13 家族

「なあ」
「ああ?」
 銜え煙草で皿を洗いながら、哲は地を這うような低音で返事を寄越した。別に不機嫌なわけではない。哲はこれが常態だ。
「挨拶したほうがいいかな」
 哲が洗った皿を隣で拭きつつ、秋野はそう口にした。哲は眉間に深い皺を寄せ、歯の間から煙を吐き出しながら「挨拶?」と復唱した。
 秋野が料理をしていたら哲が予定より早く帰ってきたので、成り行きで一緒に食べることになった。
 秋野も料理はできるが、滅多にしない。哲のように特別美味いものが作れるわけでもないし、それ以前に料理という作業が好きなわけではないので、進んでやろうと思うことがない。
 夕方、用事があって成田のところに寄ったら賞味期限切れ間近のパスタやらトマト缶やらを無理矢理持たされて作る羽目になっただけだった。
 それでも一応「料理した人」認定され、「料理しないで食っただけの人」哲が皿洗いをしている。水を切った次の皿を秋野に手渡しながら、哲は怪訝な顔で首を捻った。
「──挨拶って、おはようとか、おやすみとかそういう挨拶のこと言ってんのか?」
「うん? いや、おはようおやすみじゃないが、要するに挨拶のことだ」
「誰に挨拶するって?」
「お前の母親」
 哲は銜えていた煙草もろとも盛大に「ばっ!」という声を吐き出した。確認するまでもない。多分「馬鹿」の「ば」だ。
「馬鹿なのかてめえはっ」
 予想通りの台詞を怒鳴ると、哲は顔を顰め、シンクの中に墜落した煙草を拾い上げて犬みたいにぐるぐる唸った。泡と水で消火済みのそれは、当然ゴミ箱行きだ。
「だってお前、大事な一人息子をだな」
「うるせえ黙れ馬鹿」
「何回馬鹿って言えば気が済むんだ? 息子さんを俺にくださいと」
「ああああ馬鹿馬鹿馬鹿野郎止めろ聞きたくねえ! 無理! 無理だからマジで!」
 この世の終わりが来てもこれほど絶望しないのではないかと思うくらい嫌そうな顔を見せつつ皿は洗い続ける錠前屋に、秋野はにっこり笑いかけた。
「一度お会いしなくていいかなあ」
「かなあ、じゃねえ! 何だその胡散臭え笑顔は! 胸糞悪ぃ冗談言ってんじゃねえぞ」
 物凄い目つきで秋野を睨み、哲は洗剤の泡がついた手で苛立たしげに髪をかき上げた。
「半分くらいは本気かもしれんぞ。髪に泡がついてる」
「うるせえほっとけ! 要らねえ、半分どころかほんの少しの本気も欲しくねえ!」
「そんなに会わせたくないのか」
「つーか俺も全然会ってねえし会いたいとも思ってねえし、俺が会ってねえのにお前を会わせるとか論外だろうが!」
「何で」
「なん──!!」
 哲は絶句したまま固まった。言わなきゃ分からねえのか、と思ったのか、それとも理由が思いつかなかったのか、どちらが本当か分からない。
「いきなり何の嫌がらせだまったく……」
「お前この間、荷物の送り先用に部屋がほしいとか言ってひとつ借りたろ」
「……ああ」
「あそこの部屋、別の階だけどな、そこが今日契約になったんだ。それで何となく思い出しただけだよ」
「ああ、そうかよ」
 皿を洗い終えた哲がシンクの内側をきれいに拭きながら不機嫌そうにまたしてもぐるぐる唸り、作業を終えたらさっさと上へ戻って行った。
「可愛いねえ、まったく」
 哲のあれは照れているわけではない。そんなところが可愛くてたまらないと思う自分がおかしいと思うのにももはや慣れっこだ。
 階段を上がって行ったら哲は中二階の手摺に両腕を引っ掛け、下を見下ろすように立っていた。後ろから覆い被さるように立ったら首を捻って秋野を睨んだものの、暴れたりはしなかった。
「──お前」
「うん?」
「マジで挨拶してえとか」
「冗談だって言っただろう、馬鹿だね」
 何となく何を考えているのかは分かっていた。秋野の家族と呼べる人たちはみんな哲に会っている。マリアには会ったとは言えないが、そもそも彼女は産みの親というだけで、秋野の中では家族の括りに入っていなかった。
「俺は、何て言うか……別にお前が──うまく言えねえけど」
 案の定、哲にしては歯切れの悪い言葉がぼそぼそと吐き出され、手摺の向こう側に消えていく。零れ落ちたそれが哲の気遣いなのか言い訳なのか、秋野にとってはどうでもよかった。
 首筋にかぶりつき、手摺と哲の手をまとめて握って押さえつける。
「いいんだ」
 耳元で低く呟いたら哲の身体がびくりと跳ねた。耳の中に舌を押し込み、てつ、と囁く。秋野の手を振り払った哲が身体を捩じり、こちらに向き直った。
「哲」
「何だよ」
「お前と家族になりたいわけじゃない」
 抱え上げた哲の脚が秋野の腰に絡みつく。頭を下げた哲が秋野の唇に齧りつき、容赦なく食い破った。傷は小さいが痛いことに変わりはない。まったくお前はとぼやいたら、哲は頰を歪めて笑い傷口ごと秋野の下唇を優しく吸い上げた。
「──家族ならお前に会う前から持ってる。もう要らない」
 舌を絡め、舐め回すうち哲の息が浅く、速くなった。ベッドの上に放りだすように投げ出して圧し掛かる。哲は濡れた口元を掌で雑に拭って秋野を見上げ「そりゃよかった」と言って手を差しのべた。

 ベッドの端から落っこちそうになりながら踏みとどまっているゴムの個包装。動きに合わせて揺れる哲の前髪の先。皮膚が擦れて軋む微かな気配。
 粘つく体液と空気が交じり合って立てる音、哲が漏らす低く押し殺した喘ぎ声。何もかもが混じり合って繭のように二人を包む。
 哲が奥を突かれて仰け反り、掴まれた腰を無理矢理揺すられて悲鳴を上げた。
「あ──っ、あ……」
 晒された喉元に食らいつく。暴れる哲を押さえ込み暫く首筋を銜えたままでいた。獣が威嚇するような音を出していた哲は、そのまま抜き差しを再開したらひどく乱れて普段は聞けない甘ったるい声を上げた。押し潰すようにして抱きながら、哲のことも「もう持っている」と思う日がくるのだろうかとふと思う。
 もしそうだとしても、もう要らないと思うことはないだろう。もう十分、と思うことは。
「まだだ」
 これ以上進めないところまで進めと無理矢理身体を押し付ける。哲は何かを堪えるように、秋野の肩に思い切り歯を立てた。
「──まだ、腹いっぱいにはとても足りない」
 もっと。
 もっと先へ。
 何か分からないけれど、なりたいのは家族よりもっと──