洗濯機と猫。

「何してるんだ」
 哲は、洗濯機の前に立っていた。
 全自動洗濯機の折り畳み式の蓋を開けたまま、洗濯機の縁を両手で握り締めて中を覗き込んでいる。

「哲?」
 こちらを一瞥した顔はいつもと変わりない。返事はなく、戻された顔はまた洗濯機に向く。秋野は隣に立って、洗濯槽の中を一緒に覗いた。回っているのはただの衣服だ。洗剤の泡にまみれて一枚一枚の判別はつかないが、下着やらTシャツやらタオルやら、要するに変わったものは何も見えない。
「洗濯物回るの見て、面白いのか」
「別に」
 素っ気無い返事に会話が終わる。洗濯機の回る音だけが変わらず続く。秋野は五秒の間の後、再び哲に向かって口を開いた。
「特別なものでも入ってるのか」
「——例えば?」
「死体とか」
「入んねえよ、馬鹿」
「裸の美女とか」
「もっと入んねえだろ。万が一入ってたら回しちゃおかねえ。今すぐサルベージだ、馬鹿」
「馬鹿馬鹿言うな。大事なメモとか」
「へこんでんだよ」
 哲はそう言って大きく溜息を吐き、洗濯機の縁で身体を支えてがっくりと頭を落とす。
「それ以上屈んだら頭が洗濯されちまうぞ」
「うるせえ。てめえを回すぞこら」
「お前、へこむと洗濯機覗くのか。知らなかったな」
「回んの見てると目が回るから余計なこと考えねえですむだろう」
「……理解できん」
「放っとけ」
 いきなり洗濯機をひとつ蹴飛ばすと、哲はあああ、と大きな声を上げて両手で髪を掻き毟った。洗面台がない狭い脱衣所は、洗濯機の音と哲の喚く声で妙に騒がしい。そこに大の男が二人立っているから、何となく息苦しい。
「錠前がよ……」
 哲は右手に五寸釘を持っているような不吉な声を出した。目は回る洗濯物に向けられたままだ。
「錠前が?」
「川端のおっさんに頼まれたんだけどな……。こう、古くて小せえ飾りのついた入れ物の」
「開かなかったのか」
「いや、まさか。開いたぜ、開きましたよ。そりゃもう猛烈に開いた」
「猛烈ってなどんな開き方だ」
「今までつんけんしてた女がいきなり脚開いた、ってああいう感じ」
「で?」
 哲は終始仏頂面でそこまで言い、秋野の「で?」に険悪な視線を投げつけて煙草、と呻く。秋野がポケットから煙草の箱を取り出すと、箱を受け取り一本銜えて火を点け苛々と吸い込んだ。
「開いた瞬間にどっかの部屋と間違って男が怒鳴り込んできやがって、手元が狂った。で、錠前の表面に傷つけちまってへこんでんだよ」
 秋野にしてみればそんなことでと思うが、何せ錠前屋だけに価値観が違う。
 それより怒鳴り込んできた男がどうなったのかそちらが知りたい。訊こうかと思ったら哲は煙草を揺らしながらまた物憂げに溜息を吐いた。それにしても普段は何があっても地蔵のように動じない哲のへこんだ姿は何と面白いのだろうか。秋野は携帯灰皿を哲の掌の上に落とし、まじまじと顔を眺めた。まだ長い煙草を揉み消しながら、哲が迷惑そうに顔をしかめる。
「……お前可愛いな」
「ぁあ? どこが」
「その、果てしなく可愛くないところが」
「俺はそういうお前が気持ち悪ぃ」
「そう言うなよ」
「寄るんじゃねえよ」
「寄ってないよ。狭いんだ」
「嘘吐け、近づくんじゃねえ、殴るぞ」
「いいね、それも」
 狭い脱衣所で、洗濯機と身体の間に挟んで身動きを封じると、哲は酷く嫌そうな顔になった。少しばかり反応が大人しいのはへこんでいるせいなのだろう。もっとも、大人しいといってもそれは哲の基準でだが。
「痛っ、足を踏むなよ」
「てめえが邪魔なんだよ。退け、家宅侵入」
「鍵閉まってなかったが」
「うるせえ、強姦野郎」
「それはちょっと聞き捨てならんな。どう考えてもいつも和姦——」
「やかんがどうしたって? お、あんたもいたのか!」
 突然の銅鑼声に反応して動きを止めた秋野の頭を哲の手が素早く掴み、洗濯物がぐるぐる回る洗濯槽に向かって押し付けられる。洗濯機を掴んで身体を支え、秋野はさすがに慌てて声を上げた。
「止せ、この馬鹿!」
「こら、哲。人間を洗うもんじゃないぞそりゃ」
 川端が些かずれた意見を述べる。
「こいつの汚ねえ根性と腹黒さは風呂程度じゃどうもならねえからな」
「それにしてもお前、洗濯機はなあ」
 哲は見かけより力がある。秋野はようやく哲の手を押し戻して上体を元に戻した。川端が呑気に笑い、秋野に軽く睨まれて笑いを引っ込め、ついでに腹も引っ込めた。
「いや、俺はあれ引き取りにきただけだからな、哲」
「ああ、そこに置いてあるだろ」
「見た見た。お前が電話で言ってた傷な、あんなの素人は気にしないから気にするな。というかなあ、見えんぞ、あんな小さいの」
「……あんたの目が節穴なんだよ」
「じゃあお前以外はみんな節穴だ」
 川端は覇気のない哲の声を掻き消す音量でガハハと笑い、脱衣所から出て行った。秋野は、髪を掴んだままの哲の手を引き剥がす。ゆっくりと動いた眼球の動きを目で追いながら、哲の掌を軽く齧った。
「ところでな」
 いきなり脱衣所の入り口に現れた川端の禿頭に、秋野は思わず哲の手に唇を当てたまま固まった。哲はぼんやりと川端の顔を眺め、自分の手の在り処に気づいているのかいないのか、何だよおっさんと気の抜けた声を出す。
「忘れてた、お土産だ」
「誰に」
「お前と、丁度良かった、仕入屋に」
 川端がにやにやしながら哲に包みを差し出して、今度こそ笑い声を響かせながら去っていく。ドアが閉まる音を聞いてから、秋野は哲の手を離した。

 プラスチックの棒の先に、細長いふわふわした毛の塊。
 ビニール袋についた厚紙には、『カラー猫じゃらし/ホワイト』とでかでかと書いてあり、税抜500円のシールが斜めに貼ってある。
「……………………」
「俺はお前には飛び掛っても、こんなものには飛びつかんぞ。失礼な」

 

 

 蓋が開いたままの洗濯機が電子音を何度か鳴らす。
 考えうる限りの悪態を吐きながら一人洗濯機のもとに戻った哲は、散々蹴飛ばされながら笑い転げて逃げて行ったでかい猫を再度罵って、勢いよく洗濯機の蓋を閉めた。床に落ちた猫じゃらしを拾い上げて眉を寄せ、ゴミ箱に放り込む。
 へこんでいたことすらすっかり忘れ、哲は壁をひとつ蹴飛ばして唸りを上げた。
 今度顔を見たら猫の砂に埋めてやる。化け猫に呪われろ、くそったれ仕入屋め。
 哲の文句はまた回り始めた洗濯機の音に紛れ、渦を巻いて消えていった。
 暫くの間、道端で猫を見る度に哲が歯を剥くようになったのは、言うまでもない。