12 辞書

「今気づいたんだけどよ」
 片手に煙草、片手にピックを持った錠前屋が、ソファで本を読んでいた秋野の前に立ってそう言った。

 辞書のように分厚い本を持っていたから秋野の片手は塞がっている。空いている手で腰を掴んで引き寄せたら哲はものすごい勢いで唸りながら高速で前蹴りを繰り出し、秋野の手の届く範囲から脱出した。
 ついでに歯を剥き、動物が威嚇するみたいなフーッという音を立てる。当然のことながら前蹴りには手加減がなく、蹴られたところは結構痛かった。
「痛いよ」
「触んな! 油断も隙もねえな!」
「どうして? いつでも触れるのが同居の醍醐味だろうに」
「そんな醍醐味は知らねえ。つーか、あっても俺の辞書には載ってねえ」
 片手の指でピックを回しながら素っ気なく言って煙草を銜え、錠前屋は鼻から煙を吐き出した。
「お前の辞書は錠前喧嘩錠前喧嘩錠前喧嘩って感じじゃないのか」
「錠前喧嘩錠前喧嘩秋野喧嘩っつー感じ。てか、んなことどうでもいいんだけどよ」
 哲は稀にこういう破壊力のあることを口にする。思わず本を取り落としかけ、秋野は何となく咳払いした。
「──どうでもいいのか」
「どうでもいい。で、気が付いたんだけど」
「うん?」
「ここにはテレビってもんはねえのか」
「……」
 秋野は思わず銜え煙草の哲の顔をまじまじと見た。
「は?」
「え?」
「いや──今頃?」
 さすがに本気で驚愕し、秋野は再度手から落ちそうになっていた本を閉じてソファの座面に置いた。
「お前、前から何遍もここに来てるよな?」
「そりゃ来てるけど、別にここで寛ぐつもりで来たことねえし」
「移ってきてからだって、もう一週間とかじゃないんだぞ」
「普段から見ねえから探したことねえし」
 お前こそ何を言ってるんだと言わんばかりに眉を寄せ、哲は続けた。
「ねえならねえでいいんだけど、結局ねえのかよ」
「ございません」
 秋野の顔がおかしかったのか、哲はうはは、と笑った後「あっそう、了解」と言ってピックを回しながら階段を下りて行った。
 秋野も立ち上がって後を追う。階下に降りてみると、哲はスツールに尻をひっかけカウンターの上に置いた金属の箱を解錠しようとしていた。どうやら手提げ金庫のようだ。それでピックを持っていたらしい。さっき片手に持っていた煙草は銜え、今はテンションも手にしている。
 数秒、手をちょっと動かしただけであっさりと陥落した錠前は多分安物なのだろう。
 それでもそれが開いた瞬間、秒に満たない僅かな時間、哲の横顔に浮かんだ緊張と恍惚と空白。それをもたらした「錠前」という単語を「秋野」に置き換えたのは、故意だったのか違ったのか。
「──何でテレビ?」
「あ?」
 哲はこちらを見て、手元の金庫に顎をしゃくった。
 金庫は古いらしく塗装に傷がついていて、なぜかプロ野球球団のステッカーが貼ってあった。色褪せたそれは、今はもう名前が変わってしまった球団のものだった。
「これ見たら今ペナントレースどうなってんのかなと思ってよ。テレビで野球中継とか暫く見てねえなって思って、そういやここテレビあったか? って、連想でなんとなく」
「買うか?」
「いや、今まで気づかなかったくらいだからいらねえ」
「球場に連れてってやろうか」
「要らねえよ。なんだお前、どっかの女口説いてんじゃねえんだぞ。球場で豆みてえな選手と玉真剣に見てたら目が疲れるわ」
「そうか」
「行きたきゃ川端のおっさんとこの玉井さん誘えよ。熱狂的巨人ファンだっつー話」
「勘弁してくれ」
「根性ねえな」
 頬を歪めて笑った哲は、カウンターに向き直って灰皿に煙草を突っ込んだ。
 後ろから近付いて頭のてっぺんに鼻先を埋める。腰に手を回したら低く長い唸り声は上げたものの、抵抗はしなかった。
「……錠前喧嘩錠前喧嘩秋野喧嘩?」
 くっ、と笑う哲の頭が微かに揺れる。
「錠前喧嘩錠前喧嘩錠前秋野、じゃなくてな」
 哲の髪はさっき吸い終えたばかりの煙草の匂いがした。