09 お部屋探し

「頼みがあんだけど」
外から戻って来た哲は携帯の液晶画面に目を落としたまま煙草を銜え、ソファに脚を伸ばして座っていた秋野には目もくれずそう宣った。
どう見ても人に物を頼むような態度ではなかったが、今更そんなことで驚きはしない。
「頼みって?」
 哲は画面をスクロールしていた指先を止めずにこちらを一瞥して「部屋」と口にした。
「部屋?」
「部屋借りてえ」
「……」
「実際に住むわけじゃねえぞ。なんていうのか、お前が大和に見せたみてえな……」
「──スパイの偽装みたいな?」
 頷いた哲は灰皿を手に取って煙草を揉み消すと、ソファの上に伸ばしていた秋野の脚を容赦なく蹴り落とした。
 空いたスペースに腰を下ろし、まだ邪魔だと思ったのか、床の上に落ちた足もスニーカーの靴底でぐいぐい押してくる。まったく、足癖の悪いことでは錠前屋は人後に落ちない。
「母親から連絡来て、今住んでるとこ知りてえって。あの人、あれから年一で何か送ってくるから」
 哲の両親は哲が小学生のときに離婚している。父親に引き取られた哲は離婚以降母親とは疎遠だったが、数年前に再会して以来多少は連絡を取っているようだった。そうは言っても哲の誕生日にあちらが何か送ってくるのに礼を言うくらいだというから、結局年に一度なのだろうが。
「前んとこはボロくて汚ねえから来んなって言ってあったんだけど──どっちにしてもここの住所教えるわけにいかねえし」
「俺は別にご挨拶しても構わんぞ」
「止めろ、俺の血圧が急上昇するじゃねえか!」
 哲は目を剥き、噛みつきそうな勢いで睨みつけてきた。目玉が噛みつけるのかどうか知らないが。
「敦子さんだったか」
「名前呼びすんじゃねえ人のオヤを! ホスト臭がして怖えわ!」
「うるさいな。お前だってマリアに会ったろう」
 続けざまに蹴られてさすがに痛くなったので、蹴って来た足を逆に蹴り返した。
「あれは事故みたいなもんじゃねえか。大体偶然会って連れは知り合いですって言うのとお前、ベッド一台しかねえ部屋で知り合いですって会わせんのと同じなわけねえだろクソ野郎! どんな知り合いだっつーの!」
「分かった分かった」
 蹴ってくる足を足でガードし、哲の動きが一瞬止まった隙に腕を掴み力尽くで引き寄せた。引き倒される格好になった哲は結局引き摺り上げられ秋野に抱えられて激しくもがいた。
「離せコラ!」
「ジタバタするな、面倒くさいな」
「何だとてめえこの、離せっつーのに……!!」
「──出て行くわけじゃないんだな?」
 もがく哲の頭のてっぺんに口づけて言うと、哲の動きがぴたりと止まった。
「ああ?」
「部屋を借りるなんていうから」
 鼻先を髪から耳の後ろに移動させ、首筋へ移る。哲は体臭もしないし香水もつけないが、人間にはそれぞれ匂いがある。秋野は特別鼻がいいわけでもなく人並みだが、哲の匂いは嗅ぎ分けられた──勿論至近距離にいれば、の話だが。
 哲と「安らぐ」とか「癒し」という単語は恐ろしいほど無縁だが、こと匂いに限っては、秋野にとっては安心を意味した。
「……お年寄りはせっかちだなオイ、話を最後まで──てかもう嗅ぐな! 終わり!」
 ぎゃあぎゃあうるさい錠前屋は秋野を振りほどいて逃れ、それでもソファから立ち上がろうとはしなかった。
「まったく」
 哲は乱れた髪を手櫛で撫でつけた後面倒くさそうにスニーカーを脱ぎ、片方ずつ背後に放った。ソファの背凭れに片腕を投げ出し、だらしなく座る。
「そんな簡単に出てくくらいなら来てねえって何遍言わすんだ」
「──聞いてないよ」
「言ったろ」
「聞いてないね」
「今言ったじゃねえか」
 哲は頭を後ろに傾けて目を閉じた。
「つーわけで探しといてくれ。どうせ住まねえんだからなんでもいい」
 秋野は立ち上がってソファを回り込み哲の背後に立った。骨ばって肉の薄い顔を眺めていたら哲の目蓋が開き、鋭い、険しいと言ってもいい目が真下から秋野を見据えた。
 屈み込み、唇を塞ぐ。哲の喉から低い唸り声が漏れ、秋野が身体を起こすまでそれは断続的に続いていた。
 親指で哲の頬を撫で、口の中に突っ込んだら噛みつかれた。秋野は思わず唇を歪め、齧られ濡れた指で哲の唇をゆっくり辿った。
「……タワーマンション最上階のペントハウスでいいか?」
「死ね、くそったれ」
 哲は不機嫌そうに吐き捨てながら手を伸ばし、秋野のうなじを掴んでゆっくりと引き寄せた。

 

 

*本編では哲とマリアは会ったことがありません