20 海外出張

「何遍も言うけどガキじゃねえんだぞ」
「そんなことは分かってる」
 本気で不機嫌な秋野と向かい合う場合、気を引き締めていないと膝が笑う。
 格好をつけているわけではないが、心理的には決してびびっているわけではない。ただ、身体は勝手に怯えるらしい。
 もしも哲に犬の耳があったらぺったり後ろに倒れていて、尻尾があったら脚の間に挟んでいる。ついでに鼻に皺を寄せて歯を剥いているところだろう。犬のように目視可能な耳や尻尾がなくて本当によかった。いくらバレバレだとはいえ、そんなのは男の沽券にかかわるというものだ。
 それはさて置き、野郎が不機嫌なのは望まない仕事で海外に行くからだ。
 アンヘルが捻じ込んできた仕事とかで、どうしても現地──どこかは訊いていないから知らない──でやることがあるらしい。それだけなら別に珍しいことではないのに何をイラついているかというと、予定の期間が一ヶ月以上としか示されず、最終的にどれだけ長引くかまるで読めないから……ということのようだった。
「別に一人で何もできないとか思ってるわけじゃない」
「そりゃそうだろお前、今までずっと一人だったんだからよ」
 哲は普段よりめかしこんだ秋野を見上げて溜息を吐いた。
「大体、一ヶ月やそこら顔見ねえことくらい珍しくもねえだろうがよ」
 普段よりかっちりセットされた前髪のせいで、黄色っぽい目が露わになっている。パスポートに合わせて濃い茶色のカラーコンタクトを入れるらしいが、今はまだ元の色のまま。濃く長い睫毛に縁取られた瞳が剥き出しになっているせいで、喉元から鎖骨のあたりがざわざわした。
「前はな」
「……」
 確かに、一緒に暮らすようになってからそこまで長い不在はなかった。長くてせいぜい数週間程度だろう。
 とはいえ、期間が読めないと言っても数年に亘るとかいうわけではあるまいし、連絡を取ろうと思えばいくらだって方法はある時代だ。
 しかも嘗て秋野から離れようとして──甚だ不本意ではあるが──食えなくなった自分の方ならともかく、その間も人のアバラを平気でへし折るくらい元気溌剌だった奴が一体何を言っているのやら、と思う。
「まさかとは思うけどよ、俺が寂しくて泣くとか思ってんのか?」
「まさか」
 つまらない想像をしたらしく、秋野の口元がちょっと緩んだ。
「じゃあてめえが泣くとか?」
「泣かないよ」
「そんなら何だっつーんだよ」
「……あの近所の俳優とか、」
 思い切り舌打ちした哲の顔を眺めながら、秋野は僅かに首を傾げた。
「心配することは色々あるだろう」
近所の俳優というのはコインランドリーで会った若い奴のことだ。頼んでもいないし知りたくもなかったのに秋野がレイに調べさせたところによると、あの男の本業は売れない劇団俳優。コインランドリーのすぐ近所に住んでいるらしい。本当に売れていないので、アルバイトをかけもちして食っているのだとか。
 一番大きな収入は哲が思った通りの客商売、ホストのバイトで、そちらでは結構稼いでいるようだった。報告によると男に入れ込んだキャバ嬢とどこかの女社長が取っ組み合いの喧嘩をしたこともあったそうだ。
「てめえは俺を馬鹿にしてんのか」
 思わず眉間に皺が寄る。
「万が一あの兄ちゃんが血迷ったとして、それで俺がどうにかされるとでも?」
「そういうことじゃないだろう」
「何がだよ、そういうことじゃねえか。あんなのお前、二桁人数いたってストレッチにもなんねえわ」
「それは知ってる」
「だったらなあ」
「でもな──」
 しつこく心配とやらをされいい加減イラついて、哲は思わず声を荒げた。
「まったくガタガタうるっせえな! あんな兄ちゃんどうだっていいし、そもそもてめえ以外眼中にねえし、てめえのことばっか考えてんだぞ、目の前にいようがいまいが変わんね──」
 黒いスーツに白いシャツ。ノーネクタイの喉元を顎が痛くなるほど齧ってやりたい。哲の迂闊な発言ににやつく男前面に拳を叩き込んだらさぞやすっきりするだろう。
「──くそったれ、死ね! さっさと行けクソ虎!」
 笑いながら戸口に向かうスーツの尻に思い切り前蹴りを食らわせた。秋野は数歩よろめいて振り返り、やっぱりにやけたまま歩み寄ってきたかと思うと、両手で哲の顔を掴んで唇に噛みついた。
 キスなんてとても言えない。
 セックスより質が悪い。
 身体をぐるりと裏返されて食われているような気分になる。血肉と骨と粘膜と、自分を構成するなにもかもを舐めしゃぶられて、そのままこいつの口の中でぐちゃぐちゃに溶けて崩れてしまいそうだ。
 気が付いたら腰を支えられて立っていたが、さっきまでとは違う理由で膝ががくがく揺れていた。
 唇が離れ、間近から覗き込んでくる色の薄い瞳に吸い込まれそうになる。秋野は最後にもう一度、今度は至極真っ当なキスをして、行ってくると言うと振り返りもせずに出て行った。
「異人さんに連れられてってくたばっちまえエロジジイ……」
 床にへたり込んで言ったところで格好悪い。
 哲はそのまま仰向けに転がって、暫く放心したまま天井を眺めていた。

 一ヶ月もしないうちに仕入屋は帰国した。
 それが優秀だからなのか、堪え性がなかったからなのか、本当のところは哲も知らない。