14 話は少し戻ります

 その日は確か土曜だった。
 覚えているのは、前の日が忙しかったからだ。給料日の金曜日で気分が浮き立った客が押し寄せ、店はいつになく混み合った。哲は疲れ切って帰宅し飯も食わずに布団に潜り込んで翌日の昼まで眠ったのだが、ちょうど目を覚ました頃にアパートが騒がしくなった。
 鉄筋マンションなら聞こえなかっただろう。だが、哲が住んでいるのは木造モルタル二階建てのボロアパート、誰が見ても紛う方ない安普請だ。ちょっと普段と違う大きな物音がすれば大体聞こえる。一階の部屋のドアが立て続けに開閉したりして、何かあったかとぼんやり思ってはいた。
 とはいえ所詮は他人事だと思っていて、まさか自分に関係があることだとは考えてもいなかった。
 それからちょうど一週間後、呼び出された哲は昼飯に蕎麦を食った後、川端の事務所に向かった。土曜なので玉井さんは休みだったが、川端はデスクの向こうでおしゃぶり昆布の袋を抱えて煙草を吸っていた。
 煙草か昆布かしゃぶるのはどっちかにしろよと思ったが、大人なんだからまあ好きにすればいいと思い直して突っ込まなかった。どうでもいい話だが、結構前に塩昆布をもらった友人──川端曰く昆布屋だが恐らく佃煮屋──がまた新たな商品を開発して送ってきたらしい。
 昆布と煙草を交互にやりながら川端が切り出したのは、アパートから退去しなければならないという話だった。
「取り壊し……?」
「ああ」
「今更?」
 取り壊しになるなら十年前にしていたっておかしくない。
「いや、漏水があってな」
「ロウスイ? 年寄り? 水?」
「水だ、水。一階の壁の内側の配管にでかい穴が開いたんだと」
 そこで先週の階下の騒ぎを思い起こして納得した。
「ああ……土曜の朝騒いでたやつな」
 差し出された昆布を断り煙草を銜える。川端は煙草を灰皿に捨て、昆布の切れ端を口に放り込んだ。
「そうだ。二部屋がかなりひどいことになってな。応急措置はしたから今は漏れてないが、そもそも管自体が腐ってるってことで、いつまでもつか分からんそうだ。それでさすがの大家も諦めるらしい」
「ふうん……」
「それでなあ、今後だが──」

「入居はできるんだな」
「待てばな」
 哲は秋野の住んでいる建物の一階にいた。勿論こちらは水漏れしていない。
 好きで来たわけではなく川端からお使いを頼まれたので立ち寄った。仕入屋と川端が仕事でお互いを使うのは結構な話だと思うが、人を飛脚か何かのように使うのはやめてくれと思う。思うが、今じゃなくてもどうせ行くだろうと言われたらまあその通りなので、いちいち抵抗するのも面倒だった。
 せめてもの腹いせに一階のドアを蹴りまくって安眠中の秋野を叩き起こしてやった。鉄拳制裁されたのはまあ、想定内だ。
「配管がやばいらしくて来月末までには退去なんだってよ」
「そうか」
「そっから新築するまで待てんなら優先して入居させてくれるらしいぜ。オートロックになるらしいから俺は入んねえけど」
 秋野は哲の隣で煙を吐いていたが、乱れた前髪をかき上げながら寝起きの掠れた声で「しかし」と呟いた。
「そもそもあそこの住人が高い家賃を払って新築に入居したがるとは思えないんだが」
「だろ? 俺もそう思うわ。場所柄キャバクラの社員寮状態になると思わねえか、最終的には」
「──ああ」
 寝惚けているのか、話すのも億劫なのか。仕事が立て込んでいたらしくほとんど三日間徹夜状態、ようやく二時間前に寝たばかりだという秋野の反応は酷く鈍い。
「寝てんのかよ?」
「……寝てたんだ、お前がうるさくドアを蹴っ飛ばす音で起こされる前は」
「ああ、そうか」
 哲が笑うと、秋野は小さく舌打ちした。滅多に見せないだるそうな顔で煙草を揉み消し、ふらりと立ち上がって階段を上って行った。寝に行ったのだろうと思いながらそのままぼんやり煙を吐いていたら秋野がまた階段を降りてきた。下から見上げる角度になると長い脚が一層長く見える。むかつく奴だと思ったのが顔に出たのかどうか、歩み寄って来た秋野の指が伸びて煙草を摘み、灰皿に放り込んだ。
「てめえ勝手に」
 言えたのはそこまでだった。
 ついさっきまで眠っていた人間の匂いがする。体臭ではなく、ほんの微かな、眠りの気配にも似たもの。
 乱暴に塞がれた口の端から漏れる息遣い。スツールから持ち上げるように抱えられ、普段より雑に、しかし熱っぽく食い荒らされて眩暈がした。哲の呼吸など一顧だにしない傲慢さと、すべてをしゃぶりつくすような執拗さ。まったく昆布どころの話じゃねえなとどうでもいいことが頭を過った。
 長くて力の強い指が哲の手を捕らえ、何かを押し付けてきた。硬い、恐らく金属だということは分かったが掌だけではものの形は掴めない。
 唐突に唇を解放され、仰け反った首が倒れそうになる。秋野の大きな手が哲の後頭部を受け止める。ぐしゃりと鷲掴みにした哲の髪を握ったまま、秋野は欠伸を噛み殺した。
 掌に押し込まれたのは鍵だった。
 どこのだ、なんて訊くまでもない。中二階の錠の型番を知っているから分かったわけではない。少し前に一度だけ言われたことがある。ここに来い、と。その時哲は頷かなかった。
「おい」
「服と捨てられないものだけ取りに行けよ」
「はあ? お前、何──こら、何しやがる下ろせてめえ!」
 肩の上に担ぎ上げられて哲は思わず怒声を上げた。
「俺は米袋か! くそったれ!!」
 喚いているうち秋野が階段を上り切った。ベッドの上に投げ出され、跳ね起きようと腹筋に力を入れたら思い切り膝を入れられた。咳込みながら秋野の体温が残るベッドに沈められ、気が付いたら秋野の顔が眼前にあった。不機嫌な虎みたいに、目の色が濃い金色に見える。
「つべこべ言うな」
「離せよ、帰る──」
「もう帰らなくていい」
 握り締めたままだった鍵が掌に食い込んで痛かった。握った手を開いて指先に持ち替える。なんの変哲もないシリンダー錠の鍵。点けっぱなしのライトにかざしてみても、やっぱりそれはいかさないただの鍵だった。
「けどよ……鍵がかかるドアが間になくなったら、そしたら──」
 鍵を摘んだまま呟いたら、秋野が微かに首を傾げた。前髪が目の上に流れ、金色と黒が混じり合う。
「何だ」
「一体、何が歯止めになる?」
 俺のか、お前のか。
 訊かれるかと思ったが、訊かれなかった。
「──そんなものはいらない」
 鍵ごと掴まれた右手。拳に握ったそれに、秋野はそっと歯を立てた。