う」
 ぴたりと秋野の足が止まった気配を感じて哲も立ち止まり、そうしてゆっくり振り返った。

 

 秋野は多分、売れない俳優と同じような呆けた顔を晒して突っ立っているだろう。
 それでも多分あいつが撒き散らす煌めく何かは、色褪せて見えることなんかないのだろう。