17 中二階の手すり、錆の……

 久しぶりに秋野を怒らせた。
 虎野郎をイラつかせるのは結構楽しい。いや、嫌がる顔を見るのは至上の喜びだと言ってもいい。
 だが、滅多に腹を立てない代わりに本気で怒らせたらやばいのは知っている。何せ内臓に刺さったりしないように角度と力加減を考えた上で人の肋骨を折るような奴だ。
 だから一応無意識のうちにこれ以上はやらない、という基準は守っているのだが、そんなに腹を立てるなんて正直予想外だった。
 特別理由はないが何かをぶん殴りたい気分だったので、帰るなりちょっかいをかけたら──渋々かもしれないが──秋野も乗ってきた。一階から上がってきた秋野にまずは後ろ回し蹴りを食らわせて、殴ったり蹴ったり組み手めいたことをしていた真っ最中。
 飛んできた肘を避けたついでに秋野のシャツの袖を掴んで身体を回し、中二階のフロアと吹き抜けを区切る手すりに飛び乗った。スニーカーの底に感じるアイアンの硬さと細さ。秋野が足首を掴もうとしてか伸ばした手を蹴り飛ばし、哲はそのまま手すりの向こう側に落っこちた。
 いや、正確にはそうではない。
 落ちるつもりはなかったし、実際下まで落ちたわけでもない。
 伸ばした両手で手すりの縦棒を掴み、昔の消防士が滑り棒を使うようにして止まるところまで落下する。そうしてほんの数秒宙吊りになった。だが、それは勿論想定内だ。
 懸垂の要領で身体を引き上げ、中二階の床──つまり手すりの根っこが設置されている部分に足をかける。多分傍から見たら崖を上る猿みたいな状態で手すりを一気に乗り越え床の上に立ち、そうして秋野の顔を見上げた瞬間、哲は一目散に逃げ出した。
 一秒たりとも躊躇しなかったお陰で無事にトンズラできたものの、そういうわけで財布も携帯も持っておらず、哲は路上で暫し途方に暮れた。
 そろそろ日付が変わろうかという時刻だから、九時五時の勤め人を訪ねるのは気が引ける。かと言って水商売なら大半がまだ勤務中。ちなみに哲は少々早上がりだったのだ。
 さっさと戻る方が傷は浅いのだが、何で俺が奴の顔色を窺わなきゃなんねえんだと業腹でもある。
 当然煙草も持っていないので、哲はとりあえず適当な塀というか花壇の縁というか、とにかくコンクリートの何かの上に腰を下ろした。
 秋野が何で怒ったのかはよく分からない。哲が落ちると思ったのだろうか。
 秋野は決して過保護な質ではない。哲が誰と喧嘩しようと止めたりしないし、寧ろ笑って見物しているほうだ。怪我をしたところで、大して心の籠らない声で大丈夫か、と言う程度。
 中二階から落っこちたところで打撲か骨折がせいぜいなのに、あんな顔をするとは思わなかった。
 哲は前屈みになり、重たい溜息を吐きながら髪に手を突っ込んで掻き回した。
 一緒に暮らすと決めたことで、そこから派生した諸々のことで、秋野の基準が変わったなら。そうだとしたら?
 もう一度溜息を吐いて立ち上がり、前と後ろを交互に眺め、哲は結局踵を返した。

 階段を上ってドアを開けると、秋野はさっき哲が乗り越えた手すりのところに立っていた。
「──お帰り」
 低い声に哲が戻ってきたことへの喜びは感じられない。勿論この状況で喜ばれても気色悪いが、それはさておき。
「……何だよ、何怒ってんだ一体、意味がわかんねえんだけどよ」
 哲の台詞に秋野は薄い茶色の──怒りのせいか、少し色が濃く見える──目を眇めた。
「お前ね」
 漫画だったらこめかみに赤十字みたいなマークがついていそうな表情の仕入屋は、それでもさっきよりは大分マシな顔だった。もっとも、本気で怒ったら寧ろ表情がなくなるタイプなので、怖い顔ではなくなったというよりは人間らしくなったという感じだった。
「何だよじゃないだろう、まったく」
 秋野は吐き捨てるように言った。眉間の皺は滅多にないほど深く、イラついていることを隠そうともしていなかった。
「あんなふうに──」
 心配だとか、落ちたらどうするんだとか。
 当たり前の心配であるはずなのに、秋野の口からそんな言葉が出たらと思うと落ち着かず、無理矢理秋野の言葉に被せて続きを遮った。
「てめえは俺を馬鹿にしてんのか? 落ちるわけねえだろうが」
「何?」
「だから、細腕の女じゃあるまいし懸垂したって自分くらい持ち上げられるし、そもそもさっきも言ったけどあんなとこから落ちるわけねえし落ちたとしたって」
「うるさい」
 秋野の手が伸び哲の胸倉を掴み上げた。持ち上げられて、気が付いたら上半身が手すりの向こうにはみ出していた。
 膝の裏に手すりが当たっているが、膝裏ではさすがの哲も踏ん張れない。腕一本で軽々と哲の身体を支えた秋野の目は底光りして、長い睫毛の向こうから哲を眺めていた。
「素手でアイアンの手すりをあんな風に掴むなんて、摩擦で手に……指に傷がついたらどうするんだ」
「──っ」
「大事な商売道具だろう、錠前屋。違うのか?」
 低い声はやたらと甘ったるくて優しかった。こういう声を出すときの仕入屋は哲の手に負えない。
「昨日今日ここに来たわけでもあるまいし……質感は分かってるはずだろうに」
 ざらついた塗装。確かにそうだ。階段部分は掴むことが多いからか滑らかな塗装だが、中二階に回された手すりはざらざらとした手触りだった。
 気付いていなかったわけではない。分かっていたが、ただ。
「──遊んでるうちに忘れる程度か、お前の手の価値は?」
 ああそうか。
 だからあんなに怒ったのか、と今更ながら思い至り、心配し守る相手だと思われてはいないのだと分かって泣きたいくらい安心した。
「お前が鈍くさく落っこちる心配なんかしてないよ。何なら今、手を放してやろうか?」
 そうはされないと分かっていても、うなじの毛が逆立った
 そして同時に、別のものが腹の底をぞろりと這いずった。
 唇の端を曲げて笑った秋野がゆっくりと手を引き寄せる。腿がずるずると手すりを滑り、尻が続いて、そうして靴底が床についた。
 
 唇と舌が這う。
 傷こそつかなかったが赤く擦れた掌の上を。
 どこが切れたのか、絡む舌は錆の味がする。だが、別にどうでもいい。舌なんか、溶けてなくなっちまえばいい。このまま混ざって、啜られ食われてしまいたい。
 背に当たる手すりの硬さを感じながら、哲は掠れた声を上げて仰け反った。