さあ、裁いて見せろ

 それが哲だと気付いたのは、本当に偶然だった。
 たまたま通り過ぎた店のガラス張りの壁際、道路から見えるところに哲はいた。だが、秋野は丁度来たメールを読むのに携帯に目を落としたままで、そのままなら気付かず行き過ぎただろう。
 人を刺し殺せるのではないかと思うくらい尖った爪先のヒールの女が、アスファルトの凹凸に躓きよろける。彼女の上げた小さな声に、秋野はふと目を上げた。
 女の背景は夕方の空が映ったガラスだった。光が反射するガラスの向こうは見え難く、窓際の席に座る客の顔も定かでない。通り過ぎようとした秋野の前を横切って女はガラスに寄りかかり、ヒールの先を検分し始めた。彼女の身体が陰をつくり、店内の一部が透かし見える。すぐそこに座ってぼんやりしているのは、スーツ姿の哲だった。
 いつもなら秋野に気付くと面倒くさそうな顔をするくせに、この日の哲はガラスの向こうから秋野を見つめ、数秒の間の後手招いた。そんなことは滅多にない。余程急ぎの用事があるのかと、秋野は読みかけのメールを閉じて、携帯をポケットに突っ込んだ。
 店員に案内され、四人がけのテーブルに座る哲の背後に立つ。細身のスーツに包まれた肩は、いつもとどこか違って見えた。
「よう」
 斜め下から秋野を見ると、銜えた煙草を揺らしながら、哲は力なくそう言った。
 黒いネクタイではないから、葬式ではないのだろう。いつもより少しタイトにセットしてある髪のせいか、大人っぽく見えなくもない。
 飲む気はなかったが、コーヒーを頼んで店員を追い払う。秋野が哲の向いの椅子に腰を下ろすと、哲は溜息と一緒に煙を吐き出した。
「葬式、じゃないんだろ」
「あ?」
「スーツ」
「ああ。ちょっと人と会うから」
 それにしては浮かない顔の哲は、大きく溜息を吐いた。灰皿の脇には携帯が置いてある。哲がちらりとそれに目をやって、灰を払った。
「待ち合わせか?」
 哲は頷いて、煙草を銜えた。テーブルに両肘をついて手の甲に額を押し付ける。まるで二日酔いでも堪えるような姿勢からは、その会合が楽しみな様子は窺えない。右手で自分のうなじをさすりながら、哲はぼそぼそと呟いた。
「親戚のおばちゃんと待ち合わせてんだよ」
「そうなのか」
「それはいいんだけどよ、お前さあ」
 哲は顔を上げ、非常に情けない声を出した。
「ん?」
「角を立てない女の振り方、詳しそうだよな。詳しいだろ。教えてくれ」
「は……?」
 哲の台詞に答えを返してやる間もなく、件のおばちゃんが登場した。
「あらあ、てっちゃんのお友達!?」
 痩せて小さいわりには驚くほど元気なおばちゃんの乱入で話はそのままうやむやになった。何だかよく分からないながらも微笑み、会釈し、何故か握手を求められ、散々男前だと持ち上げられ、これからの哲の予定について事細かに説明された。
 哲の質問に答える間もなく、コーヒーを置き去りにして秋野はその場から逃げ出した。喜美子と名乗るその女性に憂鬱な顔を向け、天井に向けて煙を吐き出す哲の横顔が、振り返った肩越しに小さく見えた。

 

「お見合いぃ!?」
 仙田の素っ頓狂な声がコーヒーショップの中に響き渡り、店内の客が一斉に口を噤んでこちらを向いた。
「うるさいよ、お前」
 思わず苦笑し、秋野は仙田にそう言った。
「だってだって、ええええっ」
 有名な絵画のように両手を頬に当て、秋野の言葉が終らないうちに仙田は尚も言い募った。声は少しも小さくならず、相変わらず店内の注目を浴びている。
「あの! あ、の、錠前屋さんがっ! お見合いっ」
「うるさいって言ってんだろ、見られてるじゃねーかっ」
 仙田の隣に座る葛木が、相変わらず小型犬のように仙田にくってかかる。仙田はだってぇ、と語尾を長くのばし、葛木に目を遣った。ようやく音量が下がり、店内はまた喧噪に包まれた。
「あの……あの錠前屋さんがお見合いだよ? あり得ないよね! ねっ、葛木!」
「何でだよ? 錠前屋ったって見合いくらいするだろ、別に。いい年した男なんだから、そんな驚くことじゃないだろ」
「……葛木って、周り見てないよね。見たいものだけ見てるよね。よく今まで無事に生きてこられたねえ」
 仙田がしみじみと言い、秋野は思わず声を上げて笑ってしまった。葛木は相変わらず訳が分からないという顔をしていたが、仙田にじっと見つめられてもぞもぞし、便所、と小さく呟いて席を立った。
「年上なんだけどなあ。かわいいよね、世間知らずっていうか」
「可愛いっていうのか、それは」
「あ、そういうこと言うんだ。仕入屋さんが言ったって説得力ないよ。猛獣にガジガジ噛まれながら可愛い可愛いって言ってんでしょうに」
「そう見えるか」
 仙田は煙草を銜えて火を点け、薄く笑ってゆっくりと吐き出した。
「そう見せようとしてんのは分かるよー。半分くらいはほんとなの? 実はよくわかんない」
「訳が分からんやつだよ、お前は。セン」
 前髪をかき上げて秋野が言うと、仙田は奥二重の目を細くしてにんまり笑う。実のところ、この偽造屋については秋野もよく分からない。どうしようもない馬鹿のようにも見えるが、それは上辺だけのような気もする。腹の底を見せないという点では自分と似ていると思うものの、基本的なところはまるで違う。
 仙田は黙ってバッグに手を突っ込み、小さな封筒をテーブルの上に置いた。秋野はそれをすぐに取り上げ、ジャケットのポケットにしまい込んだ。
「金は振り込んだからな。もう確認できるはずだ」
「毎度どうも。ねえ、それより聞かせてよ、どんな気分?」
「何が」
 手洗いから出てきた葛木が観葉植物の間からこちらを窺っているのがよく見えた。本人は隠れているつもりだろうが、真っ赤なパーカーは葉の隙間から丸見えだ。秋野と仙田がまだ商談中だと見てとったのか、葛木は観葉植物から離れ、窓際のカウンターに腰をおろした。先ほどの仙田の視線は、ちょっとどこかへ行っててね、というサインだったのだろう。何にせよ、文句をいいながら仲良く友達付き合いしているようで、結構なことだ。葛木が携帯を開いて何やら熱心に見始めたのを確認し、秋野は仙田に目を戻した。
「退屈してるぞ、お前の可愛い友達は」
「そうやってはぐらかそうとして」
 秋野は肩を竦め、テーブルの下で脚を組み直した。
「錠前屋さんがお見合いってどんな心境なの。恋愛じゃないって言うけどさ、結婚しちゃったらお終いじゃない。教えてよ、いいじゃん」
「別に何も」
「うっそ! 穏やかじゃないって顔してるよ。——実はすっごく意外だけど」
仙田が窺うような上目使いで秋野を見る。表情は動いていない自信があった。秋野はただ口元を歪めて笑い、煙草を一本取り出した。
「お前の目が悪いんだろ」
 煙草の先で軽く灰皿の縁を叩くと、仙田の目がそちらに逸れる。
「そうかな。ほんと?」
「んー」
「適当に誤魔化してるっ」
 子供のようにふくれる仙田に顔をしかめて見せると、仙田は煙草を灰皿に押し付けて立ち上がった。
「結婚しちゃうかもなんて考えたことなかったんでしょ? 用意周到、万事抜かりない仕入屋さんらしくないね」
 じゃあねっ、と勢いよく手を振って、仙田は葛木のほうへ歩いて行く。秋野は存外鋭い仙田の台詞を忌々しく噛み締めながら、煙草に火を点け天井に向かって煙を吐いた。

 

「和服の女ってのはいいな、おい」
 哲の第一声はそれだった。
 相変わらずドアが蹴破られるような自称ノックの後、現れた哲は面白くもなさそうな顔でそうのたまった。
「けどよ、振袖ってのは、あれはなんつーかあれだ、初々しいというかなあ、自分があれなオヤジな気がして」
「何が言いたいんだ、お前は」
「うるせえ」
 髪をぐしゃぐしゃに乱し、ネクタイを緩め、襟のボタンを外しながら秋野の脇を通り抜け、哲は勝手に居間に入って行った。
「疲れた。女と会うのは別に嫌じゃねえが、見合いなんてとんでもねえよ。かしこまって挨拶するだけで白目剥きそうだったぜ」
「で、どうだった」
「だから、振袖で」
「仙田が気にしてた」
「会ったのか」
「仕事でな」
「ふうん」
 哲は秋野を振り返り、眉を寄せた。
「あいつ、目を剥いてたぞ。お前が見合なんて有り得ないんだとさ」
 すっかりいつも通りに崩されてしまった前髪の間から、突き刺すような視線が秋野に向けられた。こういう眼付をたまらなくいいと思うのは自分くらいのもので——秋野にもそのくらいの自覚はあった——よもや女の子を前にしてはしなかっただろうなと、どうでもいい心配が頭をよぎる。
「したくてしたわけじゃねえよ、俺だって。昨日会った喜美子おばちゃんってのが、じいちゃんの妹なんだ」
 哲はポケットから煙草とライター、財布、携帯電話、使わないくせに一応持っている部屋の鍵を引っぱり出し、テーブルの上に置く。スーツのズボンを履いていることは忘れているのかどうでもいいのか、どっかりと胡坐を掻き、いつも通り僅かに猫背になって、煙草に火を点け一口吸いつけた。
「何か知らんけど、俺を結婚させてえんだって、世話になってるから断れなくてよ。つーか、断ったんだけど、きかねえんだわ。年寄りってのは子供と変わんねえよな」
「年を取ると子供に返るっていうからな」
 秋野は立ったまま身を屈め、哲の煙草とライターに手を伸ばした。睨まれたが、構わず一本取り出して唇に挟む。ラムのような匂いが一瞬鼻先を掠めて消える。哲の匂い、という言葉が瞬間的に頭に浮かび、腹の底がざわついて、秋野はフィルターを奥歯で噛み締めた。
 火を点け深く吸い込みながら、哲の部屋の鍵を取り上げ、掌に乗せてみる。施錠しないくせに律儀に鍵を持ち歩いているのはどうしてだと前に訊いたら、本人も暫く首を傾げていたのを思い出す。
「何だよ、不景気な面しやがって。こっちがしけた気分になる」
「どうして寄ったんだ」
 口をついて出た言葉を引っ掴んで引き戻し、飲み込んでしまいたかったが遅かった。哲がゆっくりと視線を動かし、秋野の目をじっと見た。
「どういう意味だ」
「言葉通りだよ。何でここに寄ったのか訊いただけだ」
「別に——色々考えて寄ってるわけじゃねえから」
「そうか」
 秋野は火を点けたばかりの煙草を灰皿に押し付け、哲を見下ろした。フィルターの部分に目をやって、哲が片眉を跳ね上げる。眉間に寄った深い皺は、スーツのズボンに寄るであろう皺より随分深いに違いない。
「何が言いてえのよ」
 銜え煙草で言い、不機嫌に曲げた唇の端から煙を噴き上げる哲は普段と何一つ変わらない。削げた頬の骨っぽい輪郭が蛍光灯の明りに縁どられ、どこか不穏な雰囲気をたたえて見えた。
「ただ、真っ直ぐ帰らなかったのはどうしてかと思っただけだよ。さっさと帰って寝たいと思ってるだろうに。俺の顔見に寄ったのか?」
「誰もてめえの顔なんか見たくねえ。しかも見合いの帰りによ」
 見合い、というのは恋愛の端緒にもなる。
 そして、当然ながら結婚の。
 歯を剥き、噛みつくように言った哲は煙草を乱暴に捻り潰した。真ん中から折れたまだ長いそれが、灰皿の、秋野が置いた吸殻の上に無残に中身を撒き散らす。凶暴さが滲み出た目付きに指先がじわりと痺れた。
「なら、来るな。タイミングが悪すぎる」
 呟くように言った自分の声はしわがれていた。哲の目が剣呑な光を帯び、引き結ばれた唇の線が硬くなった。秋野はゆっくり身を屈め、哲のうなじに指を這わせた。哲が嫌そうに首を振ったその瞬間に力を込め、引き摺り上げるように無理矢理立たせて鼻先に齧りつく。
「痛えじゃねえか、何しやがる!!」
 哲の怒声が部屋中に響き渡り、横面を思い切り殴られたが、秋野は哲の首筋を掴む手を離さなかった。
 火を噴きそうな眼つきも、軋む歯の間から洩れる威嚇の唸りも、似合わないスーツの中の肉と骨も、誰にくれてやる気もないのだと思い知る。
「お前がどこの女と寝ようが、恋愛をしようが俺は構わん。好きにすればいい」
「てめえの許可なんか欲しかねえ、思い上がるな、このクソ虎」
 喚く哲の鼻の頭をもう一度齧り、喉元にごくゆっくり、そして強く歯を立てた。怒りが滲んだ哲の呻きが、秋野の歯を震わせる。誰を抱こうが構わない。所有の印をつけられるというのでなければ、誰とどこで、何をしても。

「結婚は、するなよ」
「——……それこそてめえに関係ねえ! したきゃするに決まってんだろうが!」
 冷蔵庫が突然唸り出し、モーター音とそっくりな音で哲も唸る。階下の住人が何かを落としたらしい大きな音。時計の秒針が刻む僅かな音が、秋野の鼓動とリンクした。
「俺以外の誰かのものになろうなんて、哲——甘いんだよ」

 

 さあ、裁いて見せろ。
 目を瞠った哲の顔を眺め、脳裏に浮かぶ言葉を奥歯で噛み締めた。
 怒りに毛を逆立てる哲を腕に抱く度、喉笛を食い千切りたいと真剣に思う。
 愛してもいないくせに自分のものだと思うことが罪悪なら、俺を裁けるのはお前だけだ。

 既に緩んでいたネクタイに指を掛ける。哲の身体を両手で押さえつけ、歯を使ってネクタイを抜いた。音が聞こえるほど強く拍動する頸動脈を舐め上げながら、秋野は低い声で囁いた。
「俺のものになれ、哲」
 ごくり、と哲の喉仏が上下した。
 反った喉元を何度も噛み、まるで口付けたように痕を残す。脛が思い切り蹴飛ばされ、哲の指が秋野の髪をきつく掴んだ。
「…………絶対にご免だ……死ね、くそったれ……!」
 呻く哲の身体を抱き寄せながら、秋野は薄茶の目を細めて薄く笑った。

 ——裁きはまだ下らない。