19 コインランドリー

「お兄さん」
 コインランドリーの椅子に腰かけてスマホでニュースサイトを見ていたら声がした。
 目を上げると、出来上がった洗濯物を畳みながらこちらを見ている男と目が合った。
 数分前に自動ドアが開いて、哲が座っているのとは反対側へ歩いて行った男だ。
 きちんと見たわけではないが、デニムと素足につっかけたビルケンの黒いサンダルは視界の隅に捉えていた。
「この辺に住んでるひと?」
 微かに首を傾げて訊ねてくる顔はまだ若い。多分哲よりいくつか下、二十代の半ばくらいに見える。
 顎が細くてすっきりした輪郭に整った容貌。色を入れている髪は毛先が少し傷んでいて、カラーを繰り返しているのだろうなと思わせた。
 まったく根拠はないが、見慣れた雰囲気から夜の商売だろうと見当がつく。例えばバーテンダーとかホストとかフロアスタッフとか、哲のような裏方ではなく客の前に立つ職業。
「……ああ、まあ、そう」
 俺んちじゃねえけど、と思いながら記事の続きに目を落としたが、男はまた話しかけてきた。
「最近越してきたんすよね? 初めて見るもん」
 実際には、秋野のところにきて数ヶ月経つ。だが、コインランドリーに来るのは初めてだった。
 秋野が住んでいる建物には洗濯機がない。洗濯物は業者にクリーニングを頼んでいるので、脱衣所のランドリーバスケットに放り込んだらそれで終わるのだ。
 そういうわけで、コインランドリーまで来る用事はないのだが、今日の哲は暇だった。
 元々バイトも休みだし、昨日の仕事が引けてから高山と飲んだせいで体調も今ひとつ。何をする気にもならなくて、一遍覗いてみるかと足を向けてみたのだ。
 頷くだけの哲に会話を続ける意思がないのは分かっているはずだ。だが、男は意に介した様子もなかった。
「ここ、できてから一年くらいだと思うんすけど。でもここでお兄さん見たことないし、そこのコンビニに昼間ちょっとバイトで入ってることあるんすけど、そこでもやっぱ見たことないし」
 畳んだ洗濯物を大きなバッグに詰め込んだ男は、バッグをそのままになぜか哲の座るベンチに近づいてきて、哲の隣に腰を下ろした。
 ゆっくりそちらに顔を向けると、男はにっこり笑ってまた少し首を傾げた。
「一人なんすか?」
「何が?」
 訊き返すと、反応が嬉しかったのか男は笑みを大きくした。女が喜びそうな、シャープな顔つきプラス甘めの笑顔。残念ながら哲には何の効果もなかったが。
「結婚とか、彼女とか」
「ああ、いや。一人。つーか同居人はいるけど女じゃねえ」
「俺もです」
「同居人が野郎ってとこが?」
「あ、いえ、一人ってとこが」
 どうでもいいんだけど、近くねえか。
 あくまで穏やかに、何の害意もなさそうな素振りで詰められた距離に疑問を感じる。だが、何か反応する前にピーピーと電子音が鳴り響いた。
 無言で立ち上がり、洗濯機のところまで行ってドアを開ける。ワゴンにまだ熱いくらいの洗濯物を放り込み、男が置いたままになっているバッグの横にタオルを広げた。
「おお」
「どうしたんすか?」
「すげえ。やっぱ新しいコインランドリーは洗濯機が違うっつーか」
「できたばっかっすからね……って、何がすか?」
「ふわふわでホカホカ」
 真っ白なタオルを掲げてみせる。
「炊き立ての白米みてえ」
 男が吹き出し、おかしそうに肩を震わせて笑う。何をそんなに笑ってんだか、と思いながら畳んだものを袋に入れて、哲はそのまま店を出た。
 ガラス張りの自動ドアの向こうから男が笑顔で手を振って寄越す。
 哲は変なヤツだと思いながら目を逸らし、勿論手は振り返さずに歩き出した。

 その夜、哲は秋野がどこかから持ち帰って来たテイクアウトの中華を食いながら、なんとなくコインランドリーの話をした。
 秋野は何の感想も述べずに「へえ」とか言って笑って聞いていたのだが、食い終わってゴミを片付け、歯を磨いて戻ってきたら有無を言わさず壁に押し付けられ、抱え上げられて突っ込まれた。
 気持ちよくて死にそうだったが、同時に頭に来て死にそうでもあった。
 蹴っ飛ばしたり噛みついたりしてみたものの、結局続けて床の上で、最後はベッドでみっともないくらい蕩かされ、なんだか知らんがもうどうでもいい気分になって、倒れそうになりながらシャワーを浴びてさっさと眠った。
 翌朝、目が覚めたら秋野はいなかった。
 その代わり、ホテル並みにだだっ広い脱衣所には真新しいドラム式洗濯機が鎮座していた。
「……」
 寝ぼけた頭を傾げた自分の顔が鏡に映っている。
 鏡の、ちょうど哲の顔の上。
 素っ気ない付箋紙が貼ってあり、滅多に見ない秋野の手書きの文字──これが、まったくもって信じられないくらい綺麗な字──が書きつけてあった。

 コインランドリー出入禁止

「馬鹿じゃねえの」
 付箋を眺めて溜息を吐き、そして思わず笑いながら、哲はぴかぴかの洗濯機に歩み寄った。