02 ダイニングテーブル

 出かけようと思ったら、背後から声を掛けられた。
「お前、今日ここで飯食う?」
 哲は意外に早起きだが、今日は秋野が目覚めたときにはまだ不機嫌面で熟睡していた。昼近いこの時間になってようやく起き出してきたところを見ると、バイトの後誰かと飲みにでも行ったのだろう。今日は休みのはずだから、遠慮なく飲んだに違いない。
「飯って、昼か?」
「いや、夜」
 パジャマ代わりのTシャツの襟元から手を突っ込み、鎖骨のあたりをばりばり掻きながら、哲は言った。
 銜え煙草に寝癖がついた髪。まだ若干眠そうな他は普段と変わらない。かったるそうな風情は可愛らしさとは程遠く、どちらかと言えばおっかないお兄さん寄り──寄り、というよりそのものだ。
 食いしばった歯の間から煙を吐き出しながら欠伸を噛み殺すという器用さを発揮した哲は、襟元から抜いた手で今度は顎の下をぼりぼり掻いた。
 そんな、どこからどう見ても可愛くない男を可愛いと思うのだから自分はどこかおかしいと思う。思うが、自覚したら治るというものでもないし、そもそも治したいとも思っていなかった。
「別に決めてない。何かあるのか」
「昨日、飲んでる最中に真菜から電話かかってきた。なんか今日食材持ってくるって。肉とか野菜とか」
「肉とか野菜? 尾山さんがどこかからもらったのかな」
「ああ、そんなこと言ってたわ。食いきれねえくらいあるからって。なんかちらっと聞いただけでも結構な種類と量で、だから」
 哲は煙草を摘むと逆の手の甲で口元を押さえて欠伸をし──年寄りと暮らしていたせいかそういうところは妙に奥ゆかしい──面倒くさそうに続けた。
「何か作るから、何も用とかねえならここで食えば」
「……」
「何だよ」
 眉間に皺を寄せた哲は煙草を銜え直した。
「何にやついてんだ、気色悪ぃな。言っとくけど豪勢な飯にはなんねえぞ。適当だからな」
「分かった」
 胡乱な目を向けられたが、秋野は哲の視線には気づかないふりをして、さっさと外に出た。

 

「おい」
 走り去るトラックのテールランプを眺めていたら、一階の鉄扉が開いて哲の仏頂面が現れた。
「ただいま」
「何だありゃ」
 哲はトラックが走り去ったほうから秋野に目を戻した。
「あれって?」
「しらばっくれんな」
 哲は不機嫌そうに吐き捨てて踵を返した。ぼんやりしていたら扉を閉められるのが落ちなので、秋野も続いて中に入る。哲はカウンターの前に立って煙草を取り出していて、秋野と哲の間、ちょうどフロアのど真ん中にはテーブルと、椅子が二脚設置してあった。哲が言った「あれ」とはこれのことで、さっきのトラックが、秋野が依頼した業者だろう。
 だだっ広いフロアにぽつんとあるから小さく見えるが、テーブルの全長は秋野の身長より長いはずだ。所謂ダイニングテーブルだが、馬鹿みたいに高価で、一般家庭向けではない。
 哲に値段を言ったら目を剥くだろう。とはいえ、別にデザイナーや値段で選んだわけでも、それ以前に秋野が選んだわけでもなく、知り合いに頼んだらこれを買えと言われたというだけだ。
「テーブルと椅子?」
「質問すんな俺に。そのくらい見りゃ分かる。そうじゃなくて、何でこんなもんが届いたのかって」
「飯食う場所がなかったからな」
「カウンターでいいじゃねえか」
 煙草に火を点けた哲は、そう言って眉を寄せた。
 哲がここに来て少し経つが、食事当番なんてものは決めていなかった。そもそも毎日朝から晩まで一緒にいるわけではないから、食事はお互いが自分の都合に合わせて好きにしていて、テーブルが必要だと思ったこと自体なかったのだ。
「だけど、今日は料理するって言ったろう」
「いや、それはそうだけどよ」
 キッチンのほうから料理の匂いがしてくるから、用意は済んでいるのだろう。
「せっかく作ってもらえるなら、向かい合って食いたい」
「──俺の顔が見えても見えなくても飯の味は変わんねえだろうが」
 鼻から盛大に煙を吐き、苛立たしげにまだ長い煙草を揉み消すと、哲はぶらぶらとテーブルに近寄った。
「なんか無駄に高そうな気がすんだけどよ」
「安物ではないな」
「……つーか高級なんだろ。どうせなら安物にしとけよ。食べこぼしとか気になるじゃねえか」
「そうか?」
「醤油さし倒したら、とかよ」
 真顔で言われて思わず笑い、秋野もテーブルに歩み寄った。
「醤油くらい拭けばいいだろ」
「まあ、色が白っぽくねえからまだマシだけど──」
「そんなに気になるなら一遍汚しておけ」
「はあ?」
 哲が振り向いた時には秋野は哲の間近に立っていた。デニムの脚に足払いをかけ、傾いた身体をテーブルの上に押し倒す。素足に履いていた哲のサンダルが脱げて床に転がり、哲の後頭部が天板にぶつかる鈍い音がした。
「痛っ! てめえこの退け!」
「大分違う」
「ああ!?」
「顔が見えるのと、見えないのと」
「今それ関係ねえだろうがこのエロジジイ!」
「関係あるだろう」
 勢いよく上体を起こしかけた哲の上に身を屈め、プルオーバーパーカーの裾から手を突っ込んで押さえつけた。もがく哲の首筋に唇を寄せ、秋野は低く囁いた。
「顔を見て食うほうがいい」
「──! 馬鹿てめえ、飯が冷め──!!」
「温め直せばいいだろ」

 結局、部屋の中に漂う料理の匂いを嗅ぎながら、新しいダイニングテーブルの上で意地汚く錠前屋を食い散らかした。
 もう下ろしたてではないテーブルで向かい合って食った、温め直した哲の手料理は美味かった。