歪んだ道筋

「おはようございます。中嶋さん、鮭と鯖とどっちがいいですか」
「……さば」
「はい」
 起きぬけの朦朧とした頭で、中嶋は反射的にそう答えた。何で遠山が朝からここにいるのか。
 確かに、万が一に備えて合鍵は渡してあるが、それは決して朝飯を作らせるためではないはずだ。

 

「……お前さんよ」
「はい?」
 遠山は、上等なワイシャツを腕まくりして鯖を焼いている。料理の腕は大したことはないらしいが、少なくともグリルで魚が焼けるだけ、自分よりか数段マシだ。
「何も俺ん家来て朝飯作るこたねぇだろうが。かみさんに焼いてやりゃいいのによ」
「中嶋さん、何べん言わすんですか。うちのにそんなことしても無駄なんですって」
「だからってなあ。そんなら外に女でも作ればいいだろうに」
「夏実で懲りました。暫くはウチの店で病気持ってない女で適当に済ませます」
 顔をしかめた遠山は、味噌汁に青菜を放り込んでいる。まるで女房のようだが、遠山はどこからどう見ても男だから楽しくないし、本人に言えば結構傷つくに違いない。少なくとも自分なら嬉しくない。
 世間には男同士で恋愛する奴らもいると聞く。こればかりは何度聞いても、中嶋にはどうにも理解できないことである。

「あ、中嶋さん」
「ん?」
 遠山が運転席で声を上げ、ルームミラー越しにこちらを見た。
「ほら、あれ、あの坊主ですよ」
「どれ」
 乗り出してみると、確かに道路の向こうに見覚えのある姿が見えた。普段は連れがでかいからわりに小さく見えるが、こうして一人で立っていると十分に背丈もある。
 目深にキャップを被っているが、銜えた煙草とポケットに突っ込んだ両手はいつも通り。
 平日の昼間と言えど、人通りは少なくない。日が暮れてからのそれと若干種類が違う人ごみの中でも錠前屋は浮いてはいない。ごく普通の若いやつ、と言う佇まいで、特段目立っているというわけでもなかった。
「暇そうだねえ」
「そうですか?」
 遠山が仕方ないな、というふうに苦笑した。
「そうさなあ、暇なら俺が相手してやってもいいなあ」
「そうですね、きっと暇でしょう」
「お前さんは本当にどうしようもねえなあ、遠山よ」
「いいんですよ、俺はこれで」
 言いながら、遠山がシーマの鼻面をいきなり対向車線に突っ込んだ。幾ら間近に迫っていなかったとは言え対向車もいる道路だ。まったく、ヤクザってのは、と自分を棚に上げて中嶋はぶつぶつ呟く。
「だって悠長にしてたら逃げられちまいますよ」
 クラクションとタイヤの音に振り向いた錠前屋は、明らかに運転席の遠山を認めたようだ。キャップで目元は見えないが、唇がへの字に曲がり、何やら教育上よろしくない文言を唱えているように見える。
「お待たせ」
 中嶋がパワーウィンドウを下げながら言ってみると、呆れたような溜息が返って来た。

「おうちにかえりたい」
 これ以上ないくらい低く単調に言われると、却って不気味だ。そう思いつつ、中嶋はA4版の紙を錠前屋のほうに押しやった。
「まあまあ、そう言いなさんな。これ見ろよ」
 嫌そうに紙を眺め、錠前屋は溜息を吐く。
「何だこれ」
「見たとおりのもんさ」
「おっさん、あのなあ」
「調べはついてんだよ、坊主」
 中嶋は錠前屋が手に取ろうとしない紙をつまみ上げ、錠前屋の目の前でひらひらと振ってみせる。自分の吐き出した紫煙が動きに合わせてゆらゆら揺れた。
 遠山は入り口付近に立って、面白そうにこちらを観察しているが、錠前屋はそれも気に入らないのか、爪先で何度か苛立たしげに床を叩いた。
「蕎麦好きなんだろう? ここの天ざるは結構いける」
「…………やくざってのは、暇なのか」
「いや、まあそれなりに商売繁盛さしてもらってるよ。おーい遠山、天ざるみっつ取ってくれ」
「三つ? 誰か来るんですか」
「お前さんの分だよ」
「そりゃどうも」
 ここは蕎麦屋か。
 錠前屋の台詞ににやにやと頬を緩め、中嶋は煙草を灰皿で揉み消した。

 

 ヤクザとは係わりたくない、ヤクザの怖さも知っている。そう言いながら、錠前屋の坊主は常に自然体だ。機嫌が悪ければ悪そうにしているし、迷惑そうな表情を隠す素振りすら見せないのはいつものことだった。
 あちらこちらにある出先事務所のひとつであるここは、要するに闇金の事務所である。応接室であるここは一応ソファがあって観葉植物なんかもあるが、殺風景であるのは否めない。狭い部屋に葱とそばつゆの香りが籠っている。
 面倒臭そうに蕎麦を啜った錠前屋はポケットから財布を取り出したが、中嶋が止せよと言うと、ほんの少し考えた後、ご馳走になります、と丁寧に頭を下げた。
 そういうところを見るにつけ、ああいうのが身内にいたら随分と助けになるだろうと切実に思う。しかし、本人は勿論、あの黄色い目の相棒が絶対に許しはしないだろうが。
「中嶋さん、車回します」
「ああ」
 次の約束の時間を確認し、遠山が電話を切ってこちらを向いた。
 遠山に不満があるわけでは決してない。頭の回転が速く、気が利く男だ。そつもないし、そういう意味では錠前屋より余程いい。
 だが、元来の性質という点で遠山はまともすぎるのではないかと、実は常々思っていた。
「お前さんはなあ」
「え?」
「どうしてヤクザになんかなっちまったんだろうねえ。大学出て、普通の人生送れたはずだろ」
「今更それを訊きますか」
「人生今更ってことはねえよ。多分」
「何遍も言ったじゃないですか。ここに中嶋さんがいるからですよ。他に何の理由もありません。さ、時間ですから急いでください」
「……ああ」
 臆面もなくこういうことを言う。そのあたりは十分真っ当ではないような気もするが、そもそも堅気との付き合い自体なくなって久しい。比較対象があるわけではないので、遠山がどれだけ常識から離れてしまったのか、中嶋には分からない。
「中嶋さん」
 蕎麦の器を持ったまま遠山が戸口で肩越しに振り返り、返事をすると体ごとこちらを向いて中嶋を見つめてきた。
「あの坊主、欲しいですか」
「ん? 錠前屋の小僧のことか?」
「気に入ってるんでしょう? 組に、欲しいですか」
「そりゃあまあ、お前……それがどうした」
「中嶋さんが本当に欲しいってんなら、俺、その気にさせてみせますよ」
 遠山は微笑んで、水商売でもすれば忽ち女が群がりそうな涼やかな目元に何かを滲ませた。
 狂気とか、または侠気とか。
 そういう粘っこいものではない。
 だが、中嶋には、感情に振り回されて理性を失うことが少ない遠山という人間の、冷徹で現実的な何かが、今は却って少しばかり怖かった。
 錠前屋の坊主も、坊主より余程不気味な凄味を持つ仕入屋も、所詮は同じ穴の狢と言ってもいいかもしれない。中嶋には彼らのろくでもない部分が分かりすぎるほどよく理解できた。だからこそ身近に感じ、気に入ったと思う反面怖いと思うことはない。
「中嶋さん?」
 中嶋と錠前屋が食べた蕎麦の器を盆に載せて、高価なスーツに身を包んだヤクザは優しげに笑んで見せる。黒塗りのプラスチックの盆の光沢が、やたらと中嶋の目に痛かった。
「仕入屋が邪魔しようが、本人が泣いて嫌がろうが——指の一、二本は減るかも知れませんが」
「……遠山」
 葱の匂いが鼻をつく。遠山の控えめな香水が、しかしその合間を縫って中嶋の鼻まで届く。香水なんぞに興味はないから、それが何という香りなのかは分からない。
「中嶋さんが死ねって言うなら、死んでみせます。あの坊主を取り込めってんなら、どうやってでも、やってみせます」
「——馬鹿かい、お前さんいつの時代のヤクザだよ」
「さあ? ヤクザの歴史に興味はないから分かりません。中嶋さん以外の誰かの言葉は、俺にとっては無意味です」
 茶色く染めた長めの髪が、首を傾げる遠山の動きに合わせてさらりと流れた。
 中嶋はその顔をぼんやり眺め、そういえば、と内心で独りごちた。
 堅気の大学生だった頃のこいつと今のこいつは、目の色が確かに違う。
 自ら暴力を行使するわけでもない、何が変わったとは言えなくとも、確かに変わってしまった遠山正志という一人の青年がそこにいる。
 歪んだ道筋を辿り、それでもここまで頑なに傍を離れようとしなかった、その純粋さだけはあの日のままで。
 いいヤクザなど、一人もいない。ヤクザというのは下っ端から上にいたるまで、一人残らず、誰のためにもならない存在だ。遠山をそうしたのは誰あろう自分だった。
 この十年、もしかしたら自分は堅気の子供をこの世界に引き込んだとどこかで後悔し続けていたのかも知れなかった。
「俺は確かに坊主が気に入ってるよ。けどなあ、ありゃヤクザになれる男じゃねえなあ」
「そうですか?」
「それに、俺にはお前さんがいるからな」
 蕎麦の器を持った遠山が、不意に満面の笑みを浮かべた。屈託なく笑うその顔は、実年齢より若く見える。
 赤いお守りを掌に載せ、顔を真っ赤にしていた遠山。目の前の笑顔に泣きそうなその表情が不意に重なって、中嶋は目をしばたたいた。
「遅れます。急いでください」
 遠山は身を翻し、出て行った。
 蕎麦の匂いが篭った部屋で、中嶋は天井に向かって大きな息を吐いた。
「おーい、とおやまぁ」
 大声を出すと、遠山がまた戸口から顔を見せた。蕎麦の盆はどこへ置いたのか、手元は空だ。
「何ですか?」
「今日の夜、久しぶりに一緒に飯でも食うかい」
「どうしたんですか、中嶋さん。なんか俺に気を遣ってます?」
そう言いながら目を細め、遠山は嬉しそうに口元を綻ばせる。
「まあ、たまには可愛い部下を労おうかと思ってよ」
「はい、ご一緒させて頂きます」
 扉が閉まり、駆ける足音が遠ざかる。
 中嶋は安い合皮張りのソファからゆっくりと身を起こし、筋張った手の甲で眉間を擦った。
 どんなに歪んでいても、自分が進むべき道はひとつきりだ。
 歩く先から背後は崩れ、脇道すらない一本の道。誰かとともに歩く気などさらさらないが、並行するもう一本をあの男が歩くと言うのなら、禁じることは無粋ではないか。
「さて、仕事仕事」
 中嶋は立ち上がり、首を鳴らして扉を開け、殺風景な廊下を進む。
 今日もまた、いつもと同じろくでもないヤクザの一日が過ぎ、終わっていく。
 今日も明日も明後日も、呆気なく無様に死ぬまで、多分毎日、変わりなく。