グリル・パルツァー的キスお題8 1-4

1. 手の上に尊敬のキス

「壊せばいいんじゃねえの?」
「開けた事がばれるとまずいんだと」
 秋野は、サムソナイトの二輪キャスターのスーツケースに眼を向け、肩を竦めてみせた。黒く光った表面が、哲には昆虫の背中に見える。
「そうでなくても、壊したくはないんだろ。定価は十万以上するんだから」
「へえ。こんなもんがね」
 哲は煙草を揉み消し、手袋、と短く呟く。秋野が立ち上がり、洗面所から使い捨てのラテックスグローブの箱を持ってきた。哲が秋野の部屋に常時置いている、唯一の私物である。
「スライド式のカードキーだったら、」
「TSAロック」
「あ、そう」
 手袋を嵌め、ジーンズの尻ポケットから工具を取り出す。秋野は煙草を銜えて火を点け、哲の手元をじっと見つめた。
「何だよ」
「何が?」
「興味あんのか」
 そういえば、秋野は哲が解錠する時は、大抵熱心に手元を見ている。ような気がする。
「俺が錠前いじるとき、いつも見てんだろうが」
 正直、本当にそうかどうかは分からない。スーツケースのようなすぐに開いてしまうものはともかく、金庫や何かであれば、哲の意識は錠前に集中してしまう。気配、と言えばいいのか、視線は感じても、半部以上は上の空なのだ。
「単純に、すごいなと思うからな」
「別に、その辺のチェーン店の鍵師だって同じこと出来るぜ」
「かも知れんが」
 がちりという金属音が、ロックの解除を大袈裟に告げた。
「つまんねえな。もう少し手ごたえのあるもんじゃねえと」
 哲が呟くと秋野は苦笑し、哲の唇の間に煙草を突っ込んできた。
 何を思ったのか、秋野が哲の右手を取って持ち上げる。ピッキングツールを持ったままの右手から、ラテックスが剥かれる感触。手の甲だけを露にして、そこで手袋の捲れは止まった。
 秋野の頭が下がり、長い前髪の先が哲の手の甲に僅かに触れる。
 そっと押し当てられた唇の温度。
 余りに恭しいその態度に咄嗟に何の反応も出来ず、哲は馬鹿みたいに鼻から煙を吐き出した。
「尊敬してるよ、錠前屋」
 低い呟きが耳に届いた途端。
 突如として秋野が哲の手の甲をきつく吸い上げた。
「痛え!」
 笑いながら離れた秋野の腹を蹴り、手の甲に眼を落とす。赤い痕は見る間に薄れて消えていったが、何か、目には見えない痕をつけられたような気がしてならない。
「嘘吐け、何が尊敬だ、この馬鹿野郎」
「本気本気」
「二度言うな、ただでも嘘くせえのに」
 秋野の指が伸びて、哲から煙草を取り上げる。秋野は歯の間に挟んだ煙草の穂先を上下に揺らし、片方の眉を上げてにやにや笑う。
 尊敬だなんて、口から出任せもいいところだ。
 手袋を両手から剥がして丸め、秋野に向かって投げつける。重さのないゴムは失速し、秋野は難なくそれを避けた。
「俺は手袋に用はないよ。どうせくれるなら別のゴムにしてくれ。つけてくれりゃ尚いいな」
「冗談ならもっと気の利いた冗談言いやがれ、エロじじい」
 蹴飛ばしたスーツケースが秋野の膝に当たって軽い音を立てた。
「別に冗談じゃないんだけどねえ」
 哲は秋野の笑いを含んだ低い声を無視して立ち上がり、玄関に向かう。
 尊敬なんて。
 俺にはどうでもいいことだ。
 哲は煙草を銜え、歩き出した。ポケットの中で電話が鳴るが、見なかった。秋野だったら出たくないし、秋野でないなら後でいい。
 誰からも、尊敬なんて欲しくない。無意識に手の甲をジーンズで拭い、哲はフィルターを噛み潰す。
 それにしても、仕入屋だ。あいつはろくでもない男だが、嫌がらせのやり方を心得た男であることには違いない。
 だから離れられないのだとそう思い、哲は道端に唾を吐いた。

 

2. 額の上に友情のキス

「お前は加減ってもんを知らねえな」
 心底呆れた顔で見下ろして、哲は容赦なく秋野の腹の上にビニール袋を放り投げた。
「……」
 ペットボトル三本分の重みが空っぽの胃の上に急激に掛かり、秋野は瀕死の動物のように低く唸る。哲は首を振り振り床に腰を下ろすと、テーブルの上の灰皿を引き寄せた。
「これならしょっちゅう中途半端に引いてるほうがまだマシじゃねえのか」
 風邪である。
 哲と知り合ったばかりの頃に一度性質の悪い風邪を引いたが、どうも同じようなウィルスに当たったらしい。普段は殆ど風邪らしい風邪も引かないから、哲の台詞ももっともである。
 別の用事で電話をかけてきた哲に水を頼んで、それ以上は口をきく気力もなかった。うつしたら困るとかそんなことはもとより考えもしない。どうせ哲は無駄に丈夫だ。
「先に言えば食うものくらい買ってきてやったのによ」
「……ああ」
 二文字以上は多分喋れない、そんな気がする。
「どうせ食ってねえんだろ」
 見りゃ分かるだろう、と言い返したいがその体力すら勿体ない。
「熱あんの」
 どうにかこうにか首を横に振る。熱はあるが、まだ上がりきっていないから熱くはなくて寒いとか、そんな複雑な説明はとても出来ない。
「腹壊してんのか」
 そのまま首を横に振り続ける。
「咳は? 鼻水は?」
 同上。
「じゃあ何よ」
 哲は煙草を唇の端にぶら下げてライターを構えたまま不審そうな顔をした。
「悪寒」
「だけか?」
 ああ、三文字いけた。
「吐き気」
「あとは?」
 これは嫌がらせだろうか。
「……頭痛」
「ふうん。前と同じだな。お前の体質か?」
「多分……」
 息も絶え絶えな返答に、哲は煙草を銜えたままにやにやしている。風邪のウィルスが確実に哲に届くなら金を出してもいいと思いながら、腹の上のビニール袋からペットボトルを取り出した。冷たいプラスチックの表面が気持ちいい。気持ちいいのにその冷たさに悪寒が走り、全身の毛穴が開いて思わず呻く。
「なあ、何か食いたいものあるか」
 親切と言う名の仮面を被った嫌がらせが気に入った哲は、ご機嫌だ。喋ると辛そうだというのを見て取るや、とにかく喋らせたくなったらしい。
 秋野はソファに起き上がろうとして果たせず、腰から下がずり落ちた状態で溜息を吐いた。腹の上から残りのペットボトルが滑り落ちて床に転がる。悪寒を堪えながらキャップを捻ろうとするが、どうにも力が入らない。
「哲」
「ああ?」
「——帰れ」
 ようやく絞り出す声には迫力も威厳もない。もっとも、あったところでこいつは意にも介さないに違いない。
 この二日ただ寝転がっていただけの部屋は空気も乾いて冷えている。ぞわりと背を這う怖気に思わず眼を瞑った。
「喋ると……頭に響く」
「折角見守ってやってんのに」
「うるさいよ……」
「ここで病人放り出して帰るってのもなあ。友達甲斐がねえよなあ」
 誰と誰が友達だ。
 瞼を閉じたままペットボトルを哲に向かって投げつけた。
 力が入っていないから、途中で落下したのだろう。ごとり、と床にボトルが落ちる音。
 哲が動く気配がする。ボトルを拾ったのか、煙草に火を点けたのか。不意に指先で掻き分けられた前髪の間から、額に落とされた温かい感触。
 後頭部を乱暴に掴む哲の指を感じ、それが唇だとようやく理解して眼を開けた。
「仕方ねえから何か買ってきてやる。寝てろ」
 つまらなさそうな哲の顔。
 蓋の開けられたペットボトルが否応もなく押し付けられ、哲はさっさといなくなった。

 

「スーパーで偶然てっちゃんに会っちゃってさぁ」
 友情の証、届けられた食料には、オカマのおまけがついていた。
「お大事にって言ってたわよ。ちょっとぉ、睨まないでよっ。あたしじゃ不満なのっ!?」
 まったく、友達とはよく言った。
 馬鹿野郎。

 

3. 頬の上に厚意のキス

「いってえ!」
 哲はいきなりそう吐き出し、おまけに少量とはいえ掌に血を吐き出した。
「おいおい何だ」
 隣に座っていた秋野も思わず身体を哲に向ける。カウンターの隅っこだから誰もこちらは見ていなかったが、見ていたら何事かと思われたに違いない。
「思いっきり噛んだ……くそ」
「何やってんだ。ママ、ティッシュ頂戴。こいつ口ん中噛んだってさ」
 秋野はカウンターの向こう端で水割りを作っているママに声を掛け、カウンターの中に手を伸ばして箱ごとティッシュを掴む。哲は渡されたティッシュを数枚取って、口の中に突っ込んだ。
「あー久しぶりにやった」
 哲が食べていたのはママの手製の揚げ出し豆腐、ママは日本人ではないからか、かかっているのは醤油味の餡ではなくて何故かサルサソースだが、それはそれでなかなかいける。しかし豆腐を噛んでいて思いっきり口の中を噛むと言うのは、一体どれだけ力が入っていたのか。
「噛むタイミングがずれたんだよ。豆腐をそんな力いっぱい噛むわけあるか、阿呆」
 思ったことをそのまま言うと、険しい目で睨まれた。
「噛んじゃったって? 大丈夫かい? ほら、これ」
「ああ、すんません」
 前にチョコレートを貰ってからすっかり哲を気に入ったママが、いそいそと氷水を持ってきて、忙しそうにまた戻っていく。
「——冷やせってか?」
「じゃないのか」
「なかなか難しいこと要求すんな、ママ」
 言いながら哲が舌をべろりと出して見せる。
「切れてっか?」
「あー結構深そうだな」
 舌の先、傷口からは、まだ血が滲み出していて、なかなかにグロテスクだ。秋野はティッシュを取って哲の舌を乱暴に拭いてみた。予想どおり不機嫌な唸り声と共にカウンターの下で脛を蹴飛ばされる。
「触んな馬鹿。醤油が沁みそうだな……明日から暫く味見は服部に任せっかな」
 言いながら哲はコップに指を突っ込んで氷を摘み出し、口の中に放り込む。舌を冷やすはずの氷は哲の歯に噛み砕かれて、がりがりと音を立てた。
 そんな哲を眺めていて、確かにあれは痛いだろうと思ったら、不意に以前のことを思い出して秋野は思わず頬を緩めた。哲が嫌そうな顔をして秋野を見上げ、何笑ってんだ気持ち悪ぃな、と低く呟く。
「——お前に齧られてざっくり切れたことあったろ」
「いつだよ」
「初めてやった時」
 煙草を銜えてそう言うと、哲はああ、と気のない返事をした。煙を吐き出す秋野の横顔に一瞬哲の視線が留まって、ゆっくりと逸れる。
「あの時の俺の傷はそんなもんじゃなかったぞ。俺の苦労を思い知れよ」
「そんな酷く噛んでねえだろ」
「何言ってる。一週間飯が食えなかったんだ、俺は」
「そりゃ災難だったな」
 素っ気無く返し、肩を竦めて哲はまた箸を手に取った。秋野が見ていると、サルサソースのついた豆腐を果敢に口に入れ、しかめ面をして嚥下する。
「そんな我慢しないで残せばいいだろう、馬鹿だね」
「別に我慢してねえよ。お前だってあの時、散々噛まれて血流しながら最後までやったろうが。人のこと馬鹿って言えた義理か」
「それとこれは違うだろう」
「そうか? じゃあ止めりゃよかったのに何で止めなかったんだよ」
「さあね」
「誤魔化しやがるか。つまんねえなおい」
 口元を歪めて哲は笑う。凶暴な本性がちらりと覗き、また隠れた。秋野がゆっくりと吐き出す煙の隙間から、哲は剣呑な視線をくれる。いっそ睨み殺そうとでも言うようなその目つきに、身体の奥が微かにざわつき、秋野はフィルターを噛み締めた。
「ありゃ勢いだ。止めようかとも思ったがね」
「噛まれて興奮したんじゃねえの」
「それはお前も同じだろ?」
 秋野の声にかぶさって、テーブル席の団体客の笑い声が甲高く響く。
「別に」
「じゃあ何で最後まで我慢したんだ?」
 グラスの中で、氷がからりと音を立てる。まるでくだらない会話を嗤うように。
「厚意」
 いい加減な返答に思わず吹き出した。我慢できずに上がった秋野の笑い声にママがこちらを向く。ママに手を振りながら哲を引き寄せ、頬に軽くキスをする。秋野と哲が仲良しだと信じて疑わないフィリピーナは、男二人の友愛のキスと信じたそれに、平和的な微笑を見せた。
「やめろ、気持ち悪ぃな!」
 本気で嫌がり、哲は血のついたティッシュを取り上げて頬を拭った。キスをここまで嫌がられるのは、人生で初めてだ。
「その舌を更に傷だらけにしたいとこだけどな、今日はこれで我慢しとくよ」
「一生我慢してろ、くそったれ」
「これこそ厚意だからな。日本語覚えろよ、錠前屋」
 くるぶしを強かに蹴り付けられて、可笑しくなってまた笑う。何が厚意だ。そんなものは持ち合わせてもいないくせに。
 笑う秋野を一瞥した哲の頬が歪み、肩が震える。
 笑い出した二人を見たママが、何がそんなに可笑しいのかと言う顔で、呆れたように眉を上げた。

 

4. 唇の上に愛情のキス

 結局何に腹が立つかなんて、どうでもいい。
 多分本当は怒りではない。そんなことは分かっている。脳が溶け出しそうな頭は、憤怒とか何とか、そういうものとはおよそかけ離れた何かで沸騰しているに違いない。
 原因を突き止めたところでどうにもならない、だったら無駄なことはしない。
 歯軋りと、痛みと、暗闇と、金気くさい血の味と、憎悪かと思うほどの凶暴な衝動。それがすべてだ。

 哲の行動に秋野が吐いたコメントは、確かに辛辣だったがそれ自体はいつものことだ。
 気に入らないなら脚のひとつも蹴っ飛ばせば終わる程度の内容だし、さして気になることを言われたということもない。
 何故、攻撃的な気分を自制できなかったのかはよく分からない。分からないというより、分かる努力もしたくなかった。衝動のまま振り返りざま回し蹴りを叩き込んだら思いっきり秋野の腹に当たった。
 まだそこまでは日常茶飯事の範囲内だったのだが、哲が振り返った勢いそのままに打ち下ろしたフックが、屈んだ状態の秋野の耳の後ろの骨にヒットした。

 

 深夜の路上に、他に人の気配はなかった。仕事を終えた後の帰り道にはこんな場所がいくつもある。まるでエアポケットのように、人気も物音も、何一つない澱んだ静けさ。女一人では些か心もとない道ではあるが、幸い哲はか弱い女ではなかったし、連れも然り。
 そういうわけで肩を並べて暗い道を進む最中の出来事で、秋野が最前吐いた台詞を殆ど覚えていないにもかかわらず、とにかく秋野をぶちのめしたいと言う強烈な衝動に素直に従った結果だった。
 大きくふらついた秋野はたまたま傍にあった『止まれ』の標識の柱を握り締めて体を支えた。
「………………お前、なぁ……」
 掠れた低い声が、暗い中に不吉に響く。それにしてもよく昏倒しないものだと、哲は正直感心すらして目の前の男を眺めた。
 かなりの手応えがあったのは、気のせいではない。喧嘩慣れした自分としても、会心の一撃と言っていい。それでも顔を俯けながらも二本足で立つ秋野に、ますます臓腑が煮え立つような感覚があった。
「何だよ」
 吐き捨てると、秋野がゆっくりと顔を上げた。
 暗がりの中で薄く光る淡い色の虹彩が獣のように歪められた形相とあいまって、さすがに背中が寒くなる雰囲気だ。その手が握る鉄棒の先、真っ赤な『止まれ』は一体誰宛の警告なのかと思わずにはいられない。
「まあ、俺も悪いがな……」
 標識の支柱を握り締めた秋野の指の間接は白く色が抜けていた。秋野の馬鹿力も強さも、哲はよく知っている。だからなのか、それとも他の理由なのか。
 首筋の毛が逆立つのを鮮明に感じ取り、哲の注意が一瞬逸れた。
 次に知覚したのは地面に倒れた自分の体と、哲を見下ろし指の関節をごきりと鳴らす秋野の凶悪な表情だった。

 髪を掴まれ、膝で鳩尾を突き上げられた。息が止まり、次に猛烈な吐き気が襲う。出てきたのはわずかばかりの胃液だったが、それでも目尻に涙が滲んだ。そのまま壁に押し付けられ、下から拳で突き上げるようにして殴られた。脚の力はとうにないが、そうやって支えがあると倒れることすらままならない。
 突き出された拳を二の腕で払いのけ、脇腹を狙って肘を出したが逆に蹴飛ばされ、そのまま地面に転がった。秋野の脚が哲を跨ぎ、肩口を蹴り付ける。見上げても、遥か上方の秋野の顔は暗闇に隠れて見えはしない。
「………………死ね、クソ虎……」
 この状態では迫力不足だが、哲は切れた唇を舐めながら吐き出した。返答はなく、今度はつま先で顎を蹴られた。思わず唸り声を上げて体を折る。
 秋野は哲の上を跨ぐように腰を落とす。格闘技で言うマウントの姿勢に、さすがにやばいと思いながら体を捩ったが、秋野の脚に押さえつけられ動けない。
 顔を上げると、秋野が柔らかくさえある低い声で囁いた。声は、暗闇の中に語尾が滲んでやたらと酷薄に響く気がする。
「……まったく、可愛いよ、お前は」
「ああ? お前頭おかしいんじゃねえのか」
「ことお前に関しては完全にいかれてるな。自覚はしてる」
 秋野が哲の髪を掴み、無理やり顔を持ち上げる。頭皮が引っ張られる痛みに顔をしかめ、哲は秋野の手を振り払った。
「てめえの物言いはいちいちむかつく。だから」
 言い終わらないうちにもう一発殴られる。膝を秋野の腰に叩きつける。秋野は忌々しげに低く呻き、哲の頭を片手で捕まえ乱暴に地面に押し付けた。掴まれたまま首を捻って地面に錆の味がする唾を吐く。
「むかついたって? そうは見えんぞ」
「何?」
 秋野の左手が哲の右手を押さえ込んだ。力を掛けられ、ようやく浮かせた背中がまた地面に押し付けられる。背骨に当たるアスファルトの凹凸がやけに鋭い痛みを呼び起こし、息を吸うたび胃がひくりと痙攣した。
「殴り合いたかっただけなんだろう? 理由を作ってやったのに気づいたか? もっともさっきのは流石に効いた。ちょっとばかり後悔したがね」
「——………………」
「興奮したか? 哲」
「…………くたばれ」
「そのうちな。まだ早い」
 秋野の靴底がアスファルトを擦る音が、地面を伝わり耳に届く。
「どうする、このまま続けるならそれでもいい。肋骨の一本や二本折ってやるぞ、くそガキ」
「野郎……」
 秋野は酷く残忍な、そして満足げな笑顔を浮かべ、薄茶の眼を細めて喉を鳴らした。
「そんな顔するなよ。今すぐどうにかしてやりたくなるって、知ってるだろう」

 

 秋野の黒いジャケットの胸元を、自由になる左手で掴んで強く引く。そのまま掌を後頭部に回して抱き寄せ、口付けた。
 深夜の路上に人の気配はない。だが、いつ誰が通りかからないとも限らない。焦燥、というほどのものではないが、何かに追い立てられるように自分を叩きのめした男の唇に食いついた。
 歯列を割って、舌を差し込む。歯を立てられて、更に強く噛み付き返した。
「——時々な、」
 腹の上に跨る男は薄笑いを浮かべ、低く甘い声で囁きながら、哲の顎を掴んで力の限り締め上げる。
「お前に愛情を感じてるんじゃないかって、錯覚することがある。あまりに間違ってて、思った端から笑えるけどな」
 アスファルトに押し付けられた右手の甲が擦れて痛かった。締め上げられる顎も然り。殴られた箇所が熱を持ち、大小様々な痛みがあちらこちらで芽吹き始めた。明日はどこもかしこも痛むだろうと思うと気が滅入る。
「くだらねえ」
「確かにな」
 くだらなさすぎて、本気で胸が悪くなった。背中に感じる道路の温度が、徐々に体温に近くなる。
「まあ、そういう振りもしようと思えば別に出来なくはない。試してみろよ」
 ねっとりと濃い口付けに、思わず掠れた呻きが漏れる。哲の上げた威嚇の唸りに、秋野の低い呟きが混じる。
「哲——、」
 まるで本気の告白のように、秋野は哲の口の中に言葉を押し込み、舌で犯す。
 嬉しいどころか、怖気が走る。悪寒に粟立った首筋の皮膚に秋野が笑い、一層深く口付けた。
 キスの隙間を埋めるように、三文芝居の台詞のように、白々しくお寒いそれがまた、囁かれる。
 最悪、最低な嘘を、平気で言えるろくでなし。
 死んじまえ。

 

 口付けの合間に、荒い息の合間にそう返す。
 噛み付くように舌を、歯を、唇を奪うキスに呼吸も理性も、もっていかれる。
 秋野は悦に入ったのか性質の悪い笑みを浮かべ、楽しくして仕方がないと言うように、中身のない同じ言葉を繰り返した。

 「哲、愛してる」

 

 反吐が出る。