06 洗濯機

「……なあ」
 秋野が取引相手との通話を終えて中二階に上がると、ソファの上の哲がこちらを向くことなく声を掛けてきた。
「何だ」
 俯く頭の位置と角度から、ソファの座面に胡坐を掻き、胡坐の上で新聞を広げているのだろうと見当がつく。床に座り込むのが好きというわけではないようなのだが、哲は以前から新聞を床に広げて読む癖があった。
 近寄って手元を覗き込む。確かに膝の上に新聞が広げられていたものの、哲が見ているのは新聞ではなく、新聞の上に置かれた家電量販店の折り込みチラシだった。
「何で洗濯機はどれもこれも全自動なんだよ?」
 銜え煙草というか、ほとんどフィルターに齧りついている状態で、哲はこちらに剣呑な目を向けて寄越した。何故そんなに睨まれるのか、家電メーカーの従業員でも量販店の販売員でもない秋野には心当たりがない。
「さあ……何か問題があるのか」
「別に」
 全自動洗濯機の何がいけないのかよくわからなくて曖昧に返事をすると、哲は更に不機嫌になった。
 ちなみに、秋野が暮らすこの建物──元々工場、その後ダイニングバーになるはずが頓挫した──に洗濯機はない。定期的に業者に掃除洗濯を外注しているからで、因みに掃除と洗濯の業者は別々だ。
 どうしてもすぐに洗濯が必要ならコインランドリーが近くにあるし、クリーニング屋もある。最悪は汚れたものは捨てて新しいものを買えばいいと思っているので必要性を感じないのだ。以前のアパートには一応置いてあったが、それもほとんど使っていなかった。
「全自動の何が気に入らないんだ。文明の利器ってやつだろう」
「そりゃそうだけどよ」
 その仏頂面を眺めていたら、不意に過去の記憶が蘇った。
 猫じゃらし、美女をサルベージ。
 なんだか分からない単語の羅列が脳裏を過り、秋野は思わず吹き出した。
 大分前だが、哲が回る洗濯機を覗き込んでいるところに遭遇したことがある。哲が使っていた洗濯機は、洗いの工程中は上蓋が開いたままでも動くようになっていた。
「何笑ってんだてめえは」
「いや──そうだ、そうだったよな」
 哲が眉間に深い皺を刻んで煙草を灰皿に押し付ける。秋野はソファを回り込み、哲の横にどさりと腰を下ろした。狭いとか邪魔だとか言ってかなりの強さで腰を蹴飛ばされたが、残念ながら笑いは止まらない。
「だから、何笑ってんだつーの、死ね!」
 今までとは比較にならない勢いで踵が飛んできたので足首を掴んで哲をひっくり返す。仰向けにされた錠前屋は野犬もかくや、という激しい唸り声を上げて身を捩り、身体を反転させようとした。だが、足首を力任せに引っ張られ、おまけに唯一の弱点──哲にとっては罷り間違っても性感帯ではない──足裏に噛みつかれるに及んで、哲は絹ならぬボロ布を引き裂くような悲鳴を上げた。
「ぎゃああああ!!」
「うるさい奴だな、まったく」
 げらげら笑いながら四肢を押さえつけるように圧し掛かる。哲の口からしゅーっと蒸気が噴き出すような威嚇音が漏れ、まったく獣みたいで可愛い奴だと秋野はますます脂下がった。
 勿論その顔を見た哲の機嫌は急降下し、こめかみに青筋が立った。
「てめえこのブチ殺す!!」
「まだ死なないよ。それで、何でへこんでるんだ?」
「へこんでねえ! むかついてんだ退けっ」
「だってお前、洗濯物が回るのを見たいのはへこんでるときだろう」
 哲は忌々しそうに舌打ちし、秋野の脇腹を膝蹴りした。
「余計なことばっか覚えてやがって、てめえは──」
「分かった分かった、何にへこんでても構わん、追及しないから安心しろ」
「だから別に今はへこんでねえ! っつーか重てえんだからさっさと」
「ドラム式だと見えるんだぞ?」
 鼻先に噛みつく距離で唇を近づけ囁くと、哲の罵声がぴたりと止まった。
「まあ、型によるだろうけど」
「……」
「コインランドリーと同じだ」
「……」
「買ってやろうか?」
「──要らねえ」
「嘘を吐くなよ。欲しいんだろ?」
 にやつく秋野を睨みつけながら、哲は手足を押さえつける秋野を押し退けようとしてもがいた。
「上手にお願いできたら買ってやってもいいぞ?」
「何が上手にお願いだ、どこのエロジジイだよてめえは!」
「そこは否定しないが、真面目な話、欲しかったら買えばいい」
 秋野は手を伸ばし、哲の鼻を摘んだ。うう、と唸り声を上げた哲が顎を開いた。上下の歯がぶつかる硬い音が響いたが、すんでのところで手を引っ込めた秋野の指先は無事だった。
「お前はそう思ってないのかもしれないがここはお前の場所でもあるんだし、いちいち口は出さないよ」
「口出しされるとか思ってるわけじゃねえ。ただ──」
「何かあったときに一人で回る洗濯物を眺めると気分が落ち着くっていうんなら、そのときのために買っておけばいい」
 哲は一体どこを殴りつけたらいいのか決めかねるとでもいうように目を眇め、少しして盛大に舌打ちすると、手を伸ばして秋野の髪を乱暴に掴み、自分のほうに引き寄せた。
「放っとけよ。へこんだらどうするのかなんててめえに心配されることじゃねえっつの」
 鼻の頭を齧られたが、頑丈な前歯にかかった力は案外と弱かった。明らかな手加減がどういう理由なのかは分からなかったが、大人しくしていてくれるなら、折角の機会を逃す手はないだろう。
 歯列の間に指を突っ込んでこじ開け、舌を突っ込む。間髪入れずに噛まれたが、流血するほどではなかったから気にはならない。
 深くなっていく口づけが途切れた僅かな時間、哲のしわがれた声が微かに響いて秋野は思わず唇の端を曲げて笑った。
「それは何よりだが、返り討ちにするぞ」
「……ああ?」
「より一層へこんだら、ちゃんと慰めてやるからな」
「うるっせえ、くたばれクソ虎」

──回る洗濯機を見てるよりてめえをぶちのめす方が気が晴れる

 まったく、俺の錠前屋はどうしようもない。