10 お掃除のお兄さん

 鍵を開けてドアを開けたら、目の前にえらく長身の見知らぬ男が立っていた。
 哲は、手と足とどっちを出すかコンマ五秒くらい悩んで結局止めた。遠慮したわけでも男が誰か分かったわけでもなかったが、右手に雑巾、左手に洗剤のボトルを持っている以上、押し込み強盗には見えなかったからだ。
「……お邪魔してます」
 哲の顔を見つめて低い声で言うと、男はのっそりと中に戻って行った。
 秋野よりも背が高く、百九十くらいありそうだ。ただ、秋野は混血らしく頭が小さく手足が長いが、この男は哲同様どこからどうみてもアジア人の顔面と体形だった。
 長身の人間にありがちな重さはなく機敏そうなのだが、無表情で若干猫背なせいか動作が妙にのんびりして見える。
 深く考えなくても恐らく清掃業者だろう。お掃除のおばちゃんならぬ、お掃除のお兄さんだ。
 他にもいるのかと思ったが、部屋には男の姿しかなく、他に気配もなかった。
 男は雑巾で階段の手摺を拭きながら階下へ降りて行く。居住部分に目を向けると、物がなく散らかっても汚れてもいなかったにもかかわらず、哲が出かけたときより明らかに部屋が綺麗になっていた。
 ここに住むことになったときに、飯と掃除と洗濯はどうすりゃいいと一応訊いたら、秋野は普段どおりの顔で「好きにしろ」と宣った。
 曰く、飯は各自勝手に食う、掃除は気になるならすればいいが定期的に業者を入れている、洗濯も同じ、ということだった。
 もっとも嫁じゃあるまいし、哲に仕入屋の世話を焼いてやる義務などない。もしやれと言われてもやらなかったに違いないが。
 そういうわけで、風呂場は別だが、例えば水が跳ねたとか糸くずが落ちていたとかいうときを除いてここの掃除をしたことはなかった。だが、業者と出くわすのも初めてだ。
「哲?」
 突然背後から声をかけられて、哲は驚いて振り返った。
「うわ!?」
「そんなに驚くなよ」
 立っていたのはここにいてもおかしくない唯一の人物、仕入屋だった。背後のドアから入って来たはずなのに、外階段を上がる足音も、ドアの開閉音もまるでしなかったから気づかなかった。
「いや驚くだろ! 音立てねえで近づくなって何遍言わすんだこのクソ馬鹿!」
「店は?」
 怒声など右から左といった風情の仕入屋は、訝し気に哲を見た。
「ああ!? あー……なんか、おやじさんの身内に急な不幸があって、仕込み途中で臨時休業。予約も常連だけだったから断ったみてえよ」
「そうか」
「なあ、掃除っていつも俺がいないときに来てんの?」
「ん?」
 秋野はぶら下げていた袋を──普通のレジ袋なのにこれも音がしないのは何故なのか──ベッドサイドのテーブルに置き、自分はベッドに腰かけて煙草を銜えた。
「ああ、そうだな。掃除するのに人がいたら邪魔だろうし」
「お前は立ち会うのか、毎回」
 秋野がここに住んでいることはほんの一部の人間しか知らない。そこに立ち入らせるのだから信用している業者なのだろうが、一応訊いたら秋野は煙を吐きながら頷いた。
「都合がつけばな。いないときに来てもらってもいいくらいに信用はしてるが、あっちも俺がいるほうが却って気が楽だって言うから」
「そんなら俺にも言やいいのに。お前がいねえときに立ち会うくらいするけど」
「……それは、でも」
 秋野がちょっと妙な顔で何か言いかけたところで、「終わりました」と声がかかった。
 階段を上がって来たさっきの男が、肩に黒くて大きなバッグを担ぎ、手にはモップやらバケツやらをぶら下げて立っていた。
「お疲れ様」
 秋野は煙草を揉み消し、さっきのコンビニ袋を手に取って立ち上がった。今度は何故か普通にガサガサと音がする。秋野が男に差し出した袋の中身はペットボトルや缶の飲料のようだった。清掃業者への差し入れだったらしい。
「代表によろしく」
「っす」
 ありがとうございますか失礼しますか判然としない音を発した男は秋野に頭を下げ、次いで哲に目を向けた。
「お邪魔しました」
「あ、いえ──すんません、いつもお世話になってます」
 哲がそう返すと、男は数秒間哲を真正面から見つめた後同じように会釈して踵を返し、ゆっくりした足音を響かせて外階段を降りて行った。
「──なあ」
「ん?」
「何だ、さっきの」
「何が?」
 秋野がドアに鍵をかけながら振り返り、片眉を引き上げた。
「だから、俺も立ち会いくらいするっつったときになんか言いかけたろ」
「ああ……」
 秋野は唇を歪めて笑うと、足音を立てずに歩いてきて──哲が嫌がるのを知っていてわざとやるから腹が立つ──哲の目の前に立った。
 黒いニットにスリムなデニムという何でもない格好だが、雑踏の中に立たせれば女が振り返って眺める男前だ。それでも、哲が惹かれるのはその端正な容貌にでも均整の取れた身体にでもない。
「じゃあ、次は立ち会うか?」
「いや、別にやりたいわけじゃねえけど。いるだけなら別にどうってことねえし」
「なあ、哲」
 秋野がゆっくり瞬きしたら、長く濃い睫毛が下瞼の上に薄らと影を落とした。
「ああ?」
「服とか日用品を見れば、あいつらにも住人が増えたのは分かるだろ」
「そりゃそうだろうな。けど、それが何だよ? 無駄に広いし、一人増えたからって」
「だけど、ベッドはひとつしかない」
「……」
「ということは、二人ともここで寝てるってことは誰にでも分かるだろうな」
 ぽかんと口を開けた哲を見て、秋野はおかしそうに低い笑い声を漏らした。
「いちいち中を見ることはしないだろうが、ゴミだって集めて回るんだし」
 さっきのでかい男が哲を見た数秒間。奴の頭の中を過ったのがどんなことなのか哲は知らない。どっちにしても、哲がそれを取り消すことも、手を突っ込んで毟り取ってしまうこともできないなら同じことだ。
「何なら」
 秋野がにやつきながら僅かに首を傾げる。長い前髪が細められた薄茶の目の端を掠めて揺れた。
「……毎回一緒に立ち会うか?」
 思い切り振り抜いた哲の上段回し蹴りは秋野の腕にあっさりガードされた。信じられない素早さで軸足を払われ、哲はバランスを崩して床に転がった。
「痛え!」
「石頭なんだから大して問題ないだろ」
「てめえこの野郎! てか勝手に乗っかんな! ゴミってなんだよ、別に普通のもんしか──」
「使用済みのゴムとか?」
「くそったれ!」
 喚きながらボディに打ち込んだ拳を肘で受け止めて「痛いよ」と笑った秋野は更に唇の端を吊り上げた。
「分かった分かった、じゃあゴミは出さない方向で」
「うるせえ馬鹿野郎、にやついてんじゃねえこのエロジジイ──!」

 せっかく磨かれた床はその後局所的に大分汚れたが、掃除は勿論秋野が引き受けた。