15 話は少し戻りまして、続き

「……服だけっつったってな……」
 そう呟いて、哲は暫し途方に暮れた。

 建て替えられる物件に入居しないことを改めて告げると、川端は当然だろうな、という顔で頷いた。
「オートロックだからな」
 川端は祖父英治の知人の息子だ。祖父と哲の生業も、錠前をいじりたい性質もよく知っている。電子ロックが嫌なことについては今更確認するまでもないのだろう。
「それで、次はどうする? あの近くに住むのか、それとも──」
「あー、いや……」
 つい口ごもってしまいそれ以上何も言わなかったのに、川端には哲の逡巡の理由が通じたらしかった。
 むさ苦しいぬいぐるみの熊という感じの怪訝そうなツラを突然輝かせた川端は、哲が何も言っていないのに「そうか!」となぜか拳を突き上げて立ち上がり、「玉井さぁーん!!」と雄叫びを上げた。
「今日、休みじゃねえの? いなかったけど」
「おっ!? ああ、そうか!」
 どすん、と分かりやすい音を立てて椅子に座りなおした川端は、勢い余って若干仰け反りながらよかったよかったと繰り返した。何がよかったのかいまいちわからなかったものの、深く掘り下げたい話でもない。
 色々聞きたそうな川端を置いてさっさと部屋に戻った哲は、長いこと住んだ割には大して物のない部屋のど真ん中に突っ立って暫し放心した。
「どうすっかな──」
 髪に手を突っ込んで乱暴に掻き回し、部屋の中を見回してみる。
 どうせ取り壊すから大掛かりな掃除はいらないし、捨てる家具や家電は川端が処分してくれるということだった。元々大物は冷蔵庫と洗濯機、それにマットレスくらいしかないとは言え、すべて処分し掃除するのはそれなりに手間だから結構助かる。
 そう考えたらやることなんかほとんどないのに何となく所在なくて、哲は煙草を銜えて火を点けないままぶらぶらさせた。
 両親と暮らした家を引き払って祖父の住む家に移ったとき。祖父が亡くなり、一人暮らしを始めた時。それから数回引っ越したが、どのときもこんな気分にはならなかった。
 誰かの縄張りに単身踏み込むのだという感じ。遠慮や気後れではなく、引き返せなくなるのだという恐れにも似た感覚。
 祖父の家だって祖父の領域のはずだったが、こんな気分にはならなかった。それは祖父が穏やかな質だったからか、それとも、何をどうやっても祖父は祖父だったからか。
 若干後悔していると言ったらあの野郎は怒るだろうか。落胆するか。どっちもしないで人の悪い笑みを浮かべるか。
 秋野ほどではないが物に執着はしないから、捨てられない物と言ったら解錠の道具くらいだ。だが、そうは言っても服や靴は人並みに持っている。これも気に入っていて捨てられないなんてものはないけれど、ワンシーズン数点に絞ったって結構な数だった。
 結局その場に胡坐を掻いて煙草を二本吸い、哲は渋々立ち上がった。

「──で?」
「でって何だ。なんか文句あんのか」
 現れた哲を上から下まで無遠慮に眺め、秋野は僅かに首を傾げた。ずっと前から苦手な肉食獣みたいなその仕草は、いつまで経っても苦手なままだ。
「残りの荷物は? 送ったのか」
 哲が持っているのは、滅多に使わないので持っていることすら忘れていた黒いナイロン素材の、何の変哲もないショルダーバッグひとつ。
 入っているのはスニーカー二足、デニムが二本、真冬のコートが一枚、あとは余った部分に突っ込めるだけの服と下着、そして解錠の道具だけだ。
「ねえよ」
「うん?」
「だから、これ以外ねえって。どのくらいスペースあんのかよくわかんねえし、なんか結局どれもいると思えばいるし、いらねえと思えばいらねえしよ。そう考えたらまあ当座の服だけでいいんじゃねえかって思えてきて──リサイクルショップの出張買取頼んだらすぐ来てすぐ持ってった」
「……お前ね」
「てめえに言われたくねえよ。服とか、どのブランドがいくらとかじゃねえのな。キロいくらとか、マグロかと思ったぜ」
 何もかも目や表情に表れるなんて、そんなのはおとぎ話みたいなもんだと哲は思う。もし誰もがそんなふうにお互いを読めるなら、誤解なんて言葉は辞書から消えるだろう。
 それでも、ごくたまに──思いもよらないときにすべてが分かってしまうことがあるのは否定しなかった。
 無表情な仕入屋の頭の中に何が過ったか、手に取るように分かった今、この瞬間のように。
「長くいるつもりねえとかそういうことじゃねえっての」
 さっさと奥に進み、大して重たくもなかった荷物をソファの上に放り投げる。振り返ったら少し離れたところに立った秋野の薄い色の目と目が合った。
「何だよ、歓迎されねえのか。人が色々捨てて来てやったっつーのにお前」
 秋野は少しだけ困ったような顔をしていた。以前尾山が言っていた。秋野は最後の最後で欲しいと言えずに引くのだと。それは生い立ちのせいで身についた習い性だ。
 最後の最後、事ここに及んで秋野の本心と、長年の間に染みついたそれがせめぎ合うのを目にすることになろうとは。
「迷ってんじゃねえぞ」
 胸倉を掴んで引き寄せ鼻先に齧りつく距離で睨みつけた。
「捨てられないもんなんてねえ。服も、家具も。だから捨てた、邪魔だったから」
「そりゃそうだろうが……」
「俺が捨てられねえのは錠前開けるための両手。それとお前。それ以外ねえ」
 まったく、何を言わせるんだか。
 長い腕に抱きしめられて、普段ならやめろ鬱陶しいと突き放してやるところだが我慢した。
「──哲」
「何だクソ虎」
「服ならいくらでも買ってやる」
「そりゃどうも。ついでにベッドももう一台買ってくれ」
「嫌だ」
「くそったれ、このケチ野郎」
 抱き返しながら蹴ってやったら、秋野は喉の奥を鳴らして低く笑った。