梅雨と禁煙

 じっとりと湿った空気が部屋の隅に澱んでいる気がしてならない。クーラーは使いすぎると体が冷えるからあまり好きではないが、さすがにこれだけ暑いと使わないというわけにもいかない。窓を開けて凌げるものならそうしたいが、生憎外は先ほど突然振り出した雨が本降りになっており、窓を開ければたちまち部屋の中が濡れそうな勢いだった。
 外に食事をとりに行くのも面倒で、適当に料理をする。食べ終えて煙草を吸い、シャワーを浴びて頭を拭きながら仕事の電話を一件済ませ、テレビをつけてニュースを見た。

 髪が乾ききらないうちに、玄関の旧式のチャイムが鳴った。
 秋野はテレビをそのままにして立ち上がり、玄関に向かう。ドアの向こうに見えるのは哲だった。覗き穴から確認する、たったそれだけの短時間でもイラつくのか、ドアに鈍い衝撃が一度。黙って開けないでいるともう一度。
「今開けるから蹴るな」
 溜息を吐いてドアを開けると、ずぶ濡れの哲が足元に水溜りを作って立っていた。
「そういやお前に仕事の話があって何度か電話したんだが」
 今日は、朝から何度掛けても哲は電話に出なかった。出られないのか出たくないのか、両方あり得るからそれ程気に掛けてもいなかったが、この顔を見ると間違いなく出たくなかったのだろう。普段から仏頂面だが、今のこの顔は「不機嫌そう」ではなく、間違いなく「不機嫌」だ。何が原因か知らないが、とにかく疑いようがなく虫の居所が悪そうだった。
「哲、」
 言いかけた秋野の胸倉に哲の手が伸びて、勢いをつけて引っ張られる。咄嗟に踏ん張ったが持ち堪えられず、三和土に引き摺り下ろされた。濡れた哲の唇が押し当てられ、舌が口腔内をくまなく舐める。開いたままのドアが気になって身体を離そうと身を捩ると、哲が後ろ手にドアを閉めた。
 執拗に絡んでくる舌に、不思議な事に欲望は感じられない。内心首を捻りながら取り敢えず大人しくされるままになっておく。漸く哲が身体を離し、忌々しげに吐き出した。
「駄目だ」
「何が」
 呆れる秋野を興味なさそうに睨み上げ、哲は鼻から息を吐いた。
「ニコチンが足りねえ」
「……煙草吸えばいいだろう」
「吸えねえから何とか誤魔化そうとしてんだ、阿呆」
「お前に言われたくないが」
「うるせえ、ああ、苛々する!!」
 鬼のような形相の哲を見つめ、秋野は深い溜息を吐いた。

 哲が猪田と飲みに行ったのが昨日の夜。哲は酔っていて細かい事は覚えていないらしいが、とにかく今開催しているサッカーの国際試合の勝敗をネタに賭けをして哲が負け、その瞬間から二十四時間の禁煙を言い渡されたということだった。
「あと二時間だ」
 唸るように言いながら哲は髪を掻き毟った。
「……律儀に守らなくても」
「約束は約束だ。言ったからにはする」
 血走った眼は禁断症状なのか。秋野を睨む目は常より更に刺々しく、不機嫌を通り越して最早殺意すら感じられる。
 成程、吸えない代わりに吸っている人間の口で何とか誤魔化そうというわけか。確かに一番近いようではあるが、しかし苦いばかりで煙草の味がするわけでもないだろう。余程切羽詰っているのかと思えば可笑しくなってきて、秋野は思わず笑いを漏らした。哲が凄い目で睨みつけるが、いつものことなので気にもならない。
「昼間はどうしてたんだ」
「昼過ぎまで寝て、飯食って、仕事出りゃ忙しいから紛れてたんだけどよ、する事なくなると」
「電話に出なかったのはそれでか」
「てめえの顔見たら吸わずにいられねえだろうが」
「ここまで来たくせに」
「だから最後の手段だったんだよ。ああもう顔見てるだけで煙草臭えわ、お前。帰る。眠って忘れる」
「まあそう言うなよ、哲。折角ここまで来たんだろうに」
 哲の肩越しに手を伸ばし、鍵をかけると哲があからさまに顔をしかめた。
「紛れればいいんだろう、要するに」

 

 クーラーが嫌いだと言う哲のために、運転を止める。
 開いた窓から湿気と水気が入って来たが、そのほうがいいというから多少床が濡れるのは諦めて、はためくカーテンはそのままに明かりを消した。
 煙草を銜え火を点けると、哲が忌々しげに舌打ちして秋野の脛を蹴っ飛ばした。暗がりの中灯った透明な赤い光は脆弱で、誰の顔を照らすほどの光源もない。その弱々しい光が欲しくて喘ぐ哲を思い、秋野は口の端を曲げて笑う。
 約束したから吸わないと、そう哲は言う。多分、秋野が幾ら勧めても哲は二時間経つまで絶対に吸わないだろうし、そういう哲が好きだった。
 部屋の真ん中に突っ立ったままの哲の腰を抱き寄せ、煙の匂いの残る舌を歯の間から差し入れる。中途半端な煙草の味が不満なのか、哲は低くざらついた呻き声を漏らして秋野の舌を軽く噛んだ。
「俺の目の前で吸うんじゃねえよ、むかつく野郎だな」
「お前の目の前だから吸ってるんだろう。分かってないねえ」
 吐き出される低く押し殺した悪態に頬を緩め、もう一口吸いつけて哲の口の中に煙を吐き出す。吸っているのと他人の吐き出す煙とはまったく違うが、それでも哲の足から僅かに力が抜けるのが感じられた。
「なんか、あれだな、バーチャルセックスみたいな気分だな」
「……は?」
「テレクラとか」
「テレクラかよ、おい。案外暗いなお前」
「いや、俺はしたことないよ。相手に困った事がないもんでね」
「ああそうかよ」
「欲しいって言ってみろよ、哲」
 煙草が欲しい、身体を侵す毒素が欲しい。
 一口吸っては口付ける。哲が苛立ったように秋野の手を掴み、煙草を奪う。吸うのかと思ったら、一番近いところにあった棚の端に煙草を擦りつけた。木の焦げる臭いが一瞬立ち昇り、小さな火は呆気なく押し潰されて冷えていく。
「——お前ねえ、人んちの家具で煙草消すんじゃないよ」
「俺のじゃねえから関係ねえ」
 哲は秋野に腰を抱かれたまま振り返り、シンクに吸殻を放り入れた。ぼんやりと白い小さな影は、放物線を描いてシンクの中に落ちていく。

「くそったれ」
「何が」
 臍に舌を差し入れ、髪を掴む哲を見上げる。暗がりに慣れた目にも輪郭は曖昧だが、見下ろすきつい瞳だけはよく見えた。
「てめえと煙草はよく似てる」
 どこが、とは訊かなかった。腰骨に歯を立て、撫で下ろす指の先を尻の間に移動させながら哲の体が汗ばむのを掌で感じた。
 どうせ誰も窓など開けていない。
 歯噛みし、罵り、怨嗟と快楽の唸り声を上げる哲の荒い息は雨の幕に遮られ、多分どこへも届かない。

 二時間後、哲は煙草を銜え、呆けたように寝転がっていた。一日ぶりの煙草が身体に沁みるのか、獣が唸るような低い音が哲の喉から長く漏れる。
 紛れたか、と秋野が訊いたら、哲は忌々しげに秋野を睨み、ガラスの灰皿を本気で秋野に投げつけてきた。

「紛れるどころか、何もかもねえよ、あんなにされたら」
 呪うような不吉な声が吐き出した台詞は低く、哲の吐き出す煙と絡み合いながら、雨の止んだ窓の外へと消えて行った。