それが真実ならいらない。

秋野の削げた頬を伝い、こめかみから流れた汗が顎から落ちた。

 ぽたぽた落ちる、という表現をよく聞くし、自分でも使うことがある。雨や水滴なら、トタン屋根やシンクに当たる音を聞いたことがある。しかし、よく考えたら、ぽたぽた、と音を立てて落ちる汗を見たことがない。サウナで自分の身体から噴きだす汗は音がしそうではあるが、だが実際その音を聞いたことがなかった。
 益体もないことを頭の隅で考えながら秋野の汗の滴を眺め、哲はフィルターを噛み締めた。煙草の挟まっている隙間から、煙が顔の周りにまつわりつくように立ち上る。
「……っ」
 噛み潰してしまったフィルターが、歯の間で頼りなく捩れた。柔らかい感触は、どうやってもマウスピースにはなりそうもない。
「まったく」
 低い声が、忌々しげな色を滲ませてゆっくりと吐き出される。秋野が苛立ちを誰かに分かる形で外に出すのは、限られた人間の前でだけだ。その『限られた人間』の中に自分が含まれていることについて、興味深いとは思うが、別に嬉しくはない。何せ、虫の居所が悪い時のこの男ときたら、手に負えないのだ。
 どうやら今日は、暑さがお気に召さないらしい。お陰でさっきから食いしばるばかりの哲の顎は、そろそろ痺れたようにだるくなっている。
「暑くて苛々するな」
「仕方ねえだろ……そういう季節なんだからよ」
「クーラーつけりゃ済むんだがね」
「……嫌いなんだよ」
「知ってるよ」
 長い指が伸びて、哲の口から煙草を取り上げ、灰皿の中に放り込む。
 光源は、開いた窓から射し込む月明かりと、申し訳程度の街灯の人工的な光。輪郭はくっきりと浮き上がり、薄い色の瞳が瞬くのがよく見えた。
「やってる最中に煙草吸うなって何遍言えば分かる」
「るっせえ、んだよ」
「吸うにしても、どっちかって言うとお前じゃなくて俺だろう、立場的に」
「突っ込まれた挙句、腹の上で煙草吸われるなんて冗談じゃ…………」
 言いかけた憎まれ口は掠れた喘ぎにすり替わり、低く唸るような己のそれは、普段よりは幾らか欲望を滲ませている、と他人事のように考えた。
 骨の硬さを競うようにぶつけた拳や踵の痕がお互いそこかしこに残っている。吸われた痕も噛んだ痕も、殴り蹴飛ばした痕跡と結局なんら変わらない。ただの鬱血、皮膚一枚隔てて毛細血管が切れたというだけ、他に意味などありはしない。
「…………てつ」
 ゆっくりと発音されるふたつの音。その柔らかな響きはどこまでも紛い物だ。
 開いた窓から吹き込む生温く湿った重たい夜風。まるで実体があるかのように、額を、首筋を、腹の上を撫でていく。秋野の顎にまたひとつ汗が伝い、哲の胸の上に滴った。
「くそ……ったれ……、死ね……っ」
「随分だな、お前がこの方がいいっていうからクーラーも我慢して」
 内臓を抉られる不快感。内側から開かれ、圧迫される苦痛と激しい憤り。
 汗でなのか、それとも別のものでなのか、濡れた部分が咀嚼音のような音を立てた。繋がった部分を見下ろす秋野の薄茶の眼の冷たさに暴力的な衝動が膨れ上がる。
 わざとらしく何度も触れる指先の感触。埋め込まれ既に隙間のないそこに、無理矢理押し込まれる骨ばった指の形に、喉の奥から漏れるのは声にならない咆哮だった。

 抱き合うことが、愛とか恋とかいうものの結果なのだと、誰かがそう言うのだとしたら。
 それが真実ならいらない。
 そんなきれいなものなど欲しくない。
 汗と血と甘くも美しくもない生温い体液にまみれた行為が贋物だというのならそれでいい。
 真実など、秋野の喉を食い千切るのに、何の役にも立ちはしないのだから。

「秋野」

 軋む奥歯の間から思わず呼んだ名前の主は、前髪の間から覗く目を眇め、口元を歪めて笑ってみせた。