08 いないかもしれない

 哲がドアを開けると、室内は真っ暗だった。
「……いねえのか」
 照明は間接照明を含め色々あるが、なにひとつ点いていない。外を歩いてきて暗さに目が慣れていた哲は、そのまま扉を閉めて施錠しソファに上着を放り投げた。
 訊ねてもいないのに今日は多分お前が戻るより早く戻っている、とか言っていた野郎の姿は見えなかった。もっとも、寝起きの一服前で朦朧としていたので、聞き間違いの可能性も高かったが。
 別に約束していたわけでもないし、帰ってこなくても不都合はない。哲は小さく欠伸をし、照明は点けないまま浴室へ向かった。

 

 喉が渇いて目が覚めた。
 いや、正確に言えば、目が覚めたら喉が渇いていた、か。
 ベッドサイドに置いてあるこじゃれたデジタル時計の表示に目をやるとまだ二時間も眠っていなかった。青いLEDライトから目を逸らし起き上がって隣を見たが、そこには誰の姿もないし、寝具にも乱れはなかった。
 照明も相変わらずすべて消えたままなので、秋野はまだ戻っていないのだろう。哲は起き上がるとまだぼんやりしたまま用を足しに行き、そのまま階下に足を向けた。
 冷蔵庫を開けたら庫内の照明に目が眩み、水のボトルを掴み出して扉を閉めた途端何も見えなくなってしまった。キッチンを出てバースペースのダウンライトを一部点灯させた哲は、何気なく視線を動かしそのまま固まった。
 カウンターのスツールに、いないはずの秋野が座っていたからだ。
 こちらに背を向け、カウンターに突っ伏している。片方の踵をスツールのステップに引っ掛けているが、もう片方はだらりと力なく垂れていた。
 息をしていないのではないかと思った。
 どうしてそんなことを考えたのかは分からない。いきなりそこに出現したように見えた驚きからか。それとも、微動だにしない身体の均整が取れすぎていて、作り物めいて見えるからか。
 口の中がからからに渇き、唾を飲み込むことができなかった。時間にすればほんの一瞬だったのかもしれないし、数秒は経っていたのかもしれない。哲はゆっくり持ち上げたペットボトルの蓋を捻り、水で口を湿らせた。
 つっかけたサンダルが床を擦る音がする。秋野の背後に立ってじっと眺めていると、気配に気づいたのか、秋野の背中が微かに動いた。
「──おい、何でこんなとこに電気も点けねえで座ってんだよ。飲みすぎか?」
 歩み寄って脇に立ち、スツールの脚を軽く蹴飛ばす。秋野はゆっくりと身体を起こして乱れた前髪を掻き上げながら顔をこちらに向けた。薄い色の目が睫毛の下から現れる。閉じた目蓋に隠れていた黒い瞳孔が、ライトの光にぎゅっと縮んだ。
「……いや」
 億劫そうに答える秋野の眉間には皺が寄っていて、声も微かに掠れていた。
 ああ、そうか頭痛か。そう思ったが敢えて口には出さなかった。
 秋野の体調が悪いことはほとんどないが、たまにこうして緊張性の頭痛になってぶっ倒れていることがある。哲は頭痛と言えば二日酔いしか知らないしあれも相当質が悪いが、それとはまた別の辛さがあるのだろう。
「いつ帰って来たんだよ」
「──お前が戻ってくる前」
「はあ?」
 なんと、哲が戻ってきたときには朝の言葉通り帰っていたらしい。
「何だよ、いるなら呼べばいいじゃねえか」
「でかい声を出す元気がなくてな」
「電話するなりなんなり──」
 秋野の手が伸び、腰を抱き寄せられた。サンダルでは踏ん張れずホールドされる。普段なら容赦なく殴りつけるところだが、いくらなんでも頭痛で倒れていた奴の頭をどうこうするほど人非人ではないからぐっと堪える。秋野は哲の胸にゆっくりと頭を預けて溜息を吐いた。
「いつまでいてくれる?」
「ああ? てめえの枕になって黙って突っ立ってろってか? ご免だ、俺は上に戻るからな。ここで倒れてたきゃ勝手にしやがれ」
 艶のある黒髪を引っ張って言うと、秋野は喉の奥を鳴らすようにして低く笑い、そうじゃない、と囁いた。
「呼ぼうと思ったんだ、最初はな」
 秋野の声が好きだ。
 ろくでもなくいけ好かないこの男の、声と目は最初から好きだった。底の知れない本人を音にしたらこうなるだろうという低くて深い秋野の声。胸骨に響く声が体腔に反響し充満するように錯覚して、哲は僅かに身じろいだ。
「呼んでも、いないかもしれない」
「はあ?」
「電話すれば繋がるだろうけどな。でも、ここにはいないかもしれない」
 何を言っているんだか、と呆れて思わず天井を仰いだ。ダウンライトは高い天井までは照らし切らず、靄のような暗がりが四隅にわだかまっていた。
「そりゃお前、いねえことだってあるだろ。引きこもりじゃねえんだからよ」
「そうだな」
「いないかもしれねえけど、用事が終われば戻ってくるっつの」
 そんな簡単に音を上げるくらいなら、そもそも虎穴に飛び込むような真似はしていない。
 手にしたまま存在を忘れていたペットボトルをカウンターに置き、身体を屈めて秋野の耳殻に思い切り噛みついた。形のいい耳に舌を這わせ、削げた頬と鋭く硬い輪郭を指で辿る。
「他に行くとこねえし、行きたいとこもねえ」

 いつの間にか膝の上に抱えられ、そんなふうに扱われることに心底憤りながらも結局諦め秋野の首を抱いた。
 不安に駆られ暗がりで一人蹲る弱さ、それを剥き出しにする強さ。どうせこのろくでもない男に勝てるわけがない。
「哲──」
 語尾が掠れるように消えるその呼び方に、背骨が震える。肌をまさぐる長い指の傲慢さに歯噛みしながら、哲は小さく呟いた。
「俺はここにいる、秋野」