沁みる欲

 後から聞いた話では、男がアイーダに到着したのは秋野と哲がそこに着く、十分くらい前だったと言うことだ。
 以前にエリと付き合っていたフリーのライターは、知り合いの経営するラブホテルの客を隠し撮り、それをネタにせこい強請を働いていた。事実の発覚後エリに愛想を尽かされたが、どうやらその後も何度かアイーダに顔を出していたらしい。
 付き纏われてるってほどじゃなかったから言わなかったのよ、と泣きながらエリが言ったのは事態が収束してからで、その時はまだ事情は分からなかったのだが。
 秋野は哲に僅かに遅れて店に入った。ドアを開ける直前に耀司から電話があって、仕事の話をしていたからだ。だから、ドアを開ける前のことは後から店のオカマに聞いた話だ。

 

 まだ早い時間にもかかわらず男は酔っていて、開店前のアイーダに踏み込んでくるとエリに詰め寄った。
「エリちゃん!」
「ケンちゃん……もう来ないでって言ったでしょ」
「忘れられないんだよ。もうあんなことしないから、頼むから帰ってきてくれ」
「もう、終わったのよ」
 男はエリと離れた辛さを掻き口説き、エリはもう帰ってくれと繰り返す。そのうち半泣きになった男がエリの腕を掴んで喚き始めた。男は背丈はそれなりにあるが棒切れのように痩せていて、エリは立派な体躯をしている。そういうわけで店のママもオカマも危険を感じはしなかったが、くしゃくしゃに歪むエリの顔に男を止めようと一歩進んだ。
 そこに哲がやって来たというわけだ。

「ちわ。錠前屋ですけど——……エリ、何やってんだ」
「……てっちゃんこそ」
「聞いてねえのか。お宅のママの依頼で古い金庫の鍵を」
「エリちゃん! そいつ誰だよ!」
「もう、しつこいわねあんた、帰んなさいよ! 何であたしこれ以上辛くならなきゃいけないのよ!!」
 秋野が丁度観葉植物の前にさしかかったその時に、エリの悲鳴のような声がした。
 版画の前を通って通路を出ると、男に腕を掴まれたエリと、二人を取り巻くように立つ色とりどりのオカマのドレス、それに哲の背中が目に入った。
 涙がいかつい顔を伝い、みるみるうちにエリの目と鼻が赤くなる。説明されずともその男が誰か分かるというものだろう。秋野は眉間に皺が寄るのを自覚したが、自分が口を出すことでもないかと僅かな時間躊躇した。
「あんた、離せよ、手」
 哲の声が地を這うように低く響き、ざらついた音に男が酔った目をしばたたく。哲はポケットに手を突っ込んだまま、男を見て僅かに首を傾けた。
「もう止めなよ。みっともなくてもいいから会いたいってのは悪くないが、もう仕方がねえだろう。手ぇ離せって」
「……何だよ。お前に何が分かるんだよ。誰だよ、何なんだよっ」
 恐らく四十に手が届こうかという男は、顔を青くして口元を卑屈に歪めた。
「悪かったな、どうせ俺はホモだよ。だから何だよ、偉そうにしやがって」
 哲に言いたいわけではないのだろう。日頃の鬱憤が堰を切って流れただけと思える戯言に、哲は小さく息を吐いた。エリはただ涙を流しながらぼんやり男の顔に視線を投げている。
「俺はエリちゃんを愛してるんだ。大事にしてた、一回だって裏切ったこともない。何だよ、あんな奴ら相手に小金稼ぐことがそんなに悪いのか? どうせ皆俺を馬鹿にした奴らばっかりだ、同じ同性愛者でも金さえあればうまくやっていけるんだから」
「ケンちゃん、もうやめてよ。あたし——」
「うるさいっ!! 俺は」

 

「手を離せって言ってんのが聞こえねえのか!!」
 哲の耳を聾するほどの大声に男が文字通り飛び上がり、バランスを崩して床に倒れた。飛び上がった瞬間に手が離れ、エリはつんのめったがその場で体勢を立て直し、眦が避けそうなほど瞠った目を哲に向けて立ち尽くす。一番離れた場所に立っていた秋野でさえ首筋の毛が逆立った。哲の腹の底からの怒声は、実はそうそう聞けるものではない。
 静まり返った店の中、男が床を這いずる音がやけに大きく聞こえる気がする。哲はそれ以上何も言おうとせず、ゆっくりと肩越しに不機嫌な視線を投げて寄越した。しかめられた顔は怒っているというよりは呆れているのか、攻撃的ではあるが緊張感はあまりない。
 男が鼻を啜り、しゃくり上げながら立ち上がった。よろけながら秋野の脇をすり抜け、去っていくスニーカーの足音がぺたぺたと間抜けに響く。
 ようやく秋野に気付いたのか、何か言おうとしたエリのグロスを塗った唇から身体に似合わないか細い息が微かに漏れる。それは徐々に嗚咽となり、そのうち大きな泣き声へと変わっていった。

 

「何で、あんな男を好きになっちゃったんだろうなあ」
 細くて小さいマキというオカマに縋り付き、その華奢な身体を押し潰しそうになりながら散々泣いたエリは、そう呟く。ママに頼まれた金庫の開錠はエリが泣いている間にさっさと終わり、店の裏の控え室で秋野と哲はエリを見下ろして立っていた。
「彼ねえ、セックスも下手なのよ。下手っていうか、なんて言うの? 教科書どおりで。でもね、すごく優しくて、あたしはこんなだし、男同士なのに絶対手荒にはしなくって。本当に女になったみたいな気分でいられた」
「……そうか」
 秋野が相槌を打つと、エリはちょっと目を上げて、微かに微笑む。
「怒んないの、秋野」
「こんな時に怒るほどデリカシーがないと思われてるのか、俺は?」
「——ごめんねえ。聞きたくもないだろうけど」
 秋野は息を吐いて腕を組んだ。確かに、中学生の頃から知っている勝のそんな話を聞くのは正直なところ苦痛だが、拒否することも出来はしないし、そもそも秋野は勝が好きだった。親戚の子供のような、何の構えもなく可愛がることの出来る勝を苦しめたいとは思っていない。
「あたしが口でしてあげたら、エリちゃんは可愛い、愛してるよって言って髪を撫でてくれるのよ」
 すっかり化粧の剥がれた男の顔で、エリはそう言って俯いた。哲が吐く煙草の煙がエリの周りに漂って消える。
「気持ち悪いって思うでしょ。でもね、愛してたから、だから口でしてあげたかった。全部愛しかったの。気持ちよくなってくれればそれであたしも幸せだった」
 哲はあの時、エリは大丈夫だと言っていた。
 それは読み違いではないと思う。男の未練に引き摺られて傷口が開いた、それだけのことだ。癒せるのは自分自身だけ、他人ではない。秋野は顎を振って哲を促す。哲は無言でドアを開き、秋野とエリを振り返った。
 掌で顔を覆い、俯いたままのエリの頭を優しく叩いて、秋野は低い声を落とす。
「勝、何かあったら電話しろ」
「ありがと。お礼にしてあげよっか? あたし結構上手よ」
「冗談にしちゃ際どいな。遠慮するよ。じゃあな」

 アイーダの隣の駐車場で立ち止まり、哲は煙草を足で踏みにじるとまた煙草の箱を引っ張り出した。
「何だ、落ち着かないな」
「うるせえ」
 つまらなさそうに吐き捨て、吸殻を拾い上げた後で火を点ける。バーや風俗が店を開け、人通りが先程より多いようだ。日曜の夜であれ月曜の夜であれ、このあたりの人出はそうそう変わるものではない。
 男を一喝した哲の迫力は生半可なものではなかった。そしてこの不機嫌だ。
 平素の哲が薄情だと言いたいわけではないが、基本的に他人に立ち入ろうとしない哲のこの態度は些か妙に思える。秋野の知らないうちにエリとの間にそれだけの友情が育まれたのかも知れないが、どうもそういうことでもないような気がした。
「お前、」
 勝手に歩き出した哲の後をゆっくり歩きながら、秋野はポケットの中で振動する携帯を取り出した。表示された手塚の名前に眉ひとつ動かさずに電源ボタンを長押しする。
「何をそんなに怒ってるんだ」
「怒ってねえよ、別に」
「じゃあ何だよ」
 携帯を上着に戻す秋野を横目で見ながら、哲は溜息と言葉を一緒くたに押し出した。
「俺にもよくわかんねえ。分かんねえから嫌な気分になったっつーのが正しいかもな。エリは根っこは男だと俺は思うけどよ、それでも女の理屈で動いてんだろが。それがあんなに泣かされて、そりゃ穏和な俺も腹立つって」
「最後の部分が間違ってると思うが」
「うるせえっての。てめえよりか余程穏和だ。俺は女に泣かれんのは好きじゃねえんだよ。気が滅入る」
「——勝は男だろう」
 哲は眉を上げると、秋野の脚を蹴飛ばした。
「馬鹿お前、愛があるからくわえられるなんて理屈が男のもんかよ」
「そう言われりゃそうかも知れんが」
「女はああいうことに夢見るからな。男は盛るだけだってのに」
「悟ってるね、お前。若いくせに」
「愛情なんか無くたって幾らでも出来るんだよ、セックスなんて。てめえが一番よく分かってんだろ」
「そうだな」
 大股で歩く哲に合わせて速度を上げると、哲が苛立たしげに振り返って立ち止まった。
「……まさかとは思うけど、お前もそう思ってねえだろうな」
「そうって、何だ」
 ありふれた人間が半分、どこか真っ当でない人間が半分。立ち止まり険しい顔で秋野を見据える哲の横を行き過ぎる人の群れの、どれだけが真っ当でそうでないのか、どれだけが男でどれだけが女で、そしてどれだけがその間を彷徨う人間なのか。
 長いことこの猥雑な街にいて、それでも秋野には分からない。間違いなく一人の女を愛したが、愛とは何かと問われれば答えるべき言葉などどこにもなかった。それ程何かに確信も自信もなく、拠って立つのはただ僅かばかりの意地や惰性や何かに過ぎない。
 少なくとも哲に恋愛感情を持っていないということだけは断言できるが、哲が訊きたいのはそういうことではないのだろう。
「くわえてやろうか」
 唐突な台詞に、何を言われているのか一瞬理解しかねて目を瞬く。
「出来もしないこと言うな」
 その答えはエリの言葉への肯定と取られるかも知れないと一瞬思う。表情を変えずに佇む錠前屋は、お前は俺を愛してないから出来ないと、そういう意味に取るだろうか。
「——何でそう思うよ。行くぞ」
 歩き出した哲は、それ以上何も喋ろうとはしなかった。

 

「俺は出来ないことを出来るとは言わねえ」
 秋野の部屋に辿りつくと、哲は低い声で吐き捨てた。言い終わらないうちに、後ろから腰を思い切り蹴り飛ばされる。
「こら」
 流石によろけて屈み、ソファの肘掛に手をつくと、哲は酷く冷静に語を継いだ。
「そこ座って前開けろよ」
 身体を起こして振り返ると、哲は煙草を銜えたまま、ポケットに手を突っ込んで秋野に一歩近寄りそのまま対峙した。
「何を証明したいんだ」
「別に、何も」
「哲」
「うるせえよ、四の五の言わねえで座れっつってんだろ」
 獣の前脚のような素早さで突き出された膝に思わず一歩下がる。腕でガードしたが勢いがあった。下がったところにソファがあり、支えきれずに腰を下ろす。
 秋野は結局座らされたソファに深く沈むと、煙草を取り出し哲を見上げて火を点ける。煙草の先がじりじりと焼ける音、それさえ聞こえそうな沈黙の中、哲は広げた右手でがりがりと頭を掻き、煙草を左手に持ち替えて小さく息を吐く。
「おい、やり方わかんのかお前」
「生憎されんのは慣れてんだわ。どっかの人食い虎のおかげでな」
 事も無げに、動揺も照れもなく平然と。
 哲は秋野の腿に煙草を持った左手をかけて身体を屈め、ベルトに逆の手をかけた。目の前にある哲のつむじを何となく眺めながら、秋野は煙草を一口吸いつける。哲の面白くもなさそうな声が立ち昇る煙草の煙をゆらりと揺らした。
「おい、このどこまでも平常心ですってな息子は何だお前」
「平常心だからだろう。いきなり勃ってりゃいいのか」
「面倒くせえだろうが、手順が。勝手に勃てよ」
 哲のうんざりした声が腹の辺りで不吉に澱む。秋野はゆっくりと視線を戻して哲を見た。暫し視線を合わせて沈黙した後、仏頂面は仕方ねえなと吐き捨てて身体を起こした。秋野の脚の間の座面に膝をつき、押し付けるように身体を寄せる。
「何で俺がここまでしてやんなきゃなんねえんだかな」
「してもらってるのか、これが」
「不満か」
「大いに不満で不本意だね。誰が頼んだ?」
「馬鹿が」
 哲は秋野の後頭部に手を添えて、低く掠れた声で囁いた。間近にある目に笑みはなく、ぎらついた光の底に見えるのは、酷く冷静で剣呑な何かだ。
「頼まれたら死んでもやらねえんだよ、覚えとけ」

 

 哲は若い頃——今でも十分若いが——はそれなりに遊んでいたと言うだけあって、女相手にやる気を出せば巧いのだろう。絡みつく舌にぼんやりとそんなことを思う。顎の骨の辺りを撫でていた手が首筋から身体の脇を這い下りて、哲の身体も下がっていく。素手で掴まれる感触に秋野は溜息を吐き、手に挟んでいた煙草をまた口に戻した。
 ついさっきまで口の中にあった異物が敏感な表皮にまとわりつく感覚は、快感というより違和感に近かった。おまけにそれが錠前屋の口とくれば、食いちぎられはしないかと半ば本気で懸念もする。それでも二口分の煙を肺に入れる間、秋野は身じろぎせずに天井を眺めていた。
「おい、」
 上体を起こして哲の髪を掴み、無理矢理顔を上げさせると、怖い顔で睨まれた。もっともそれがいつもの顔だから、特別どうということもないが。
「ああ?」
「頼むから齧るなよ」
 哲は頬を歪めると、この状況に似つかわしくない凶暴な笑みを浮かべてどうすっかな、と低く呟く。口でされているという事実より、その顔のほうが余程感覚を刺激した。
 嫌がらせのつもりだろう、哲が軽く歯を立てる。秋野は顔をしかめて哲の頭を平手で叩いた。哲が喉の奥で笑う振動が、身体の中心から背骨を駆け上がる。
「ったく、哲」
「黙ってろ。おい、あんまでかくすっと呑めねえだろうが」
 まったく、そういうことを完全に素面の顔で言い放つのもどうかと思う。
「呑まんで結構」
「……余裕でヤニ食ってんじゃねえぞ、仕入屋」
 吐き捨てた哲の口に前置きもなく含まれて、秋野はそれこそ息を呑んだ。温い口内の肉の感触に息が詰まる。無理矢理吸い込んだ煙は肺に入らず唇の隙間から逃げていく。努力の末ようやっと吐き出す長い呼気の掠れた音が、部屋の中に散って消えた。
「もういい、哲」
 ゆっくりと上下する哲の頭に手を伸ばし、引き剥がそうと髪を掴んだ。途端に哲の骨ばった指が秋野の手首を締め上げる。結局それ以上どうにも出来ず、秋野は哲の髪の間に手を差し込み、半ばやけくそに引き寄せた。

 吸い上げられ、フィルターを噛み締める。
 フィルターが焼け始めたひしゃげた煙草を思わず灰皿の上で取り落とした。濡れた音と荒い息が鼓膜を打ち、単純な快感に手の中の哲の髪を握り締める。

 

 愛情は身体を繋ぐことを特別な何かに変える、それは決して嘘ではない。それが望むべき姿だということも、知っている。
 エリが、女が望む愛しく暖かで優しい関係があるのなら。その上に立って身体をも愛することが出来るものならそれに越したことはない。そんなことは当たり前のことであって、別に今更改めて考えるようなことでもなかった。
「こら、哲! 口の中に出されたいのか、いい加減にしろよ」
「出せば」
 顔を上げ見上げる哲の無感動で平坦な低い声に、目の前が赤くなる。
 愛でも、何でもない。
 これは只の欲だ。
 そう吐き捨てる哲の声が聞こえるのは空耳か。
 愛してくれと女が全身で訴える。それが当たり前なのに、愛があるなら寄るなと唸る犬がいる。そんなものは欲しくないということすら、逆を求める欲なのかも知れなかった。
 秋野は背凭れに首を預け、目を閉じて低く呻いた。急所をくわえ込まれたせいか、恐怖にも似た切羽詰った感覚に背筋が震えた。

 

 嚥下する喉の動きに、掌の中の頭蓋の形に現実が遠くなる。目に沁みるのは、部屋に漂う煙の残りか、それとも凶暴な欲の残滓か。手の甲で口を拭った哲が立ち上がり、不味いな、としわがれた声で囁いた。
 勝は泣き止んでいるだろうか。
 秋野の頭の片隅に、勝の顔が不意に浮かんで、そして消えた。