冷気にいかづち

 聞こえてくるのは、どうやら罵声だ。
 馬鹿とか死ねとかお定まりの台詞のほかに、一遍去勢してこいとかお前の頭はスイカと変わんねえ密度かとか、様々なものが散りばめられていて面白い。
 今時ドアホンでもない旧式のチャイムを押してみたが怒声は収まらず、益々酷くなる。別にあの男が誰かと喧嘩していても構わないし止める気もそれほどないが、用事があって寄ったのだからここで帰るのも癪だった。

 鍵がかかっていると思ったら開いていた。首を傾げながらドアを開け、靴を脱ぐのを忘れかけて慌てて足を戻す。最近は靴を履いたままのあの部屋にいるから、ついそれが癖になる。
 靴を脱ぎ、居間へと続くドアを開けて中を覗き込んだ。罵声は居間からするのに人がいない。と思ったら、騒音の元は床の上に転がっていた。
 仰向けに。

 

「お取り込み中すいませんねえ」
 弘瀬が声を掛けると床の上の錠前屋はこちらに顔を振り向けて舌打ちし、覆い被さっている仕入屋の顔を思い切りぶん殴った。流石に弘瀬も眼を剥いたが、殴られた当人はけろっとしている。痛覚がおかしいのか、そうでなければやせ我慢のどちらかだろう。
 上半身裸の錠前屋はその体勢と格好とは裏腹に、お取り込み中とは程遠い表情だった。臍で茶を沸かすという言葉を思い出す。意味合いはまったく状況と無関係だが、錠前屋の額にやかんを乗せたらすぐにお湯が沸きそうだ、と思ったのだ。それとも水は、この冷たさに凍るだろうか。
「お前また鍵掛けなかったのか」
「てめえの部屋だろ。閉めたきゃ自分で閉めやがれ」
 物凄い目つきで仕入屋を睨み上げつつ、錠前屋は低く唸った。人間の言葉ではあるものの、酷く野生的な響きである。今にも噛み付きそうな顔をして、恐ろしいことこの上ない。
「何か用か」
 素早く錠前屋の喉元に手をやって、仕入屋が薄い色の眼を上げた。容赦なく首を床に縫いとめられて錠前屋がもがいている。
「いまいち状況が読めねえんだけど」
「どういう意味だ」
「お宅ら、やる気? それとも喧嘩する気? どっちだよ」
「……両方」
 殴られて少し赤くなった頬と、乱れて額にかかった黒い前髪。頬を歪め、片方の眉を上げて仕入屋がにやりと笑った。
 弘瀬が錠前屋に手を出しかけても、呆れ顔をしていただけで嫉妬もしなければ怒りもしなかったこの男の内心は分からない。分からないが、とにかくこいつは色々な意味で安くない。
「頼んであったもの取りに来たんだけど」
「明後日使うんだろう?」
「近くまで来たから寄ってみたんだよ」
「明日届ける」
「折角来たのにか」
「こらてめえ俺の腹の上にのっかって商談すんじゃねえ、さっさと退け!」
「ご覧の通り、今手が離せないんでね」
「離せ!!」
「なあ、離せって聞こえねえ?」
「聞こえない」
「死ね!!」
 錠前屋はすっかり機嫌を損ねたようで、その迫力と言ったらヤクザもかくや、だ。
「俺に依頼するか? 安くしとくぜ」
 弘瀬の無駄口には凄みある一瞥をくれただけで、錠前屋は振り上げた膝で仕入屋の背中を蹴っ飛ばす。咳き込んだ仕入屋は、それでも喉を締め上げる手を緩めようとせず、乗り上げた膝をずらして錠前屋の鳩尾を圧迫した。
「どうしても今持って帰るか?」
「少しくらい放っておいたって逃げねえだろう?」
「お前ねえ。ここまでさせてもらうのに俺がどれだけ殴られたり蹴られたりするか知らないだろう」
 冗談なのか本気なのか真顔で言って、仕入屋は突然身体を起こして立ち上がった。あまりにも急な行動に、唸っていた錠前屋すら眼を瞬いている。
「待ってろ、今持ってくるから」
 寝室らしき部屋へ入って行った仕入屋を見送り、弘瀬は床に転がったままの錠前屋に眼を戻した。噛み付かれたのか吸い付かれたのか、首筋と肩に赤い痕がある。しかし怒りに眼を血走らせた錠前屋はどこからどう見ても色っぽいとは形容し難く、喧嘩で負けたチンピラというのが妥当なところだ。
「あんたら、面白いな」
「うるせえ、他人事だと思いやがって。馬鹿野郎」
 歯噛みして吐き捨てると、錠前屋は右手で髪を掻き毟った。
「いつ電話くれるんだ?」
「ああ?」
「仕入屋に飽きたら電話くれって、言ったじゃねえか」
 弘瀬が冗談半分、正直に言えば半分本気でそう言うと、錠前屋は一瞬黙って、次の瞬間頬を歪め、酷く邪悪な笑顔を浮かべた。
「携帯の充電切れてんだよ」
 何となく返す言葉が見つからなくて黙る弘瀬を床の上の錠前屋が手招きする。立ったままだった弘瀬が腰を屈めると、錠前屋は口元を笑みの形に歪めたまま、笑わない目で低い声を出した。
「さっさと用事済ませてどっか行け。俺は見られて興奮する性質じゃねえんだよ」
「弘瀬、ほら」
 同時に仕入屋の声がして、弘瀬は驚いて振り返った。仕入屋はその様子に怪訝そうに眉を寄せたが、有名デパートの小さな紙袋——勿論中身はデパートで売ってはいないが——を差し出した。

 

 冷気にいかづち、と言えばいいのか。

 温かくも優しくもなく、冷めた鋭い視線と絡みあう黄色い閃光。何れにせよ、興味本位で手を出せば、手酷い傷を負いそうだった。
 仕入屋の部屋を出てからの道すがら、半分放心状態で弘瀬はそんなことを考えた。品物を受け取って何も言わずに部屋を出た弘瀬に不審を感じたのか、仕入屋は玄関先までついてきた。
「大丈夫か? 何だ、急に黙り込んで」
 低く深い声で訊く顔はいつもの人当たりのいい仕入屋で、弘瀬自身何が何だか分からないから肩を竦めてそのまま出てきた。あの後、あの二人はどうしただろうか。
 邪魔だ、と言ったに等しい錠前屋の台詞から想像するのは濡れ場の筈だが、どうも所謂色っぽい夜の営みというやつの絵が浮かんでこない。少なくとも弘瀬の貧困な想像力にとっては、出来上がったあの二人と言うのは未知の領域にあるようだ。
「……まあ、どっちにしろあれじゃ俺の入る余地はねえな」
 煙草を取り出し呟いて銜え、弘瀬は生温い湿った風に顔を向けた。
「火花散ってるうちは、電話はこねえか」
 がりがりと頭を掻いて、溜息を吐く。思いの外残念だな、と思い、弘瀬は夜道で一人苦笑した。
 冷気とは似ても似つかぬむっとした温風にすぐに額に汗が滲む。女でも男でもいい。誰かに心にもない愛の言葉を囁きながら甘える振りをして、暑い筈なのに背中に貼りついた冷気を払いたかった。
 電話を取り出しながらいかづちの走るわけもない晴れ上がった夜の空に眼を向ける。どこかで空ぶかしするバイクのエンジン音が喧しく、生温い空気を切り裂いた。