22 音楽

 ドアを開けたら爆音のクラシック音楽が突撃してきて、思わず仰け反った哲の口から変な声が漏れた。
 その瞬間音が止み「おかえり」と声が聞こえてきたので、二重に驚く。危うく閉めかけたドアを開け直し、哲は静かになった部屋に入った。
「おい、まさか聞こえたわけじゃねえよな?」
「何がだ?」
 階下から声だけが聞こえてくる。哲の耳に届く秋野の声は少し遠くて籠っていた。この距離にあの音なら聞こえるわけがない。
「いや、何でもねえ。それよりでけえ音だったけど近所迷惑なんじゃねえの?」
 近所に住人はいないが、と思いながら階段を下りた。秋野がこちらを見上げて片眉を引き上げる。黒いニットにブラックデニムと黒ずくめなせいで、仕入屋は吸血鬼か泥棒か何かに見えた。
「防音工事はしてある」
「ああ──店になる予定だったんだから、そうか」
 言われてみれば、と頷きながら哲はゆっくり階段を下りた。
 ダイニングテーブルとカウンターの間にいくつもの物体が置いてあって、コードが床を這っている。哲のオーディオシステムに対する知識と興味は一般的なそれを超えるものではないので、何となくアンプだろうとか、センタースピーカーがどれだとかいう程度しか分からなかった。
「ここに設置すんのか?」
「うん? ああ、いや、違う。知り合いに頼まれてちょっとテストしてただけだ」
 秋野は煙を吐きながらカウンターに近寄った。置いてあった灰皿で穂先を払う。
 外国人のオーナーがダイニングバーをオープンさせようとして頓挫したこの建物は、中二階の内装を残してほとんどの部分が完成していたらしい。風呂や脱衣所は秋野が工事を入れたが、その他は当時のままだった。秋野がここに移ってきて暫く経つが、当時からはドラム式洗濯機と哲以外、増えたものはほとんどない。オーディオシステムは設置前だったらしく、今まで見かけたことはなかった。
「実際に配線しちまうんじゃなきゃ電器屋とかでも試聴できんじゃねえのか」
「ここと大体同じくらいの箱に入れるっていうんで、試したかったとかいう話だ。まあ、暇だったし」
 灰皿の横に置いてあるスマホに目を向け、秋野は続けた。
「しかし最近のものは何でも説明書が紙じゃないよな」
「年寄り発言だな、ジジイ」
「うるさいよ、ガキ」
 長い睫毛を透かして哲を一瞥し、秋野はスピーカーのひとつに載せてあったリモコンを手に取った。ボタンを操作するとまた爆音でクラシックが流れて──というかぶつかってきた。
「うるせえ!」
「はいはい」
 秋野は喚く哲に笑いながら音量を下げた。それでも結構なボリュームで流れ出す音をものともせず、スピーカーの前にしゃがんでみたり離れてみたり、哲には分からない何かをチェックしているようだった。
 哲はカウンターのスツールを引き出して前後を逆にし、カウンターに凭れるようにして煙草を銜えた。目の前で無駄な動きを一切見せずに動き回る黒ずくめの仕入屋は、今はスピーカーのお世話をしている黒子に見える。間違っても音楽に合わせて踊る舞踊家には見えない。秋野のことだからできなくはないのだろうが、芸術的なことに勤しむ姿はまったくもって想像の埒外にあった。
 だが、藪の中に蹲っているところ、そこから素早く飛び出して獲物──動物でも人でも──に襲い掛かるところは容易に想像できた。本能のままに動く秋野は、踊らなくてもさぞ優雅だろう。
 つまらないことを考えていたせいか、それともクラシック音楽のせいか、急に眠気が襲ってきた。哲は煙草を灰皿に放り、椅子の向きを変えてカウンターに突っ伏した。それからどれくらい時間が経ったのか、横に人の立つ気配で目が覚めた。
「お前、この騒音の中でよく眠れるな」
「──んあ?」
 欠伸を噛み殺しながら身体を起こして伸びをする。音楽は止まっていたが、なんだかまだ耳の奥に音が残っているような気がして落ち着かなかった。
「クラシックって好きじゃねえ」
「そうなのか」
「なんつーか、すげえのは分かるんだけどよ、それよりまず眠くならねえか」
「そうか? 別にならんが」
「あー、あれかな、授業で聴かされたから条件反射かもしんねえけど……お前の趣味?」
「違う。音楽なんか聴かないからMP3で何か寄越せって言ったら、送ってきたのがクラシックだったんだ」
 そう言って、秋野は哲に掌を差し出した。
「何だよ」
「スマホに何か音楽入ってるだろ。かけてみるから貸してくれ。クラシックじゃないやつがどんな感じになるか聴いてみる」
「ああ……いいけど」
 哲はスマホを取り出してミュージックアプリを立ち上げた。最近聴いているアメリカのバンドの曲を選んで表示させる。Bluetoothでアンプに接続するらしく、秋野が何度か画面をタップすると、スピーカーからボーカルの声が流れ出した。
 哲が寝ている間に絞ったらしい音量を上げながら、秋野は首を傾げて音の反響か何かを確認している。このジャンルにしてはわりと特徴的なボーカルの声が響き渡った。好みの声質とは少し違うが、曲に合っていて、伸びやかさが心地よかった。顔も知らない男が歌う曲、流れる音の洪水。今度は眠くなるなんてことはなかった。音につつかれた神経の先がびりびりする。
「大音量で聴くといいよな。やっぱ好きだ」
「──声が?」
 いや、曲が。
 答えようとしたが、声が出なかった。
「俺の声と、どっちが?」
 獣みたいな獰猛な笑みを浮かべた秋野の顔がすぐそこにあって、笑いを含んだ、しかし鋭い視線に幻惑されて立ち竦む。
 馬鹿みたいな質問だと、口にした本人も分かっているのが明らかな笑い声。喉の奥を震わせるような微かな音にうなじの毛がわっと立ち上がる。まるでドラムとベースが刻むリズムのように脈拍が速くなったのは、捕食者から今すぐ逃げ出せという脳の指令か、それとももっと別のものか。
 うねるギターと絡み合う声、腹の底に響くベースの音、微かに振動する空気と足元の床。
 火の消えた煙草の匂い、それから、目の前で笑う男の匂い。
「知ってることいちいち訊くな、面倒くせえ」
 食いしばった歯の間から押し出した声が聞こえなければいいと思ったのに、秋野はにやにや笑って哲の頬を撫でた。
「聞こえてるよ、馬鹿だね」
「くそったれ──」
「お前が帰ってきた音もちゃんと聞こえてた」
 秋野の吐息が唇の上で踊る。
 音が哲の頭蓋に響き、跳ね返って秋野の中で木霊する。床を伝わる重低音が背中に響き、音の塊と秋野の一部を詰め込まれた身体が震え、破裂しそうに錯覚した。
「──哲」
 掠れていても、大音量の歌声を押しのけはっきりと耳に届く、深くて低い秋野の声。
 どんな音楽より、はっきりと。