21 通り魔事件

 その日、街頭のスクリーンやラーメン屋のテレビに映ったニュース、それからネットニュースが盛んに報じていたのは通り魔事件だった。
 帰宅する会社員や学生で混雑する夕方の駅ビル前で大型カッターナイフと金属バットを手に暴れた男が逮捕されたらしい。ニュースによると重症者が一名いたが切りつけられたりはしておらず、逃げようとして転び、骨折したということだった。
 他にも怪我人は多く出たが幸いにも死者はゼロ。たまたまその場にいた非番の警察官と運動部の学生が取り押さえたとかいう話で、SNSには動画が溢れ拡散されて増殖し、テレビは視聴者からの投稿動画を延々と流し続けていた。
 秋野が仕事で訪れたスポーツバーのスクリーンはさすがに海外のサッカー中継に切り替わっていたが、駅からほど近いせいか現場にいた客が複数いるらしく、あちらこちらで若干興奮気味に語り、ネット上の動画を見せ合う姿が目についた。
 その場にいたその瞬間は恐怖に竦んで動けなくとも、事が終われば非日常だけが記憶に残る。
 楽しんでいるわけではない。不謹慎だと分かっていても滅多に遭遇しない事件に興奮してしまうのは当然だし、別にそれを責める気もない。
 ただ、これだけ大量の映像やニュースが流れれば、例えテレビを観なくてもどこかでそれは目に入る。秋野が目下気になるのは、哲が別の通り魔事件を思い出してはいないかということだった。
 当時を思い返して恐怖に駆られるような繊細な神経を持った男ではないが──というか、そもそも当時からして恐怖心はなかっただろうが──本気で秋野から遠ざかろうと決め、結果失敗したにせよ、哲なりの強い意志で実行した当時の気持ちを思い出してほしくないだけだった。
 あの時と今では状況が違う。頭では分かっているが、それこそ気持ちの上ではそうはいかない。信じていないとかそういうことではないのだが、他人どころか自分自身にも説明するのは難しかった。
 だから、鍵を開けて建物の中が真っ暗だと気が付いたときには一瞬息が詰まった。
 勿論、戻っていなくて何の不思議もない。というか、時間からすると帰宅している方がおかしいのだ。
 まったく情けないと嘆息し、照明を点けながら階下に下りる。食事は早い時間に軽く済ませていたし、そもそもあまり食欲もなかった。酒の棚に置いてあった貰い物の瓶を適当に掴み、グラスに氷を放り込んで液体を注ぐ。秋野は氷にひびが入る破裂音に耳を澄ませた。
 氷が溶けてアルコールと混ざり、陽炎のように揺れる。ライトに照らされてやたらと美しく見えるその揺らめきを、口をつけるでもなくぼんやり眺めていたら、外階段を上ってくるスニーカーの足音がした。
 中二階のドアが開いて閉まる音。ドアを開けてすぐ立ち止まった足音が階段を下りてくる。グラスから視線を上げたら、カウンターの向こうに哲が立っていた。
「ただいま」
「早かったな」
「客が少なかった」
 素っ気なく言って、哲は秋野の手元に目を向けた。
「俺にもなんかくれ」
「……何がいい?」
「アルコール度数がビール以上なら何でもいい」
 手に持っていたグラスを差し出しながら「口はつけてない」と言ったら、哲はグラスを受け取りちょっと眉を上げた。
「別にそんなん気にしねえけど。何だよ、不景気なツラしやがって」
「世の中不景気だろ」
「てめえは不景気知らずじゃねえか、犯罪者」
「そんなこともないよ。金払いの悪くなる客もいるんだし」
「ふうん」
 哲はグラスの酒に口をつけ、カウンタースツールに尻をひっかけた。
「取り立ては自分でやんのか」
「いや、相手による。顔見知りなら自分で行くこともあるが、直接顔を合わせてない相手だったらわざわざ面が割れることをする必要もないしな」
「そういうもんか」
「そりゃあ顔はバレてない方が何かと便利だろ。耀司はそういうところにはやりたくないから基本的に取り立て屋で食ってる奴に頼んでるよ。あまりえげつない取り立てすると騒ぎになるし──まあ、それ以前に支払いを渋る客は滅多にいない」
「確かにてめえの取り立てはえげつなさそうで怖え」
 笑いながらグラスを傾ける哲は普段と変わらず、喉の奥に痞えていた空気の塊のようなものがようやく少し小さくなった。
 とはいえ、何事もなかったように振る舞い疑問を抱かせないくらいのポーカーフェイスは哲にもできる。
 普段から何もかも丸出しの態度のせいかそういうことは不得手と思われがちだが、錠前屋は表情を隠すことがとても上手い。なんだかんだ言って、不器用という言葉とは対極にいる男だ。実際初対面から暫くの間、哲は秋野に対してもずっと腹の底を見せない態度と無表情を通していた。
「……お前、今日はテレビ観たか?」
「ああ? バイト中は見ねえけど」
 哲はグラスをカウンターに置いて煙草を取り出しながら続けた。
「通り魔の話なら聞いたぜ」
「ああ、そうか」
「背中の古傷が痛みますってか?」
「そういうわけじゃない」
 哲は煙草を銜えたまま煙に目を細め、数秒秋野を見つめて目を逸らした。ダウンライトに照らされてまるで重さがあるかのようにたゆたう煙。酒の中で揺れ、混じり合おうと蠢く水分のように、光と影の隙間を這っていく。煙草を挟んだ哲の指先に煙が触れた。煙草を持っていない方の哲の手が、カウンターの上の秋野の手首を無造作に掴んで持ち上げる。
「いい加減覚えろ、ボケ老人」
 素っ気ない声で吐き捨てながら、哲は秋野の手を興味深い錠前でも検分するかのようにじっと眺めた。
「他にどこも行くとこねえっつってんだろ」
「容れ物はな──知ってるよ。でも、分かってても心配になることがあるだろう、誰だって」
「知らねえよ」
「お前ねえ」
「もうあんなのはご免だけどよ」
 低い声で呟くと、哲は不意に秋野の掌に強く頬を押し付けた。頬を掌に預けたまま、静かに煙草を吸いつけてゆるゆると煙を吐く。
「お前が刺されたりするんじゃなきゃ別に、あん時を思い出してどうこうってこともねえよ」
「また刺されたらまた同じことを?」
 問う声と言葉が硬かったのは意識してのことではなかった。知らず強張った指が哲の頬骨を擦る。
「ああするのが正しかったんだろうとは思ってる、今でも」
「……」
「でも無駄な努力だったっつーか、正しいからって完遂できるわけじゃねえって身に沁みたから、もうしねえ」
 また喉が痞えたが、さっきとは理由が違った。身体の反応は同じでも、思うところはまったく違う。力の抜けた掌が支えを失って滑り落ちかけ、哲の手に掴まれて中途半端な位置で止まった。
「飯食いに行く。お前も行くか?」
「──賄いは?」
「どっかの年寄りが泣いてんじゃねえかと思って少し早く上がったからな。食ってねえよ」
「客が少なかったって言ってなかったか」
「嘘だよ、嘘」
 にやりと笑った哲が掴んだ手を引き寄せて、遠慮のかけらもなくがぶりと手の甲に歯を立てた。
「痛いよ」
「腹減った。さっさと出てこい、手ぇ食っちまうぞ」
「わかったよ、まったく」
 放り出された手の薄く歯形がついた甲をさすりながらカウンターを回る。哲はにやにやしながら秋野に向かって煙を吐きかけ、立ち上がって煙草を灰皿に放り込んだ。勢いよくグラスの残りを呷った哲は秋野の背後から歩いてきたが、階段を上りかけたところで「なあ」と声をかけてきた。
「うん?」
 振り返り見下ろす顔は初めて会った頃とほとんど変わらない。初めて見た錠前屋は二十代半ばだったが、既に老成した目をしていたからか印象は驚くほどそのままだった。
「もう鈍くさく刺されたりすんなよ」
 あの頃と同じ目をして哲は言う。
「あれは一生の不覚だったな」
「二度と見せんな、あんなとこ」
「情けないから?」
「心労で俺が死にそうになんだろうが」
 渋面とは正にこのこと。嫌そうにしかめた顔に手を伸ばした。余計に上った二段分、普段より小さく感じる哲の身体。抱き締めてみたら大きさも硬さも普段と変わらなくてなんとはなしに笑ってしまった。
「何笑ってんだてめえ」
 思い切り蹴られて思わず歯を食いしばる。
「なあ、哲」
「ああ?」
「食事は後にしないか?」
「何言ってやがる、腹減ってるつってんだろ」
「つれないねえ」
 秋野を力任せに押し退け、空いた隙間を無理矢理通って階段を上がりながら、哲はつまらなさそうに吐き出した。
「食った後ならいいぜ、別に」
「前も後もそう変わらんだろうに」
「はあ? 何寝惚けたこと言ってやがんだ、燃料補給だ燃料補給。腹が減っては戦ができぬってお前知らねえのか」
「……戦なのか、セックスは?」
「つーかタイマン?」
 呆れた秋野を肩越しに振り返って答えた哲が真顔だったから、思わず吹き出した。
 伸ばした腕。
 握り締めた髪の感触。嘗て刃物が食い込んだ傷跡の上に感じる掌の熱。流れた血の代わりに流し込まれる何か、耳の奥底で唸るノイズ、思い切り齧られた舌のちりちりとした痛み。
「先に飯だっつってんだろ!」
 手加減なしで秋野の頬を張った錠前屋は、同じ手で口元を拭いながらさっさと階段を上り切り大股で部屋を横切ってドアに向かった。
「まったく──元気じゃないか」
 苦笑しながら頬をさすり、秋野は半分閉まりかけたドアのレバーに手を伸ばした。