身ひとつで

「お前今どこにいんの」
「何時だと思ってるんだ」
 昼間の電話は、無視しようと思えば幾らでも出来る。
 だが、不思議なもので、眠っているときに鳴っている電話というものは、反射的に取ってしまう。考える暇も何もない。気がついたらもしもし、と言っているのだから、人間というのは案外凄い。
「部屋?」
 少し掠れてこもったような響きは普段の声とは少し違う。だが、低く不機嫌そうなこの声は、聞き違えようがない錠前屋の声だった。
「ああ」
 返事をした途端、通話が切れる。
 何なんだ、一体。呟いて、秋野は携帯を床に放り出した。

 さながら繭のような布団から這い出るには相当な勇気が要る。しかし、一度目覚めてしまうと一通りのことをしないと気が済まないから仕方なかった。
 用を足し、水を飲み、一服する。暖房のついていない部屋は温度が下がっていたが、先程まで熟睡していたせいか寒くはなかった。
 先程床に捨てた携帯がまた鳴り出した。寝室の床から振動が、耳には電子音が伝わってくる。甲高い呼び出し音は、少なくとも午前三時に進んで聞きたい音ではない。
 秋野は眉を寄せ、煙草を揉み消すと腰を上げた。
「新手の嫌がらせか」
「いや、悪ぃとは思ってる、一応」
 聞こえてきた声は先程と同じ、哲のものだ。
「何時だと思ってるんだ、まったく」
「下に居るんだけどよ」
「は?」
「だから、お前ん家の下にいんだけど」
「だから何だ」
「顔見てえなあ」
「嘘吐け」
 棒読みの台詞を遮ってそう吐き捨て、電話を切る。まったく、一体何だというのだ。
 玄関に向かいかけ、寝巻き代わりのワークパンツとTシャツだけだと思い当たって寝室に引き返す。一番手前にあったコートを掴んで羽織りながら、思わず低く悪態をついた。
 ドアを開けても哲はいない。階段の手摺りから乗り出して下を覗くと、地べたに座り込んでいる人影が見える。回りの影より一段暗く見えるその塊が、人騒がせな錠前屋に違いない。
「哲?」
「よお」
 声を掛けると、案の定、素っ気ない返事が返ってきた。上がってこないのにはそれなりのわけがあるのだろう。
 秋野は小さく息をつき、戸外に足を踏み出した。
 雪国とは違うとはいえ、冬は冬だ。寧ろ底冷えするこの時期、芯から冷えるのは積雪のある地方よりこちらかも知れない。吹き付ける風は忌々しいほど冷たかった。
 秋野のブーツの底も、寒さでゴムが硬くなっている。階段を踏む靴底がごつごつと無骨な音を立て、静まり返った辺りに響く。
 秋野は階段を降りきって、黒い影の横に立った。
「飲んでたのか」
 酒臭い、というわけではないが、哲が座り込んでいる理由としてはこれが一番考えやすい。案の定、哲はゆっくり頷いた。
「ああ、新年会という名の宴会。高校のときの奴らと久しぶりに集まって、飲みすぎた」
「で?」
 哲の顔色は特に変わっていない。口調もいつものままで、酔っているのかいないのか、いまひとつ分からないのはいつものことだ。
 黒いダウンジャケットのフードについた毛足の長いファーに半分埋まるようにして背を丸め、直接地面に座っている哲は、普段の凶暴さを少しか失っているように見える。
 一際強く風が吹き、秋野は思わず首を竦めた。
「で、腰が立たねえんだよ」
「……どれだけ飲んだんだ」
「覚えてねえなあ。何杯かなんて数えねえし」
「馬鹿だね」
「タクシー乗ってアパートの前まで行ったんだけどよ、よく考えたら階段上れねえな、と」
「それで電話して来たのか」
「ああ」
「まったく」
「お前が出るからじゃねえか」
 要するに、クレーン代わりということか。秋野は哲のジーンズの膝を強く蹴飛ばす。哲の足がぴくりと動いたが、蹴り返す力はないらしく、爪先が僅かに上がっただけでぱたりと落ちた。
「ホテルに泊まればいいだろう」
「ホテル? 面倒くせえ」
「ラブホでも何でも、そこらに幾らでもあるだろうが。何もここまで来なくても」
「喜べよ、仕入屋」
「嬉しくない。クソガキめ」
 哲の脇に肩を入れ、左腕を掴んで無理矢理立たせた。十センチの身長差が邪魔をしてうまく担げないが、お姫様抱っこでもしようものなら後々どんな報復を受けるか分からないからやめておく。
 酔っ払った哲が転がり込んでくることはそう珍しくない。以前にも同じように具合を悪くしてやってきたことがあって、あの時は面白がって横抱きにしたのだった。
 翌日、目覚めきらない寝起きのうちに強烈な回し蹴りを食らったことは忘れようにも忘れられない思い出だ。
 力の抜けた成人男性はかなり重い。引き摺るようにしてようやく部屋まで引っ張り上げ、人形を抱きかかえるようにしてドアを閉めた。鍵を掛け、靴を脱ぎかけたところで哲が一度脱力する。
「おい、頼むからここでくたばるな」
「あー久々にこんなんなった。あれ以来かも」
「それはどうでもいいから踏ん張れ、馬鹿」
 足を突っ込んでいただけのブーツを放り投げるように脱ぎ捨て、哲はスニーカーを履かせたまま引き摺った。靴など後で幾らでも脱がせられる。
「土足だけど」
「いいから取り敢えず上が……」
 突然片方の腕にかかった体重に世界が傾ぐ。踏ん張った逆の足の奮闘空しく、酔っ払いに巻き込まれるようにして秋野も床に膝をついた。
 何とか膝立ちで堪えたところに最後の一押し、哲が前のめりに倒れ、秋野は床に尻をつく。
「おい、勘弁しろよ錠前屋。ここで吐いたら外に蹴り出すからな。勝手に凍死しろ」
「吐かねえよ、勿体ない」
「そういう問題か」
「別に気持ち悪くねえし」
「ああそうかい」
「眠てえ」
「ここで寝るな」
 ぐにゃりと力が抜けた哲を無理矢理引っ張ってみたが、座ったままの体勢からでは流石に持ち上げられない。
「おい、哲」
「お前、あったけえな」
「さっきまで寝てたからだろ。起きろって」
「時々、お前の考えてることが分かることがある」
 哲の口調はいつもとまるで変わらない。文句を言っているかのような愛想のない低い声が秋野の顎の下からぼそぼそと聞こえてくる。
「で、時々分からねえと思うこともある。八割方はそんなこと考えもしねえし、どうでもいいと思ってんだけど」
「……」
「おっかねえ男だなと思ったり」
「怖がってなんかいないくせに何言ってる」
「いや、怖えよ」
 酔いのせいなのか、それとも違うのか。言っていることが意味不明だ。哲は床に尻をつけた秋野の脚の間で、まるで抱き合うような体勢のまま語を継いだ。
「食い潰されてくような気がして怖い」
「何だ、そりゃ」
「お前のことなんかどうでもいい」
 哲は相変わらず一本調子に話し続ける。もしかしたら、今まで見た中で一番酔っているのではないかと今更気付き、秋野は哲を抱え直して顔を覗き込んだ。
「哲?」
「消えちまえ、くそったれ」
「三時に転がり込んできてなんて言い草だ」
「消える時は全部返せ」
「何を」
「お前が食ったもの全部」
「具体的に言えよ、酔っ払い」
「うるせえ、傲慢虎野郎。死ね」
「まったく、何を言ってるのか分からんな。ほら、哲、立て。女みたいに抱きかかえられたいか」
「死んだ奴がいるんだってよ」
 哲の声が、秋野の手を押し止めた。思わず見返した哲の瞳は、微妙に焦点がずれ、アルコールのせいか眠たげだった。
「さっき聞いた。同じ学校の喧嘩仲間で、卒業して暴力団の構成員になった。組長の運転手やってて、流れ弾に当たって、先月死んだって。別に哀しくも何ともねえ。ほとんど顔も覚えてねえ。ただ、俺の中からそいつは完全に消えるんだと思っただけだ」
「哲」
「お前が消えたら、俺の中のお前も消える。同じことだ。俺の中に、目の前に居もしねえ奴が居座る余地は少しもねえ」
 腕の中の哲の身体は、弛緩していて冷たかった。摂取しすぎたアルコールのせいか、眠気のせいか、とにかく体温が一時的に下がっているのだろう。
「そのはずなのに、お前が食った分、余ってる気がすんだよ。その場所が」
 何故か突然胸が詰まって、うまく息が継げなかった。秋野は大きく息を吸い、哲の顔を見下ろした。
「だから返せ」
「……その時になってみないとな」
「死ね、クソ野郎。エロジジイ」
「ジジイって言うな、ガキ」
「俺みたいな馬鹿は身ひとつで生きてかなきゃなんねえだろうが」
 哲は力の抜けた腕を持ち上げて、秋野を押し戻そうとゆっくりと力を入れる。密着した身体が徐々に離れ、ゆっくりと、鋭い視線が秋野に向けられた。
「——勝手に、俺から何かを持っていくな」

 ぱたり、と手が落ちる。
 いきなり意識を手放した哲は、秋野の胸に頭を預け、軽い寝息を立て始めた。
「…………」
 哲の言っていることも、自分の反応も、実際のところよくわからない。
 寝入った哲を見下ろして、秋野は大きく息をついた。
「身体ひとつで嫁に来い……って、それで済めば簡単なんだがな」
 さて、どうやって動かすかと思案して、秋野は取り敢えず哲を床に横たえた。相変わらず機嫌の悪そうな哲の顔は、ほんの僅か、いつもより白い。
 哲に覆いかぶさり、頬に唇を寄せる。削げた頬を辿り、顎を掠めて首筋をなぞる。触れるか触れないかの距離で唇を這わせながら、秋野は眠る哲に問いかけた。
「俺が怖いか。気に入らないか?」
 哲の瞼が僅かに動き、眉間に皺が寄る。耳朶に舌を這わせ、髪をきつく掴んで、耳に言葉を押し込んだ。
「返して欲しけりゃ力ずくで取り返せ」
 再び動いた哲の瞼がゆっくりと持ち上がり、薄っすら開く。秋野は哲の瞳を覗き込み、そこに映る己の姿に吐き捨てた。
「今更、返せるものなんか何一つないんだよ」

 

 結局、秋野は眠り込んだ哲を移動させるのを諦めた。持ち上げられないわけではないが、いい加減面倒になったからだ。
 ダウンと靴を脱がせ、客用の布団と枕を取りに寝室に向かいかけて思い直した。
 ベッドの布団をそのまま剥ぎ、枕を持って居間に戻る。哲を抱えて床に転がり、布団に包まる。体温が低いとはいえ他人の身体が横にあるだけで、一人で寝るより余程温かかった。
「……返せ、なんて、酔ってても言うなよ」
 返せ、ということは、今この瞬間、お前の一部は俺のものなのか。
 俺はお前の何かを手にしているのか。
 我知らず震える指先が何を掴もうとしているのか、自分でもしかとは分からなかった。
 目が覚めたら、まず真っ先に蹴飛ばされるかぶん殴られるに違いない。そう思いながら、哲の硬い身体に腕を回して抱え直す。
 好きな女だろうが、好きでもない男だろうが、腕に感じる温度は大差ない。その人物が自分に与える何かはそれぞれ違うものだとしても、目を閉じて抱えてしまえばただの身ひとつ、同じだった。
 瞼を閉じ、手招く睡魔に身を委ねる。硬い床も、男の骨も気にならない。どうせたった何時間かのことなのだ。
 何故か白く霞んだ瞼の裏の暗闇に、意識がぼんやり溶けていく。

 曙光が闇を照らすには、まだ早い。