就寝なお題 06-10

06 おやすみなさい

 馬鹿なことを言った、と思う。古河の決して大きくない目がいっぱいに見開かれているのは案外と面白かったが、だからといって何の慰めにもなりはしない。
 高木は、昨晩のことを思い出して溜息を吐いた。
 自分の部屋だというのに落ち着かず、自ら仕掛けたことなのに、まだ起き出して来ない古河の顔を見る気になれなくて家を出た。
 榊がいるから、特別困ることはないだろう。榊は、高木の家のスペアキーを持っている。別に、親友だから渡したとかいう美しい物語があるわけではない。飲んで帰れなくなった榊が頻繁に——しかも深夜——転がりこんできた時期があったせいで、面倒くさいから勝手に入れと渡しただけだ。
 高木がまともに眠れないまま朝を迎えたのと逆に、榊は幸せそうに熟睡していた。腹が立ったからひとつ蹴飛ばしてみたが、一向に目覚める気配はなかったのがまた腹立たしい。
 知り合いに電話をして昼飯を食い、映画館で長い映画を見て時間を潰したが、それでもまだアパートに戻る気にはなれなかった。あちこちをうろうろした挙句、思い立って髪を切りにやって来たのだ。
 日曜の夜だからか、高木の他には客は一人。三十代と思しき女性客は、ロットを巻いた重そうな頭を機械に焙られながら、静かに雑誌を読んでいる。
「どうしたの、大きい溜息」
 シャンプーした高木の髪にドライヤーの風を当てながら、美容師は穏やかに笑う。客商売だから当たり前なのかもしれないが、いつも穏やかな笑顔の彼らに高木は今更ながら尊敬の念を抱いた。仕事中であれば高木も愛想笑いくらい作れるが、それは結局会社対会社の付き合いだからに過ぎない。
「…………」
「仕事? 恋愛?」
 何と言おうか考える高木を鏡越しに見て、美容師は首を傾げた。
「——あとのほう」
 会社の同僚の紹介でここに通い始めてもうすぐ一年。彼との関係は美容師と客の域を出ず、友達同士とはかなり違うが、だからこそ何でも言えるということもある。美容師は高木の言葉にそうかー、と相槌を打ち、ドライヤーを鏡の横のワゴンに戻して鋏を手にすると、高木の髪を梳き始めた。
「で、何、その暗い顔は振られちゃったの?」
「いや、まだ」
「何、まだって。可能性ないんだ?」
「……それもよくわかんねえ」
「何だよ、高木くんでもそんなことあんの。滅茶苦茶もてるって話じゃない。でも、ちょっと安心するけど」
 高木が身じろぐと、肩にかけたケープから髪がさらりと滑り落ちた。床に散った髪の毛は薄い埃のように見える。しゃきり、と鋏が音を立て、こんなふうに想いを切り落としてしまえるならそうしたいと本気で思った。
「俺のことなんかなんとも思ってねえのは分かってんの。中学高校の頃ならともかく……この歳になってそういう相手に入れ上げんのって時間の無駄な気がして仕方ねえんだけど」
「…………ああ」
「それでも、どうにも諦められないっていうのは」
「分かるよ、それ」
 切れ味の鋭い刃物特有の澄んだ音が、店内のBGMと不思議と調和し、音楽のように耳に響く。
「俺も、俺のことなんか目に入ってないひとを好きになったことあるよ。こっちは必死なのに、向こうは全然」
「へえ……で、どうなったの」
「どうにも。最初から最後まで、そのひとは俺のことなんか眼中になかった」
 にっこり笑う彼の顔には、表面上は僅かの翳りも見えなかったが、実際はどうなのかは読み取れなかった。
 高木は何となく言葉が出ず、口を噤んだ。古河の顔が目に浮かぶ。こんなふうに笑ってほしいと思ったことはない。何かを繕うような表情は、高木の知っている古河には似合わないような、そんな気がした。

「彼女とうまくいくといいね」
 エレベーターの下降ボタンを押し、美容師は笑みを見せた。
「……ああ、うん。ありがとう」
「おやすみ」
 穏やかな微笑の下には一体何があるのだろう。それはこの先自分が見るものなのか、違うのか。高木は、エレベーターの閉まりかけたドアを手で止めた。
「伊藤さん」
「——何?」
「あんたの中で、折り合いはついたの?」
 美容師はもう一度、穏やかに笑った。先ほどまでとは明らかに違う表情を浮かべ、それでも彼は口の端を引き上げた。
「おやすみなさい」
 静かな声には、何が滲んでいたのだろう。ゆっくりと頭が下がり、趣味のいいアッシュブラウンに染めた髪がさらりと流れる。エレベーターの扉が閉まるまで、彼は、俯けた顔を上げようとはしなかった。

07 熟睡中

「何で俺なんかがいいのか分からない」
 いつもなら、とっくに熟睡している時間。
 古河は、そう言って頭を抱えた。電話の向こうでうーん、と唸る槙田の声がする。仕事のことなら打てば響くように答えを返してくれる先輩も、色恋沙汰では人並みだ。しかし、少なくとも結婚はしているのだし、結婚生活は円満そうだ。
「それは本人に訊いてみるしかないんじゃないの」
「そうですよね……遅くに電話して、こんな話ですみません」
「いや、それはいいって。いつも言ってるだろ、遠慮なく電話してこいよ。俺もかみさんも宵っ張りだからさ」
 自分の裸足の爪先を見つめながら、古河は今日何度目かの溜息を吐いた。
 高木の告白。あれを冗談だったと思うほど鈍くはない。だからと言って、寝起きに平然と顔を合わせることができるほど冷静ではなかった。高木が出かけた音に飛び起き、逃げるように自室に帰った。今日は金曜、ほぼ一週間経つが、あれから、朝の電車に高木は見当たらない。多分時間をずらしているのだろう。
「うちのかみさんがいれば女心について訊くんだけどな」
「いいですよ、別に。……ってか、こんな遅い時間にお出かけなんですか? 奥さん」
「遅いかあ? お前が普段寝るの早いだけだろ? 歩いて三分のところにあいつのお姉さんが住んでるんだけど、旦那が出張でいないんだってさ。ケーキ持って遊びに行った。しかし女ってのは晩飯食った後によくケーキが食えるよな」
「そうですか。そうですね」
「多分あと三十分もしたら戻ってくるけど、女心レクチャー受けるか?」
「いや、いいっす……ねえ、槙田さん」
「何」
「奥さんのこと、何で好きになったんですか」
 槙田が暫し黙り込み、ちょっとばかり照れの滲んだ声でぼそぼそと呟く。
「そりゃお前いろいろあるけど」
「けど?」
「寝てるときの顔がさー、子供みたいに可愛くて。痩せてるほうなのに、ほっぺたが、こう、ぷっくりしちゃってさ。何かこれは俺が守ってやらなきゃならんと……ま、実際は俺よか女房のほうが余程強いけどなあ」
 それは、男の習性から言って、とても自然な理由に思えた。基本的に男は庇護欲をそそる相手に弱いのだ。しかし、もしも高木にそんなふうに思われたのなら心外だし、迷惑な話だと思う。
 古河を守りたいと口にしたことがある靖人の顔が目に浮かんだ。友成さんが大事、友成さんを守りたい。それが男である古河の心にどう響くか、年若い彼には分からなかったのだろう。
 照れ隠しなのかやたらとでかい槙田の笑い声につられて思わず笑い、当たり障りのない言葉を交わして電話を切った。
「おわ!?」
 切ったと思ったら鳴り出した電話に驚き、古河はベッドの上に携帯を取り落とした。
「…………俺は今熟睡中です。電話には出られません」
 マットレスの上で動く電話が生きているかのように睨みつけて言い聞かせたが、勿論聞き分けるはずもない。いつまでも駄々をこねる電話を掴み上げ、表示された名前を数秒見つめて応答する。
「もしもし」
「起きてるならさっさと出ろよ」
 殊更横柄な口調で言う高木の真意はどこにあるのか。電車で顔を合わせるのすら避けたくせに。すぐそこで喋っているらしく、声が電話からだけでなく、ドアの向こうからも聞こえてくる。黙って通話を終わらせて、古河はゆっくり立ち上がった。玄関に向かい、数秒ためらったが、諦めて鍵を開けた。
「こんばんは」
 高木は投げやりな口調で言い、ちっとも楽しくなさそうな笑みを浮かべた。
 広い肩を持つ高木に、細身の黒いハーフコートはよく似合った。落ち着いたチャコールグレーとターコイズブルーのストライプのマフラー。多分、女の子はこういうセンスに弱いのだろう。
「……何」
「入っていいか」
「嫌だっつったら帰んのか」
 思わず訊くと、高木はさあ、と言って首を傾げた。
「じゃあ訊くんじゃねえよ。入れば」
 背中を向け、部屋に戻る。高木は暫く玄関に突っ立っていたが、靴を脱ぎ、古河の後について部屋に上がった。冷蔵庫から缶ビールを出して見せたが、高木は無言で首を横に振った。コートのポケットに手を突っ込み、洒落たマフラーに顎を埋めたまま、安っぽい蛍光灯の光に照らされて佇む高木はまるで知らない男に見えた。
「残業だったのか? 随分遅いんだな」
 気まずい沈黙をどうにかしようと言ってみたが、高木はただ頷くだけだ。時計の秒針が動く小さな音がやたらと大きく響いて聞こえる。
「——聞かなかったふり、するなよ」
 高木が小さくそう言い、瞬間的にかっとなった。
「んなこと言うお前が、電車ずらしてんじゃねえよ!」
 深く考える前に怒鳴ったのは、怒りのせいか困惑のせいか、古河自身にも分からなかった。気がついたら、高木の腕の中にいた。駅から歩いて来たからだろう、ウールのコートの表面が酷く冷たい。
 来週月曜の営業会議で報告するグラフ。売上の折れ線グラフはやはり青い点線にしよう。
 今の状況とまったく関係ないことが、一瞬古河の頭を過った。

08 正夢

 マフラーのターコイズブルーが、古河の色素の薄い髪の色によく映えた。
 高木の首から抜け、床に落ちたそれ。コートを脱ぐ余裕も、ネクタイをほどく余裕も、寝室どころかソファまでたどり着く余裕もなかった。反った古河の喉の、脈打つ血管。女の滑らかで細い首とは明らかに違うそのつくりが、やけに生々しく、腕の中の人間が男であることを感じさせた。
 こんなつもりじゃなかったと、頭の隅で自分が呟く。一体、何がこんなつもりではなかったのだと言うのだろう。古河を好きになったことか。話をしたくて来てみたのに、結局こうして身体を重ねていることか。
「たかき」
 苦しげな声で古河が高木の名前を呟いた。眼の縁を赤く染め、片手で自分の前髪を握り締めながら古河は腹を波打たせた。
 たくし上げられた紺色のTシャツは、何年部屋着として使われているのか、すっかりへたって紺色が白っぽく褪せている。紺色と対比すると肌の色が随分と白く見えた。肉のない古河の腰骨を掴んで引き寄せ、更に深く進入する。高木の動きに合わせて上がる声が徐々に切羽詰まって、ただの掠れた息になった。
「高」
「黙ってろよ」
 口を塞いで囁くと、古河が眉を寄せて目を眇めた。
 ゆっくりと這い出すようにして引き抜き、焦らすように、擦りつけるようにして押し込む。非難がましい色を見せていた古河の目が徐々に霞んで焦点が合わなくなるのを、高木は、僅かな嗜虐心とともに見守った。

 前の晩、夢を見た。
 古河が可愛い女と手を繋ぎ、俺達結婚するんだと晴々と笑う夢だった。
 高木の隣には唇が色っぽいアイコちゃんが座っていて、うわあ、おめでとう、よかったねえ、と叫んでクラッカーを鳴らす。ほらほら、タカキくんもお祝いしようよ。握らされたのは何故かクラッカーではなくワイヤレスマイクで、高木は高砂の二人を見つめながら型どおりのスピーチを口にしていた。
「僕が古河くんと初めて会ったのは、通勤電車の中でした」
 古河は槙田という男に見せるような全開の笑顔を高木に向けて、ありがとうと手を振った。高木の頬は濡れているのに、古河はそんなことには気付かない。似合う奴を見たことがない真っ白なタキシードがどうしてか古河にはぴったりで、高木は嗚咽を漏らしながらスピーチを終わらせる。いつの間にか式場には誰もいなくなっている。ただ、高木が突っ立つテーブルの真ん中に、てっぺんが見えないくらい高いウエディングケーキが乗っかっているだけだった。
 阿呆みたいな夢だった。起きた瞬間感じたのは、あまりに幼稚な夢の内容に対する怒りと、自分に対する呆れだった。これが正夢になったとしたら、俺はどうしようもない馬鹿たれだ。

 古河の身体が強張り、痙攣して弛緩する。溜息にも似た微かな呼気が吐き出され、高木の前腕を握り締めていた古河の手が緩む。手が滑り落ちると同時に、高木は古河を突き上げた。
「——っ……おい、高木、待て……」
「古河」
 焦りを含んだ古河の声に構わず身体を進めながら高木は古河の名前を呼んだ。
 その気があったわけではない相手を強引に、しかも床の上で抱いておいて、好きもへったくれもないではないか。そう思われても仕方がない。
「お前が好きだ」
 仕方がないが、事実なのだからそれもまた仕方がない。
 揺さぶられ、酷く色っぽい喘ぎ声を漏らしながら、古河が何かを探すように視線を彷徨わせる。
「古河」
「ん……っ、……んな、ときに…………お前、卑怯……」
 切れ切れに高木を非難する古河の掠れた声は、今この瞬間は、確かに自分だけのものだった。
 高木は、仰け反った古河の喉に噛み付いた。
「あ……ああ————」
 長く引き伸ばされたような古河の声が尾を引き、掠れ、震えて消えた。
「うるせえ、卑怯で悪いか」
 耳の中に呟くと、古河の身体がびくりと揺れる。古河が何か呟いたが、何と言ったか、高木には聞こえなかった。

09 寝言

「マジかよ」
 古河は、バスタオルで頭を拭きながら、寝室の入り口でそう呟いた。
 高木と古河が床から立ち上がり、向かった先は風呂ではなく寝室だった。どう盛り上がったものかはっきりいって曖昧なのだが、お互いその気になって疲れ果てるまでセックスして、結局何の話もしないままだった。古河がシャワーを浴びに行ったときには起きていたはずの高木は今、古河のベッドで寝息を立てている。
「寝んなよ……人のベッドで」
 幾ら明日が休みだからって、と続けてみたが、寝ている相手には聞こえない。
「でかくて邪魔なんだっつーの……」
 百八十を超える背丈の高木と一緒に寝るにはベッドは狭い。しかし、更に狭いソファで寝るのと、ベッドの空いている部分で寝るのとでは、大して差がないような気もする。とりあえず、古河はベッドの高木が転がっていないほうの端に腰掛け、高木の寝顔を見下ろした。
 古河は溜息を吐いて煙草を探した。ベッドの横に置いた椅子の背もたれにかかったコートを探ると、一本しか残っていない箱が出てきた。一緒に入っていた焼肉屋のマッチを擦って火を点ける。リンの匂いが漂って、古河は高木の精悍な顔を見下ろしながら、その香りに目を細めた。
 確かに、身体の相性はいいのだろう。別に男が好きなわけではないが、高木とのセックスには我を忘れさせる何かがある。だが、だからといって女のように扱われるのはご免だし、好意に対して女のような反応を期待されても無理な話だ。
 靖人が無意識にそうしたように。
 靖人は、多分古河に女を求めたわけではないだろう。だが、これ以上ないくらい大切に扱われ、優しさと愛情と献身を差し出されて、男である古河はどうすればよかったというのだろう。感激して愛を返せばよかったのか。古河自身、庇護されるのも、征服されるのも好まない一個の牡だというのに。
「何で俺なんだ」
「寝言」
 独り言に返事が返ってきて驚いた。寝言かと思いながら高木の顔に目を向けると、しっかりと開いた目が古河を見つめていた。
「誰かとやってる最中の夢、見てたんだと思うけど。いつだったか部屋まで起こしに行ったら、寝言でもう勘弁みたいなこと口走ってて」
「……何だ、それ……俺はアホか…………」
「それで——こいつ、男相手にできんのか、って思った。何となく、興味湧いたんだよ」
 古河は煙草の灰を払い、思い切り顔をしかめた。
「何で俺とやってみる気になったかは分かったけどよ。俺が訊いてんのはそういうことじゃねえんだけど」
 高木がベッドの上で長身を動かす。剥き出しの肩が動くと、肩の付け根の筋肉が鎖骨の動きと連動して緊張した。引っ張られる筋と皮膚。その下で動く筋肉の束に、何故か酷くそそられた。ゆっくりと唾を飲み込み、古河は殊更ゆっくり煙草を吸った。
「……人の懐に簡単に入るくせに、本当は相手に懐いてないお前が好きだ」
 高木は枕に顔を押し付け、くぐもった声でそう言って、半分だけ顔を古河に向けた。乱れた高木の髪が意外に濃い睫毛の上にかかっている。
「媚びない、強い、どっか傲慢なお前が好きだ。俺が機嫌取る必要も、守ってやる必要もない自立したとこが好きだ」
 高木が言葉を重ねる毎、脳みそが少しずつ活動停止していくような気がして、目眩がする。
「抱かれてるときの半分飛びかけた顔が好きだ。黙ってたら飯もろくに食わないどうしようもないとこも、酔ったら絶対高校の校歌歌い出す馬鹿なとこも」
「何だそれ、歌ってねえよ」
「歌うんだよ、知らねぇだろ」
「……知らね……」
 高木はのそりと起き上ると、古河の手から煙草を取り上げ、一口吸いつけた。
「硬くて骨ばってて煙草くさいとこも好きだ」
「……誉められてる気がしねぇんだけど?」
「誉めてんだけどな。……古河、悪かったな」
「何が」
「分かってるだろ。訊くなよ」
 高木は煙草を銜えたまま、ベッドから出て立ち上がった。バランスの取れた長身は、贅肉もないが筋肉もない古河の身体とは大分違う。乱れた髪はまるで寝起きだが、それでも十分男前だった。
「見込みのねえ相手にしつこく迫るのは趣味じゃねえんだよな」
 吐き出された煙が天井にまつわりつくように漂った。何故か鳩尾に塊を詰め込まれたように息が詰まった。悪かった、なんて謝るくらいなら、好きだなんて最初から言わなきゃいい。言いかけた言葉が喉に張り付いて、くぐもった短い呻きになった。
「でも、お前は別だ」
 高木は煙を吐き出してそう言った。
「形振り構ってられねえって、さっき気付いた。遠慮するのは止めた。後悔すんのも、後にする」
「え」
 おやすみ。
 あっさりとそう言うと古河に背を向けて、散らばった服を拾い集めて高木は寝室から出て行った。
 身づくろいをする衣ずれの音、ドアが静かに閉まる音。
「……寝言じゃねえんだろうな……おい……」
 呆然と呟いた古河の声が、一人きりになった部屋の床にぽつりと落ちた。

10 寝ぼけた頭

「結構降ってんな、雪」
「ああ……そうだな」
 一週間の不在などなかったかのように、高木はごく普通の顔をしてホームの古河の横に立ち、コートの雪を払いながらそう言った。
 土日、古河は部屋から一歩も出なかった。高木と顔を合わせず、二日間ゆっくり考えたいと思ったからだ。しかし、実際のところ、何を考えればいいのかは分からなかった。高木が自分を好きだという、その理由のあれこれに、一体何を思えばいいのかも。
 高木からは土曜の昼間に一度電話が来た。部屋に来ないのは高木なりの気遣いだったかも知れないが、電話に出ても何を話していいのか分からない。結局古河が携帯を取り上げる前に着信音は途切れ、その後はかかってこなかった。
 高木が右手に提げたビニール傘についた雪は既に水滴になっている。ホームはいつもの倍の人でごった返し、久々の雪に案の定ダイヤは乱れているらしかった。
「遅れてんのか」
「んー、そうみたいだけど。俺も今着いたとこだし、知らね」
「次、乗れっかな」
「さあ」
 古河は寝不足でぼんやりした頭を巡らせ、反対側のホームに立つ若い女を見ながら返事をした。ショートパンツから突き出た棒きれのように細い脚。黒いタイツに包まれた脚は、ボリュームのあるムートンブーツに収まっている。彼女の下半身はミッキーマウスにそっくりだ。
「お前さあ」
「ん?」
 高いところから降ってくる高木の声は平坦で、特別感情は籠っていない。見上げると、高木もまた向こうのホームに目をやっていた。
「今日、暇か」
「……今日って、いつよ」
「だから今日だって」
「残業する予定はねえけど」
「じゃなくて、今日」
 高木の向こう側に立っている年配の女性が、横目でこちらを一瞥した。今どきの若い男の日本語ときたら、何を言っているのかさっぱり分からない、とでも思ったのだろう。俺にだって分からないと内心溜息を吐きながら、古河はもう一度高木を見た。

「おい、何考えてんだよっ」
 喚きながら蹴飛ばしたが、いかんせん体格差があり過ぎる。
 古河の上に馬乗りになった高木は、まあまあ落ち着けって、と呑気に言いながら携帯を取り出した。
「あ、おはようございます。高木です。はい、ちょっと風邪気味で……午後からは行けると……ああ、そうですか。はい、じゃあそうします。すみません。ええ、今日は大丈夫です。じゃあ失礼します」
「高木!?」
 古河の寝ぼけた頭は今やすっかり覚醒していたが、手遅れと言えば手遅れだ。
 高木は古河の手首を掴み、駅舎から出ると何とラブホテルに直行したのだ。駅の周りはそれなりに飲み屋や何かが多い繁華街ではあるが、この時間にホテルに入る人間は多くはない。出勤する会社員でごった返す通りから離れているとはいえ、少なくとも三人の女性が目を丸くして二人を見送ったことに間違いはなかった。
「お前も電話しろよ、会社」
「冗談じゃねぇぞ、退けよ! 俺は電車に」
「古河」
「お前な、社会人として最低だろ!」
「古河」
 古河は口を噤んで高木を見上げた。コートを着込み、マフラーをしたままの高木が口元を歪めて古河を見下ろしている。
「なあ、お前が好きだって言ったよな」
「……聞いたけど」
「お前が俺のことなんかなんとも思ってないのは知ってる」
 高木は言いながら、古河のコートのボタンを外し、ジャケットのポケットを上から叩き始めた。そうしてズボンのポケットの中の携帯を探し当てると容赦なくそれを引っ張り出し、古河の右手に妙に優しく握らせた。
「だったら努力しねえとな」
「これが努力か」
「身体の関係から入ったのは失敗だったかもしんねえけど」
 高木の指が古河のネクタイを素早く解く。首に手を添えて持ち上げ、マフラーとネクタイを引き抜きながら、高木は尚も言葉を継いだ。
「今更そんなこと言ったって仕方ねぇし。身体の相性はいいんだし、それならそっち側から落としちゃいけねえって法はねえだろう」
「お前な、高木、レンアイってのはそんな」
 高木が不意に狼のような笑みを浮かべた。
 不遜で、酷薄で残忍そうな。
「古河」
 古河は高木の笑みに魅入られながら、無意識に携帯電話を握り締めた。指先が痺れるのはどうしてか。触れられてもいないのに息が浅くなるのはどうしてか。高木の、少し熱を持ったような熱い指先がワイシャツの襟元から入り込んで肌に触れる。頸動脈がひとつ大きく脈を打ち、古河は喉を反らして吐息を漏らした。さっき覚醒したはずの頭にまた靄がかかる。酔ったように、発熱したかのように頭が回らない。これは一体何のせい。誰のせいなんだ。

 高木は古河の耳朶をきつく噛み、喘ぎながら身体を捩る古河の耳の中に言葉を押し込む。
「古河、電話しろよ。微熱があって、行けねぇってさ」
 古河の右手がゆっくり上がる。
 震える手で電話を握り締める古河の耳元に、高木は甘く掠れた声で「早くしろよ」と囁いた。