欺いた手の切っ先にあるもの

「ヤスダが死んだ」
 一瞬何のことか分からず、持っていた煙草から流れる煙の行方を目で追った。ふわりと舞い上がり、自重に耐えかねるように崩れ落ちるそれは、絡み合った蜘蛛の糸のようにも見える。蜘蛛の糸というのは芥川だっただろうか。お釈迦様が垂らす糸の細さには耐えられないほど俺は余計なもので重いだろう、と頭の隅で考えた。
 ファミレス系列の中途半端な雰囲気のカフェには、フランス語と思しき言語の曲が控えめに流れている。今まで目の前にいた依頼人のことを考えながら、哲はまた煙を吐き出す。
「なあ、聞いてるか? ヤスダだよ、安田薫だ。哲仲良かっただろ」
 鴨井の声に我に返り、哲は目をしばたたいた。鴨井と話すのはあの飲み会以来だ。そもそもお前が伊藤を呼んだりするから、面倒なことに——。
「ヤスダ? 安田ってあの安田か」
「だから安田薫だって! お前クラス違ったから連絡来てないかと思ってさぁ……」
 耳の奥で鴨井の頼りない声が弱々しく木霊して、哲は思わず目を閉じた。
 安田薫は哲が荒れていた頃に、一緒にいることが多かった友人の一人だった。
 高校時代の友人の中には、今も連絡を取って飲みに行くのもいれば、疎遠になった者もいる。人より多く通った分顔見知りは多いが、哲自身が悪かった頃つるんでいた奴らは、本当の意味で“悪く”なってしまったというのも多かったからだ。安田は更正はしたが地方に就職したから卒業以来頻繁に会うことはなくなっていて、特にここ一年ばかりは連絡が来ていなかった。
「ここんとこ連絡来てなかったから。あいつも俺もまめに連絡取ったりしねえし、元々年に一遍会うか会わないかだしよ」
「そっか……。まあ、そうだよな。近くにいりゃ別だろうけど、こっちにいないんじゃ中々会えねえもんな」
「死んだって、何で」
「俺も分かんねーけど、病気とかって話は聞いたこともねえし、事故とかじゃねえのかなあ? 昔の連絡網で実家に電話来たんだよ。こっちで葬式やるから日にちと時間の連絡だっつってさあ。哲も行くだろ、葬式」
 ああ、と答えて掌を差し出す。無言で伸びた手が、ボールペンとお客様アンケートを差し出した。薄緑色のアンケート用紙を裏返し、鴨井の言う斎場名と時間を書き留めて電話を切る。見上げると、秋野の薄茶の眼が、煙の向こうから真っ直ぐに哲を見ていた。
「知り合いが、死んだって」
 それだけ言うと、秋野は軽く頷いた。
「そうか」
「通夜、今日だっつーから、明日は予定通りでいいわ」
「お前がいいならいいんじゃないか」
 仕事の話に戻れるということは大丈夫だと判断したのか、秋野は何も訊いてこない。紙コップに入ったそれなりの味のコーヒーを啜り、煙草を灰皿で乱暴に揉み消す。
「何て言ったらいいか、」
 哲は掌で顔を擦り、紙コップに印字されたロゴを見つめて溜息を吐いた。
「暫く会ってないせいか、実感ねえな」
「そういうもんだろう、きっと」
「そうかもな」
 前に、最近はバイクに乗っていると言っていた。会社は辛いが別に辞めたいというほどのこともないし、女もいるし、それなりだ。そうやって笑っていたが、無理をしてスピードでも出してコケたか、それともひっかけられて頭でも打ったのか。
 秋野と仕事の話を詰めて席を立つ。コンビニに寄って買った香典袋をぶらさげて部屋に戻り、黒いスーツを引っ張り出して革靴を探す。
 斎場に漂うおかしな空気に気付いたのは着いて暫く経ってからで、隣に寄ってきた鴨井も妙な表情だった。読経の間中囁かれる密かな声に、鴨井がひとつ涙を零し、哲は膝の上の手を関節の色が抜けるほど握り締めた。

 

 

「根っこ黒くなってんぞ」
 安田が哲の髪を荒っぽく掴み、地肌に近い部分を覗き込んだ。階段の下の段から斜め後ろに引っ張られて、思わずよろける。
「危ねえな!」
「おっかねえ声出すなよー。先生達がいらしたらどうすんのよ」
 安田は哲を見上げて肩を竦めた。授業中の廊下は静かで、微かに誰かが何か言う声が聞こえるが、誰のものかは判別できない。沢山の人間がいるざわめくような気配はあるものの、校舎内をうろついているのは自分達だけのようだ。
 哲は上から安田の頭に拳骨を振り下ろし、掴まれた髪を直してまた階段を上り始めた。先日盛大な殴り合いを演じたときに出来た瘤が治りきっておらず、頭皮が引っ張られたので痛みがぶり返したのだ。安田は痛え、と文句を言ったが無視していると静かになった。踵を踏んだ上履きが、ぺたぺたと階段を叩く音がする。
「——黒く戻すかな。色抜くのって結構面倒くせえのな」
 そういえば色の話だったかと、今更返事をした。安田も特に指摘はせず、くく、と喉の奥で笑って言う。
「そんな金色にすっからじゃん。俺みたいに上品な茶色にしておきなさいよ、佐崎くん」
「うるせえ、カオルちゃん」
 肘鉄を食らわせ、安田が嫌がる下の名前を呼んでやる。安田は顔を歪ませて舌打ちすると、後ろから哲の頭を思いきりひっぱたいた。
「薫って呼ぶなっつってんだろ!」
「気にすんな、可愛い名前だから。自慢にしろよ」
 実際、薫という名前は安田によく似合っていると哲は思う。男顔の範囲内ではあるが、安田は中々綺麗な顔立ちをしている。如何にも女が好きそうな、少女マンガに出てきそうな優男。もっとも見た目通りだとしたら哲やその他と進んでつるむわけもないのだが、女は別に安田と殴り合いをするわけではないから、余り関係ないだろう。
 大体において、今はまだ火曜の午後三時、同級生が勉学に励んでいるこの時間に屋上へ向かう階段を上っていること自体が間違っている。そして、しょっちゅう屋上でさぼっている自分たちを叱らない教師たちも間違っている。
「あーむかつく。お前マジむかつくな」
「うるせえなあ、たかが名前ひとつでいつまでも。嫌なら一人で居ればいいだろうが。俺は別にお前はいらねえよ」
「そういうとこがまたむかつく」
「分かった分かった」
 適当にあしらいながら、哲はゆっくり歩を進める。今日は喧嘩の予定もない。喧嘩に予定というのもおかしな話ではあるが、ある時もあるしない時もあるのは本当だ。暇だから授業に行くかと思ってみたが、たまに哲が座っていると、教師によってはこちらが可哀相に思うくらい挙動不審になったりする。
 自慢じゃないが、暴れたり野次ったりして授業の邪魔をしたことはかつて一度もない。眠い時だってわざわざ教室を出て眠るというのに、まったく理不尽に怖がられているのではないかと思うのだ。そんなわけで、最近は特に出席率が下がっている。誰かと屋上に向かうのも、いつもの生活の、一部分だった。

 

 チャイムに手を伸ばすのも億劫でドアを一回蹴飛ばす。一体今までに何度こうやったか覚えていないが、今回のように景気悪く蹴飛ばしたことは多分ない。
 暫く待ったが反応がないので思いっきり右足を叩きつけたら、苛立ったような文句と共にドアが開いた。
「壊れる——」
 文句を言いさした不機嫌な顔は、こちらの顔を見た途端に訝しげなものに変わる。余程どうしようもない表情だったのか、秋野は大丈夫か、と様子を窺うように低い声で呟いた。ドア枠に肩を押しつけて凭れた哲を見下ろし僅かに首を傾ける。
「上がれば」
「——心臓って」
「心臓?」
「二十代で、病気も持ってねえのに」
 線香臭い自分の体に何かが纏わりついているように錯覚して、上着の裾を軽く払う。通夜に行ってこんな気分になったことは今までなかった。靴を脱ぐ気配もなく玄関に突っ立っている哲に、秋野も何も言わず黙ってその場に立っていた。
 暫くの間の後、秋野は口を開けて何か言いかけ、哲の眼を見て一度瞬きして口を噤む。
「……やっぱりそうか」
「俺は本人を知らないからな。適当なことは言えないが」
 秋野は珍しく困ったような顔をして右手の人差し指で頬を掻いた。言い淀むような口調は秋野には似つかわしくなくて、こんな時だが僅かに笑い、笑った自分に少し驚く。ドア枠から肩を上げてドアを閉めたが、三和土に立ったまま滅多に履かない革靴に視線を落とした。
「いや、みんなそう思ってた、と思うぜ」
 心筋梗塞など縁がない人間が突然死に、心臓だ、と説明される時。それがどういうことなのか、何となくだが想像がつく。それは理由の曖昧さだけでなく、通夜に訪れた人間の顔からも容易く推測出来ることだ。
 もしかして。もしかして。
 誰もが思っていて口に出さないその問いは宙に浮き、線香の煙とともに視界を霞ませる。重苦しい沈黙にそそくさと焼香を済ませる人の列は、あっという間に短くなっていった。
「そんなことする奴だとは思ってなかったんだけどな」
「いつの知り合いだ」
「高校」
 秋野は髪をかき上げて息をつき、薄茶の眼で哲を見た。
「十六、七の頃からなら、幾らでも変わるだろう。学生から社会人になるだけで人間っていうのは変わるもんじゃないか」
「そうだな。けど、それでも、だ」
 安田の遺影は昔とも、この前会った時とも何一つ変わっていなかった。僅かに変わったのは髪型くらい。相変わらずカオル、という名前がよく似合う綺麗な顔に浮かぶ微笑みは、決して暗く沈んではいなかったのに。
「何かできたとはちっとも思わねえ」
 哲の零した台詞に、秋野は眉を寄せて目を眇めた。
「例えばあいつが俺を頼ったとしても、俺が理由を知ってたとしても。俺には理解できねえだろうし、助けてやれたなんて思い上がる気もねえよ。けど」
「哲」
「悔しいのは何でだ」
 ぐらりと揺れた上半身を支えようと壁紙に爪を立てた。喉が潰れたようなしゃがれた声と、流すつもりのなかった涙が同時に床に落ちる。
「お前なら分かるか」

 秋野に頭を抱きこまれ、逆らう気にもなれずに身体を預けた。
 滅多に会わなくなっていたから、悲しみは酷く曖昧で現実味がない。ただ、悔しくて、悔しさに涙が出たというだけだ。何も出来なかったから悔しいというのではなく、何も分からないことが悔しい、と。
 玄関の段差の分、いつにも増して見下ろされる。秋野の顎の下に頭がすっかり入ってしまって、押し付けられたシャツの胸に涙が滲んで染みを作った。普段なら突き飛ばしたいという衝動が湧き上がるが、今はそんな気力もどこかに息を潜め、蹲って出てこない。
 ゆっくりと腕を持ち上げ、秋野の背に手を回した。縋る気も何もないのは変わらないが、見てしまったものを瞼の裏から追い払えないなら目の前にあるものを見るしかない。見なければよかったのか、見てよかったのか答えはないが、それでも見るべきであったのだという確信はある。
 広い背に爪を立てて力いっぱい引き寄せる。身じろいだ身体を抱き締めて額を鎖骨に擦り付けた。
「哲?」
「死に顔は、普通だった」
 秋野が身体を離そうとしたが、回した腕に力を込める。
「おばさんに——安田の母親に言ったら会わせてくれた。薬だったらしいって、近くにいた奴らが話してたの聞こえてたから、まあそんな変わってるはずもねえだろうって思ってよ。眠ってるみたいな普通の顔してたけど。何だろうな、あれ——顔の半分に青い痣みたいな、うっ血した痕みたいなのが浮いてて、顔色はすげえ白くて」
 秋野は黙って聞いている。頭を抱く手が緩やかに動いて髪を梳く。長い指の感触に注意を逸らされながら、口からは勝手に言葉が流れ出る。何を言いたいのか、秋野にそんなことを言って一体どうしたいのか、分からないままに垂れ流す単語の羅列に秋野が低く呻いて不意に腕に力を入れた。
「来い」
 腕を引っ張られ、無理矢理玄関に上がらされてつんのめる。
「ちょっと待て、靴……」
「あとで脱がせてやる」
 土足のまま部屋の中に引っ張り込まれ、寝室まで連れて行かれてベッドの上に押し倒された。見ていたのかそうでないのか、居間からごく小さくテレビの音が聞こえてくる。秋野の首筋に微かに香る香水と、人間の肌の匂いに訳もなくまた涙が出た。
「——みっともねえったらねえな」
 自嘲気味に呟いた唇を塞がれ、頭と肩を抱え込まれて呼吸まで食われてもがく。両手を秋野の髪に突っ込んで引き剥がしかけ、思い直して引き寄せた。
 安田の死に顔を、安らかとは思わなかった。
 命の抜けた身体ひとつ、笑んでいようが泣いていようが、筋肉の残した形に取り立てて意味はない。お前を追い詰めたのは「何」だったのか、それとも「誰」だったのか。問いかけても答えるはずのない冷たい顔の額に手を当てて、哲は暫し安田を眺めてみた。鼻の詰め物に、安田は本当に死んだのだと初めて思う。どれだけ恨んでも憎んでも、永遠なんてないというのに。いつかは消える感情ならば、幾らどす黒くても、それで自分が傷ついても、それを抱えて生きていればよかったものを。それともそう思うこと自体、安田にとっては残酷だったと言うのだろうか。
 潜り込んでくる舌の温度に身体が震え、息が乱れた。秋野の体温は人より低い。それでも間違いなくそこにある生物の温度に、哲は酷く安堵した。

 

 哲は屋上のドアを開け、先に立って外に出た。春の風は温かいが、四階に当たる屋上は流石に風が強い。この学校の屋上は手すりが低く、落ちた者こそいないが危険だといつも言われ続けている。それなのに施錠もせずにそのままと言うのは学校の怠慢なのか、それともいっそ不良学生の一人でも落ちてくれればせいせいすると言うことか。流石に後者ではないだろうが、柵を掴んで体を引き上げれば楽に乗り越えられるであろう境界線に、毎度のことだが顔をしかめて煙草を取り出す。
 安田は気持ち良さそうに伸びをすると煙草を銜え、手すりに近寄って下を見下ろす。
「お、今岡だ。あいつ今頃ガッコきてなにすんのよ」
「俺らだって授業受けてねえだろ」
「そっか。そういやあさ、今岡のダチの何つったっけ、三井? あいつ南女の女孕ましたって」
「はあ?」
「何かその子が自殺未遂したとかってさ、由紀が言ってた」
「……馬鹿じゃねえの。ガキがガキ作ってどうすんだよ」
「哲、お前うちの親父とおんなじこと言ってんなー。ほんと爺臭えやつ」
 隣に立つ哲を見て吹き出し、安田は大量の煙を吐いた。手すりに両手を預け、玄関の庇の下に入って見えなくなった今岡を探すように身を乗り出す。
「危ねえぞ、落っこちんなよ」
「自殺なんて何ですんのかねー」
「知らね」
 興味なさ気に吐き捨てた哲に、安田はまた一頻り笑ってぺたりと床に尻を落とした。柵に頭をもたせ掛けて空を仰ぎ、銜えたままの煙草を揺らしながら鼻歌を歌う。
「死んじゃったら楽しいことなんか何にもねえのになあ」
「そうだな」
 哲の脚にふざけてよりかかり、蹴られて安田はまた笑った。
「なあ、哲、俺ら十年後って何してんだと思う?」
「はあ? 知るか。そんな先のこと考えてねえよ」
「今考えろよ」
「うるせえ」
「なあ、哲ってば」
「オトナになってんだろ」
「うお、つまんねー答え!」
 晴れた空に、安田の笑いが明るく響く。先に何があるかなんて、分かりはしない。
 哲は目を細めて安田を見下ろす。自分は、この間のした男に後ろから刺されて死んでいてもおかしくない。荒んだ生活のしっぺ返しはいつか来る。自分はそれでもいいと思うが、安田はそうではないのだろう。
「お前は可愛い嫁でももらってんじゃねえの、カオルちゃん」
「薫って呼ぶなっつーのに!!」
 地面に立って見上げるより近い空に、煙が吸い込まれて消えていく。蜘蛛の糸のように細く立ち昇る白い煙を風が乱して連れて行った。安田の文句に笑いながら、哲は彼と並んで腰を下ろす。どこか遠くで廃品回収業者の車が何か言っている。
 陽射しは明るく酷く平和で、並んだ二人の靴の先を温かく照らしていた。

 

 ネクタイを解かれ、上着を脱がされてベッドに転がる。靴は自分でベッドの枠に引っ掛けて脱ぎ、その辺に放り投げた。
 殴りたいとか、払い除けたいとか。いつもなら抱き合うときこそ大きくなる欲求は腹の底で燻って、生き物なら、生きている人間なら正直誰でも構わないとすら思う。覆い被さる秋野の手を押しやって、ワイシャツのボタンを自分で外す。見下ろす秋野の顔はいつもと変わらないし、多分自分もそうなのだろう。繰り返される日常のうちのほんの一瞬、下らないと思いながらも人生はそういうものを積み上げて出来ている。
 秋野の手がTシャツを捲り上げ脇腹を這いながら上に移動し、そのまま脱がされる。臍から胸骨まで舐め上げられて、まるで狩った獲物の味見をしている動物だと思ったりした。背中の下に掌が入り込んで抱き寄せられ、秋野の着衣を挟んで上半身が密着した。
 抱かれ、守られるような気持ちになるのは頂けない。頂けないが、今日だけなら悪くない。侵入した舌が絡み、前歯の裏をなぞり、口蓋を舐める。秋野のシャツを掴んで息苦しさに耐えながら、目の前が白くなるような感覚に眉を顰めた。
「秋野」
 僅かな隙間から名前を呼ぶと、秋野は顔を上げて哲を見た。濡れた唇を舌で舐め、秋野は何だ、と低く呟く。
「——秋野」
 意味は、ない。
「何だ」
 秋野はもう一度答えると、哲の目を見つめたままシャツを脱いだ。Tシャツを頭から脱ぎ捨てると長い前髪が乱れて薄茶の目にかかる。
「秋野」
 名前を呼べば、答える。当たり前のことだ。犬でも呼べば寄ってくる。幼稚園児でさえ、いや、例え赤ん坊だって名前を呼べばこちらを向く。それを確認したいと言ったなら、馬鹿げていると嗤うだろうか。
 温度と言うものがない額に触れながらカオル、と呟いた。だが、お前はもう二度と怒らない。
 もう一度身体を傾け、秋野は哲に身体を寄せた。掌が背骨を辿る。低い体温は、それでもじかに触れれば温かかった。
「どうした」
「…………秋、」
 遮られ、行き場を失った呼びかけは歯の間から口の中に押し込まれ舌に突かれて喉の奥に落ちていき、唾液と一緒に嚥下された。

 

 糸を引く液体で滑る掌が下腹を這う。容器から出されたばかりのそれは酷く冷たく感じられたが、今は体と同じ温度で皮膚に同化し、存在すら不確かだ。周囲に撫でるように触れ、押し入り探る長い指。いつまで経っても必ず感じる苦痛と不快と違和感はもはや馴染みで、取るに足らない瑣末なことだ。
 手を伸ばして秋野を掴む。濡れた手術用の手袋のように、掌にへばりつくゴムの感触。まだ手に残る安田の額の感触をゴムのそれに意図的にすりかえて自分を騙し、手の中のものを身体に押し当て入れろ、と唸る。
 引き抜かれた指に代わる異物の硬さに歯軋りしながら腰を浮かせ、首を抱き寄せて耳朶を噛む。不自然に折り曲げられた哲の身体に乗りかかって押さえつけ、強引に押し入る秋野の名前をもう一度、呼ぶ。
 哲は目の前の金色を見つめたまま、その持ち主の唇に齧り付く。黒い前髪と長い睫毛、獰猛に収縮する瞳孔を縁取る薄茶の虹彩。存在感と威圧感に鳥肌が立った。食いちぎられると思うほど舌を噛まれ、もっていかれると泡を食うほど吸われて喘ぐ。声を殺すように歯噛みすると、秋野は哲の口を掌で覆い、頭を深く枕に沈めた。

 掌の中に、声を吐き出す。
 横暴を罵り、引き裂き食らえと挑発し、まだ足りないと要求して何度も繰り返し秋野の名前を叫んだ。
 左膝を肩に抱え上げられ折り畳むようにされて骨が軋む。高く持ち上げられた膝を噛まれ、腿を舐められて腰が跳ねる。これ以上どうにもならないくらいに深く穿たれ、突かれ擦りあげられる衝撃と、噛まれる甘さに指の先まで痺れて震えた。
 唐突に外された掌が哲の額を押し、顎が上がって思いの外大きな声が出る。低く笑いの振動を伝えながら触れてきた秋野の舌先を、口の中に引きずり込んで歯を立てた。
 しゃがれた声で喘ぐように呼びながら、限界を迎えて背にしがみつく。達して敏感になった末端の神経を内側から引き千切るように続く侵略に、知らず目尻に滲む涙はさっきのものとはまるで違い、単なる生理的な反応だった。

 辛くはないと、周囲を欺いたお前の手に握られた刃の切っ先は、自分を内から切り裂いて壊したのか。指を絡め、合わせるように握られた秋野の両手の甲に血が滲むほどきつく爪を立て、痣の浮いた安田の顔を忘れようと、哲は閉じていた目を開く。
 目の前に見えるものに没頭しろ。そうすれば、今だけは忘れられる。
「——何を見た?」
 掌から、秋野の心臓が脈打つリズムが微かに伝わる。秋野は低く呟いて、哲の眼を覗き込んだ。
「思い出させんな、くそったれが……」
「哲」
「もう、いい」
 話したい事など何もない。眇められた金色に光る獣の目。閉じられた土気色の瞼とは対照的に過ぎるそれに哲は荒い息をつき、嗄れた喉を引き剥がすようにして声を絞り出す。
「何もかもねえって、全部忘れるまで抱いてくれ」
 獰猛な薄茶の中に吸い込まれる錯覚に息を詰め、それでもそれを正視したまま、哲はようやく言葉を吐き出した。
「俺は今普通じゃねえから、お前が欲しくてどうにかなりそうだ、秋野——」

 

 掠れた声で叫び、悶え仰け反って喉を晒す。顎に銜え込まれてのたうちながら、哲はうわ言のように腹の上の男の名前を唇に載せ、どこまでも俺を侵し犯せと訴えた。刃のように、毒のように、誰かを死に追いやった薬のように。
 答える秋野の低い声が、耳の中で何度も哲の名前を囁いた。己を蹂躙する何ものかへの罵声か、それとも懇願か。自分の口が発する声が、現実味を失い掠れ、途切れて聞こえる。
 秋野の肩の遥か向こう。
 遠く彼岸で佇む安田の小さな後姿は、霞んでいつか、見えなくなった。