03 深夜の帰宅 – 錠前屋

 外階段を昇る足音で目が覚めた。
 スニーカーのゴム底は大して大きい音を立てるわけではないが、それでも、普段の錠前屋の足音よりは大分喧しい。それに、多分若干ふらついてもいる。
 鍵を開ける音からしても、酔っ払っているのは明らかだ。ここまで酔うということは、高山とかいう高校の同級生と飲んでいたのか──ぼんやり考えていたら、哲の足音が近づいてきた。
 秋野は眠っていると思っているらしく、無言で上着や何かをソファの上に放る音がする。足音が離れて行って、シャワーの水音がし始めて暫くしてから、秋野は起き上がって照明を点けた。
 用を足して戻り、煙草を一本吸い終えたところで水音が止まった。だが、それからいくら経っても哲は出てこない。
 滅多に酔っ払わない代わりに、痛飲した哲はたまに腰が立たなくなったりすることがある。まさかシャワーで溺れることはないだろうが、若干心配になって、秋野はバスルームに足を向けた。
「哲?」
 脱衣所の外から呼んでみたが返事がない。少なくともシャワーは止めているようだから、床に溜まった数センチの水で溺死なんてことにはならないだろうが、それでも一応もう一度声をかけた。
「おい、哲、大丈夫か?」
 返答がないからドアを開けたら、哲はちゃんとTシャツにスウェットを着て床に座っていた。髪はタオルドライしただけに見える。
「……」
 床に尻をつけ、両膝を立てた状態で座っている哲は、歯ブラシを口に突っ込んだまま頭を前に傾けて居眠りしていた。
「おい、こら、哲」
 横にしゃがんで肩をつついたら哲が身じろぎして顔を上げた。歯ブラシを銜えた口は閉じたままだ。開いていたら色々垂れるんじゃないかと心配したが杞憂だったらしい。
 半眼で秋野を見た哲は、数秒間状況を把握できないようなとろんとした目をしていたが、突然正気に返ったらしく、眉間に皺を寄せて何か言った。いや、正確には唸った。
「そんな動物みたいな声出されたって、何言いたいのか分からんよ」
「うー」
 何だか知らないが不満げにもうひとつ唸った哲は壁に背をつけたままずるずると立ち上がりながら猛然と歯を磨き始めた。そんなに強く磨いたらエナメル質が剥げるんじゃないかと思ったが、まあ頑丈な歯だから少しくらい平気だろう。
 哲は口から歯ブラシを引っこ抜くと洗面台に鋭い視線を向けたが、何故かそこから動かない。
「何してるんだ」
 声をかけたら怖い顔で睨まれた。しかし、いつものことなので別に気にならない。
 哲は決然とした顔をすると一歩踏み出した。それでようやく合点がいく。要するに酷く酔っ払っているから、立って歩くのが難しいのだ。
 覚束ない足取りながら、なんとか洗面台にたどり着いた哲は、洗面ボウルの縁を両手で掴んで口の中のものを吐き出した。歯ブラシを濯ぎ、手探りでコップを手に取って水を汲む。歯ブラシは置く場所を決めかねたのか何故か耳にひっかけた──まるで競馬場のおっさんだ。
 口を濯ぎ終えた哲は歯ブラシをコップに突っ込んで適当に置き、前屈みになっていた身体を起こして秋野を見た。ただ、相変わらず手は洗面台についたままで身体を支えている。
「……歯ぁ磨いてた」
 さっきの「何してるんだ」に対する回答なのだろう、そう呟いた声は掠れていた。
「俺が訊いたのは、その前だけどな」
 秋野は洗面台に近寄って哲が無造作に放置したコップを所定の場所に戻し、そこから歯ブラシを取り上げると、それもまた所定の場所に戻した。
 正直言って、物がどこに置いてあろうと、余程邪魔な場所でなければ気にならない。それならなぜこんなことをするかというと、哲が嫌がるのが楽しいからだった。
 後付けした洗面所は洒落ていて──ダイニングテーブルと同じで秋野が選んだわけではない──コップも歯ブラシも、インテリアの一部のように収納できる。
 二人分を並べて、美しく。
 並んだ二本の歯ブラシを見た哲は案の定嫌そうに眉を寄せた。
 強引に腰を掴み引き寄せて唇を重ねたら噛みつかれた。皮膚が破れるほどではないが、十分痛い。哲の口の中は歯磨き粉の味がした。
 そのまま抱え上げ、壁に押し付けるようにしながら舌を絡めた。哲は嫌がって足を蹴り出してきたが、酔っ払っているせいか抵抗はすぐに止んで、諦めたように身体から力を抜いた。
 秋野より後に帰ってきて、秋野が先に眠っているとき、哲は必ず歯ブラシを違う場所に置く。
 どうでもいいと思っているなら、多分きちんと並べて置くだろう。
 そうしてそれを秋野に気づかれたと気付いたら、ひどく居心地が悪そうに秋野と歯ブラシから目を逸らす。そんなことで怒りもしないし、傷つきもしないのに、と毎度思う。
 ただ、お前がかわいくてどうしようもないと思うだけなのに、馬鹿なやつだ。
「ん──」
 唇に噛みつき返したら哲がくぐもった声を漏らして秋野の肩を殴りつけた。まったく、本当に色んな意味でどうしようもない。
 酔いの残る哲の口は普段よりあたたかく緩み、今にも蕩けそうだった。腕の中の柔らかいとは言い難い男をきつく抱き締める。硬い歯列を舌先で辿り、口蓋をなぞったら哲が震えて声を漏らした。
 哲を抱えたまま、さっきまで哲自身がそうしていたように床に尻をつけて脚を伸ばした。膝の上に抱えた酔っ払いは掠れた声で何かぶつぶつ言って、力の抜けた身体を預けてきた。
 規則正しい寝息が秋野の鎖骨のあたりに微かに触れる。
 モノの場所とか、その意味とか、お前がそれをどう思っているかなんてどうでもいい。
 「……お帰り、俺の錠前屋」

 いつも手の届く場所にいてくれる、ただ、それだけで。