18 G現る(詳細な描写は出てきませんが、苦手な方はご注意を)

 戻って来た哲を見て、秋野は形のいい眉を引き上げた。
「何だ、一体」
「何だって何だ、人の顔見るなり失礼な奴だなてめえは」
「気づいてないのか? ここに──」
「知ってる」
 哲は伸びてきた長い指を思い切り叩き落とし、ドアを施錠している秋野は放置して、中二階の真ん中に足を向けた。
 床のラグの手前でスニーカーを脱ぎ捨てソファに腰かける。だらしなく脚を伸ばして頭を背凭れに預けたら、それだけでもう眠くなってきた。
「……今日店にGが出てよ」
「爺?」
「そう、G」
「ふうん、なんかあれだな、侍みたいだな」
「はあ? 侍だあ?」
「だろ?」
「何? どこが? 何だって?」
「だってほら、時代劇とかで言うだろう、爺」
「じい……ジイ? 爺のことか?」
「何? 違うのか爺」
 暫しジイジイ言い合い分かり合えない会話を交わした後で、二人の意思はやっとのことで疎通した。
「正式名称を言えよ、分かり難いな」
 国内外どこか知らないがどこかの山奥、ギリースーツを着たまま何週間も野宿するような野郎には虫など屁でもないらしい。そいつの襲撃を顔面に受けた半分血の繋がった弟は人並みに悲鳴を上げていたが、兄貴の方は羽虫が飛んだくらいの反応しか見せないかもしれない。
「店でNGワードだから癖なんだよ。仕方ねえだろ」
「NG? 何で」
「知らねえけど、多分あれじゃねえ、嫌な気分になる奴が多いからじゃねえ?」
「ああ、まあ……食い物屋だしな」
「厨房から出たとかっつったらマジで客足に影響すっからな。いるのは当然って思ってるにしても、実際見るとまた違うだろうしよ」
 幸いにもそのGというか爺──あの長いのが髭に見えなくもない──は、外からやってきたようだった。何故そこにいたのかは分からない。どこかの店から飛来したとか、これは考えにくいが誰かが置いたとか。
 とにかく、そいつはそこにいた。会計を終えた客が引き戸を開けた、正にその場所に。
「でけえ声の姉ちゃんでよ」
「ふうん」
「でけえつーか、マライアみたいなすっげえ声で」
 哲は耳に蘇る音を追い払うように首を振った。
 超音波とはこういうものか、と思うくらいの高音が、ブレスなしで長々と響き渡る。
「もう、すげえの。どっからあんな声、てかずっと叫んでんだぜ? いや、分かるけどよ、叫びてえ気持ちなんだろうってのは。でも少し黙っててくれって思わず言いそうになったわ」
 女性客の声に驚いたのか単にそういうタイミングだっただけか知らないが、奴は突然空高く飛翔して店内を混乱に陥れた。
 すわ酔っ払いの乱闘か、と厨房から飛び出してきた哲と他の奴らが見たのは飛び回るGと恐慌を来す客たちで、黒光りする生き物を見た途端早速厨房に引っ込んだ奴もいた。
 哲は奴を含む虫全般が平気なので仕方ないなとフロアに出たが、逃げ惑う女性客の一人に体当たりされ、なんだか知らない間に引っ掻かれて顔に傷を負ったのだった。傷といっても単なる引っ掻き傷、赤い三本線が頬のど真ん中を走ってはいるが、多分一晩経てば消えている。
「皿とか割れるし、疲れた」
「無事捕獲したのか」
「捕獲つーか、おしぼりで叩き落して踏んづけたから、捕獲じゃなくて駆除か?」
 踏んづけた音が嫌だと泣き出した女性客がいて閉口したが、宥めるのは女自身の連れに任せて片づけを済ませ、ようやく平穏を取り戻した店で二時間立ち働いて帰って来た。
「ただの虫になんであんな大騒ぎすんだろうな」
「さあ……俺にはよくわからんが、やっぱりでかくて飛ぶからじゃないか?」
「噛みつくわけでもねえのによ」
「そういう理屈じゃないだろ、怖いとか気持ち悪いっていうのは」
 真っ当な人間みたいなことを言うからなんとなく腹が立ち、脱いだ靴下を丸めて腹のあたりにぶつけてやった。秋野は苦笑して靴下を拾い上げ、洗濯機はないがランドリーバスケットがある脱衣所の方へ歩いて行った。
 天井を眺めながら、そういえば怖いものとは何だろうと考える。
 子供の頃から怖いと思うものがあまりなかった。気が強くて怖いもの知らず、とかいうのとは少し違う。恐怖心がないわけではなく、自分で対処できると思うものは怖くないだけだ。
 長じるにつれ背は伸び、力は強くなって、怖いものは更に減っていった。
 スズメバチの大群とか暴走するトレーラーが突っ込んできたら怖いと思うし、目に見えないくらい高速で移動する人食いゾンビとかも嫌だ。だが、自分自身で捕まえられる動きのもので怖いものはない。
 ──いや、あるか。
 音もなく近寄って来て仰向けた顔を覗き込んできたこいつ。
 薄い色の目は陰になっているせいか、いつもより少しだけ色が暗い。冗談みたいに濃くて長い睫毛が縁取る動物みたいな目が怖い。
「近え」
「そうか?」
「怖え」
 さっきみたいに眉を上げ、秋野は首を僅かに傾けた。
「そうなのか?」
「知らねえよ、近えって」
 面倒になって顔を掌で押しやったら、秋野は笑い声を上げたが退きはせず、耳朶を舐め取り穴に舌を這わせながら、低い声で哲、と囁いた。
 ほら、こんなふうに。
 どうしようもなく腹が立つのに。
 同時に好きにしてくれと思ってしまう。
 蹴っ飛ばして押しやって拳を叩き込んで踏みつけにしてやりたいと思うのに
 引っ掴んで手繰り寄せて唇に噛みついて蕩かされ啜られたいと思ってしまう
「だから、怖えから退けっつーの!」
 足の裏で思い切り胸を蹴ったら、秋野は今度こそ屈めていた身体を起こし、はいはい、とか言いながら離れて行った。
「くそったれ、てめえはGより質が悪ぃ」
 階段を下りていく背中を睨みながら呟いたら、秋野は立ち止まって振り返り、黄色っぽく見える目を細めて微かに笑った。
「そこがいいくせに、馬鹿だね」
「……」
 投げつけたライターは秋野の手前であえなく床に落ち、秋野は階段を下りて行った。
 舌打ちしながら立ち上がり、シャワーでも浴びようと風呂場に向かう。
 その後、どこにでも現れる質の悪いエロジジイに好き勝手され、高音ではなかったものの、シャワーの下で延々悲鳴を上げる羽目になることを哲は知らない。