16 風邪気味

 秋野が部屋に戻ると、ソファの上に布の塊が乗っかっていた。
 近づいて見てみると確かにその通りなのだが、塊には中身があった。
「何をやってるんだ、お前は」
 布の正体は薄手の毛布だった。薄手と言ってもダブルサイズなので面積は結構あって、それをぐるぐる巻いているから握り飯みたいになっている。中身は言わずと知れた錠前屋だ。ちなみに膝を抱えているから、煙草を持った右腕は突き出ているが足はない。
「何って」
 握り飯は煙を吐いて咳き込み、また煙を吐いてもう一度咳き込んだ。
「寒くてよ……なんかちょっと風邪っぽいつーか、調子が悪ぃ」
 見る限り熱は出ていないようで、顔色はどちらかというと青かった。
 腕は薄手のパーカーと思われる衣服に包まれている。健康な状態ならそれでも快適な室温だが、寒いと言って毛布をかぶっている人間にしては薄着に見えた。
「じゃあもっとたくさん着ればいいだろ」
「そりゃそうだけどよ。あんまり重ね着しすぎたら動きにくいじゃねえか」
「冬物は──ああ、そうか」
 言いかけて思い出す。哲はここに移ってくるときほとんどの荷物を捨ててきていて、その中には衣類も含まれた。せいぜい二泊三日用くらいのショルダーバッグに突っ込んできたのが服のすべてで、冬物は確かコート一枚しか持ってきていなかったように思う。買い足しはしたが、今シーズンのものだけだ。
「俺の服着てりゃいいだろうに、馬鹿だね」
「てめえの服はやたら高級だろ。気ぃ遣うから嫌なんだよ。袖も長すぎて邪魔くせえし」
 忌々しげに唸りながら吐き捨てる姿に可愛らしさは微塵も見当たらない。
 そういえばよく彼シャツなんて言葉を聞くが、哲の場合、男臭すぎて秋野の服を着てもそういう趣は一切ない。
 急に泊まって着替えがないというときに貸したことは何度もあるが、要はサイズの合わない服を着ている野郎がいるというだけで、どこをどう間違っても別物にはなりようがなかった。秋野が哲の「彼」ではないのは勿論だが、そういう問題ではない。
 子供っぽく見えることすらないのは面構えのせいだろう。加えて大体顰め面に銜え煙草だから尚更だ。
「高いもの着てるのはほとんどサイズの問題だ。汚れたって気にしないから好きに着ろよ」
「だけどお前、洗濯機で洗えねえものばっかりだろ」
「洗濯機はないんだから洗えたって洗えなくたって同じことだよ」
 そう言うと哲は煙と一緒に息を吐き出し、そうだっけ、と呟いた。やはりそれなりに調子が悪いらしい。
「あー……そうか、そうだよな。洗濯機ねえんだった」
「前も言ったが、欲しけりゃ買ってやるぞ」
「んー」
 手を伸ばして煙草を灰皿に押し付けると、哲はソファの上に横倒しになった。膝は折りたたまれたままだから毛布の塊が転げたように見える。
「今は考えらんねえからいい」
「そうか。ニットか何かでいいか? それともカイロとか何か欲しいなら──」
 毛布から突き出した手が無言で秋野を手招いた。手しか見えないから、何が欲しいのか分からない。
「何だよ」
 屈みこんだら服の裾を引っ張られる。そのまま抵抗せずにいると、硬くて筋張った哲の手が首筋に絡みついた。
「おお、これであったけえ」
 覆い被さる状態になった秋野をホールドし、哲は満足そうに溜息を吐く。
 甘ったるい雰囲気にならないのは哲の表情がまったくもって普段通りであるからで、彼シャツだろうが風邪だろうが、錠前屋を錠前屋でなくすることはできないのだと思うと嬉しくなった。
「何にやついてんだよ。気色悪ぃな」
「お前が可愛くないのが嬉しくてな」
「仕入屋、てめえは馬鹿なのか?」
「馬鹿なんだ」
 哲は面倒くさそうに口の中で「マジで馬鹿だ」とか何とかもごもご言って目を閉じた。
 少しして規則的な寝息が聞こえてきたので身体を起こし、毛布の塊を抱え上げた。目が覚めたら暴れるに決まっているので、できるだけそっと移動してベッドに下ろす。
 身体を起こそうと思ったら服が突っ張って、よく見たら、錠前屋の指がまだ秋野の服を掴んでいた。
 引っ張ってみたが指は離れない。寝落ちした子供を見ているようでおかしくなって、思わず哲の頭に手を伸ばした。
「撫でんじゃねえ」
 指が髪に触れる寸前。
 ドスの効いた低音とともにぐるぐる唸る錠前屋は目を閉じたままだ。
「起きてるなら着替えたらどうだ?」
「起きてねえ」
「起きてるだろ」
「うるせえな、動くのも目ぇ開けんのも億劫なんだよさっさと寝ろお前も!」
「何で俺が怒られてるのかねえ」
「知らねえ!」
 不機嫌な錠前屋に布団をかけてやり、洗面所に向かう。まったく、可愛さのかけらもなく甘ったれてみせるのだから手に負えない。
「ちゃっちゃと動け! 寒ぃんだっつの!」
 背後から聞こえるやけくそみたいな大声に、秋野は笑いながら頷いた。