01 深夜の帰宅

 何かが首筋に当たっている。そう感じて目を覚まし、哲は低い呻きを漏らした。
 動物が匂いを嗅ぐように哲のうなじに鼻を埋めていた奴は、哲が起きたと分かると、がぶりと噛みついてきた。
「痛え!」
 払いのけようとしたが、俯せの上、ほとんど羽交い絞め状態で押さえつけられて、身動きが取れない。
「齧んな馬鹿、てめえは毎度それ──」
 更に齧られ、思わず威嚇する動物みたいに唸ったら、そいつは喉を鳴らすように低く笑った。

 同居する前にも、泊まったことくらいあった。
 というより、何度泊まったかなんてもはや分からない。
 酔っぱらって押し掛けたこともあるし、飲みに立ち寄ってそのまま泊まったこともある。ただ、パターンはいくつかあったが、家主がいないときに泊まることはなかったように思う。もしかしたら皆無ではないかもしれないが、覚えていない。
 ベッドか床かソファか、哲が横たわっている場所はともかく、寝付くときには当然ながら同じ建物内のどこかに秋野がいた。
 深夜に帰宅したら誰かがベッドで眠っていること自体が珍しいからか、違うのか──同居を始めてからこっち、仕入屋は、哲が一人で眠っていると必ずこうしてじゃれついてくるようになった。
 初回はさすがに驚いた。寝惚けて思わず殴りつけたのだが、何も考えていなかったせいか、拳はちょうどいい角度で仕入屋のこめかみにぶち当たった。
 お陰で奴の逆鱗に触れ──というか、そもそも悪いのは自分だという反省はないのかあの野郎には──逆に撲殺されそうになった……と、それは大袈裟かもしれないが、えらい目に遭ったのは間違いない。
 さすがに何度か繰り返すうちに哲も慣れたが、大型犬どころかネコ科の大型肉食獣に襟首を銜えられているような状態で目が覚めるのがどんな気分か、一遍味わわせてやりたいとは未だに思う。
「退けっつーの邪魔くせえ……!」
「三週間ぶりなのに冷たいねえ」
「ああ? どんだけいなかったかなんて知るか! 大体……っ」
 喚いてなんとか身体を捩り、仰向けになる。重石は退かないが、少なくとも拘束されているような苛立ちからは自由になってほっとした。
「重てえな! いつからいねえのか知らねえし!」
「俺が太ったみたいに言うなよ。しかし薄情な奴だな」
「うるせえな、文句あんなら帰ってくんなもう」
「まあそう言うなよ。それに、ここは地べたまで俺のだぞ。帰ってくる権利はあるだろう」
「どうせ偽名じゃねえか」
 仕入屋は低く笑ってベッドサイドに手を伸ばし、間接照明を点けた。空間がだだっ広すぎて、明るくなったのは本当にライトの周りだけだが、顔は問題なく見えた。
「どこか行ってたのか」
 欠伸をしながら訊ね、ライトの下にある煙草に手を伸ばす。しかし、パッケージを掴んだら何故かやんわりと取り上げられた。
「何だよ」
「土産だ」
 ハイライトの代わりに握らされたのは見たことのないパッケージだった。
「なんだこれ、何語?」
「ベトナム語」
「……ベトナム行ってたのか?」
 戸籍がないんだからパスポートもないんだろうと漠然と思っていたのは昔の話だ。
 偽造パスポートなんてハリウッド映画の話だと思っていたら、偽造どころか名義が違う本物をたくさん持ってる奴が身近にいた。実際に一ヶ月くらい見なかったと思ったらフィリピンに行っていたこともあった。だが、今回は違うらしい。
「いや、違う。もらったんだ」
 そう言うと、秋野はポケットから次々と箱を出して哲の胸に放り出した。
「一体どこにそんだけ入ってたんだよ」
「安いんだって言ってたぞ」
 頬杖をついて見下ろしてくる秋野が箱を押し付けるから、仕方なく一本取り出し銜えてみる。いずれにしても、哲に好きな銘柄はあってもこだわりはない。ニコチンさえ含有しているならそれでいいのだ。
「まあ普通」
 我ながら語彙が乏しい感想とともに差し出すと、秋野も受け取り吸いつけて頷いた。
「だな」
「おい、どうでもいいけど邪魔だ。片付けろよ」
 秋野は掌で煙草の箱を薙ぎ払った。紙の箱がばらばらと音を立てて床に落ちる。
「あのなあ!」
 呆れて声を上げた哲の上に秋野が覆い被さり両手で哲の頬を包んだ。その冷たさに驚いて口を噤む。真冬でもあるまいし、外はそれほど寒くない。何某かの緊張か、ストレスか。眠っている人間と布団は温かい。仕方ねえなと内心溜息を吐き、哲は全身の力を抜いた。
「なんだ、今日は暴れないのか」
「……面倒くせえ。眠いし、せっかくあったけえのに」
「俺のこともあったかくしてくれ」
 秋野はおかしそうに笑った。
 ゆっくりと重なった唇もひんやりしていて身震いする。どこで何をしていたのやら。まあ、別に興味もないが。
 冷たさが徐々に消え、体温が溶け合う。舌も粘膜も溶け合ってしまうような気がする。叩き起こされ眠たいから噛みついてやるのもやっぱり面倒で、哲は、与えられるものをそのまま受け入れた。
「哲」
 囁いた秋野が首筋に唇を寄せ、顎を辿って耳朶を噛んだ。思わず跳ねた身体をマットレスに沈めるように体重がかかる。
 煙草を取り上げた秋野はもう一口吸いつけて灰皿に放り、間近で哲の顔を覗き込んだ。薄い色の瞳がライトを反射して透け、瞳孔が僅かに縮む。
 どこにいて誰と何をしていたってどうでもいい。
 戻ってくるなら。
「……ただいま」
 間近で囁かれた低い声は、もう一度重なった唇の間に溶けて消えた。