999

「999を二乗すんだろ」
 哲の低い声がそう呟く。
「そうすっと、998001になんのな。で、998足す001……つーか、1、は999」
「へえ」
 秋野は哲の首筋に顔を埋めながらそう返した。

「聞いてんのかこら」
「聞いてるよ」
 正直半分は聞いていないが、哲もそれ以上は追及してはこなかった。その代わり、左の拳が脇腹に容赦なくめり込んで、秋野は詰まった息をゆっくり吐き出す。哲の舌打ちが響き、それでも唇を塞ぐと諦めたのか抵抗はそれほどなかった。
 何度哲にこうしたか知れないが、最初の頃と特に変わったところは今もない。
 男に抱かれた事のなかった哲が行為に慣れたせいもあって、セックスには多少変化があったかも知れないが、それはあくまで形だけのことだ。
 相変わらず恋愛感情を抱けず、それでも手放す事など思いもよらず、首筋の毛を逆立てて唸る犬に手酷く噛まれながらも押さえつけることには些かの進歩もない。

「お前、数学が苦手って嘘じゃないのか」
「苦手も苦手、俺の答案なんてお前、物凄い美しさで教師が眩しくて目も開けられねえって」
「……白くてか」
「わかってんじゃねえか、仕入屋」
 そう言って笑いながら、錠前屋は円周率を唱え続け、数字を二乗し、その答えを分解して足してみせる。
 錠前のダイヤルを開けるために発達した人とは違う能力のせいで、単なる数字の羅列を扱うことに長けているのかも知れないと、哲は言って肩を竦めた。
「999か」
「ぁあ?」

 例えば、哲を愛することに1000の要素が必要なのだとして。

 999までは、既にこの手の中に、存在するのかも知れなかった。
 まるで哲が呟く数字が行進するように、続いてきたちいさな事実の積み重ね。
 それでも、最後に必要な一つは、どうしても手に入らないのかもしれない。そう思うからこそ、哲への執着が愛よりなお、強く凶暴なのかもしれない。

「おい、人の腹の上に乗っかっといて余裕でぼけっとしてんじゃねえ。クソ忌々しい」
 そういう錠前屋は、人の腹の下で半裸のくせに、余裕で煙草をふかしている。
「お前に言われたくないな」
「何でよ」
「さあな」

 あとひとつ。
 それはいつか、どこかから降って来るのか。

「なあ、哲」
「何だよ」

 それを望むのかそうでないのか。それは分かりきったことではあるが、分からないことにしておけば、思い悩む事もない。
「煙草、吸うなら早く吸っちまえよ。灰が飛ぶ」
 哲がゆっくりと一度瞬きした。
「……ゆっくりやりゃいい」

 口の端を吊り上げて凶暴な笑みを浮かべた哲の首筋に齧り付く。

 

 

「お前は馬鹿だ、俺の錠前屋」
「誰がてめえのだ。寝言は寝て言え、くそったれ」

 蹴飛ばされた背中の痛み。
 これも案外、999回目かも知れない。

 苦笑を零し、哲の煙草を掠め取って一口吸う。灰皿で揉み消して、煙草ではなく哲の唇を吸いながら、秋野は喉の奥を鳴らして笑う。
「——お前は俺のだよ。多分な」
 哲が呻き、絡め取られた舌を震わせ、心底嫌そうな声で「勘弁してくれ」と一度、呟いた。