2007年 お雛様仕入屋錠前屋

「……雛人形って気持ち悪ぃよな。こんなの飾って有難がる女の気持ちが分かんねえ」
 長持、というのだろうか。長い桐の箱の蓋を持ち上げ、哲は思わずそう呟いた。
 箱の中には薄紙に包まれた古い雛人形が一揃い入っている。元々は丁寧に梱包されていたものが、依頼人が鍵を開けようと上下したせいか所々紙が捲れ、人形の顔やら髪やらが中途半端にはみ出している。片方だけ覗く小さな目や黒々とした長い毛の先は、正直気持ちのいいものではない。哲は顔をしかめて蓋を戻し、長持を秋野のほうへ足で押しやった。
「去年より髪が伸びてたりしねえのかな」
「血の涙流しながら夜中に徘徊したり?」
「気持ち悪いこと言うんじゃねえよ」
「お前が最初に言ったんだろう。馬鹿だね」
 秋野は煙を吐き出して笑い、携帯を取り出した。建物の別の場所で待つ依頼人に仕事が終わったと告げている。哲は手術用の手袋を嵌めたまま立ち上がり、ポケットに手を突っ込んだ。

 

 現れた女は作り物のようにきれいな顔をして、彼岸よりちょっとばかり遠いところに出かけていますとでもいうような、どこか危うい目つきをしていた。
「まあ、嬉しい」
 今時映画かドラマのセットでしか見ないような日本家屋の住人にふさわしいその姿は、それこそどこか部品が一つ欠けてしまった人形のようにも見える。童女のようにはしゃぐ姿にはわざとらしさが色濃くて、着物の襟元から匂い立つ不思議な色香は、要は毒気と紙一重に違いなかった。
「どうやっても開かなかったのよ。壊してしまえばよかったんでしょうけれど、これは母の嫁入り道具で傷をつけたくなかったの。ああ本当によかったわ」
 媚を含んだ上目遣いで見られるとどうにも尻の座りが悪い。
「私ねえ、お雛様大好きよ。貴方は?」
「……別に」
「そうねえ、男の子だものねえ」
 女はころころと笑う。こういう声音を、鈴を転がすと言うのだろうか。可愛らしくさえある仕草と声に顔をみれば、しかし目は笑っていない。酷くいい女だが、それ以上に何かが恐ろしい。氷の塊で背筋を撫で上げられたように怖気が走り、哲はゆっくりと女から目を逸らした。

 

「なんだありゃ」
 仰々しい門と生垣に囲われた敷地を出るなり口に出すと、秋野は口の端を曲げて笑い、煙草を銜えて火を点けた。
「依頼人」
「そういうこと訊いてんじゃねえよ」
 脛を蹴飛ばしたらお返しに煙を吐きかけられる。秋野は屋敷——と呼ぶのが相応しい——を振り返って軽く肩を竦めた。 「元々は料亭付きの芸者だったらしいが、ヒモ亭主に暴力振るわれてストレスで精神的に参ったんだとか聞いたけどな。ここの主人の従妹の娘で、可哀相がって預かってるらしい」
「へえ」
「——というのは表向きで、そのヒモ亭主に農薬飲ませて殺したとか、実はここの主人の愛人だとか、噂は色々ありすぎてどれが本当だか俺も知らん」
 秋野は面白がるような目の色をして、哲の顔を窺った。睨み返すと喉の奥で笑い、勝手にそうかそうか、と頷いて歩き出した。一体何がそうなのか、哲は首を捻りつつその背を追う。
 暖かくなり始めたせいか、雛祭りからの連想か、昨年見た桜の木をふと思い出す。三月は花月とも言うらしい。実際まだ桜は咲いてはいないが、春が訪れる気配はある。あの時もこうやってこいつの後をついて行き、間違いなくこの世のものでありながらどこか不確かな何かを見た。
「……疫病神」
「何?」
 振り返った秋野は怪訝そうな顔で問い返す。春めいた陽射しに瞳の薄茶が金に溶け、黒い瞳孔が際立った。笑みの形に歪んだ唇。目を眇めて煙草を吸う、それを挟む長い指。
 唇の隙間に牙が、指の先には鉤爪が。どこからどう見てもにやついた虎に見える。それは自分自身の内なる恐れの投影かも知れないし、雛人形の呪いが見せる白昼夢かも知れなかった。
「なあ、哲」
 哲の顔をじっと眺め、秋野は足を止めると哲を見下ろした。長い前髪が風に吹かれて眼にかかり、隙間から覗く視線を一瞬翳らせる。行き過ぎる女が秋野をちょっと振り返った。
「何だよ」
「輪島さんの知り合いの焼肉屋がオープンするらしくて、サクラで来いって言われてるんだ。お前今日バイト休みだろう? 付き合えよ。手塚と耀司も来るから」
「サクラ、ねぇ」
 今の思考にかけたかのような秋野の台詞に哲は思わず吹き出した。別に面白いわけではないが、サクラと焼肉の取り合わせがどうも風情に欠けること甚だしい。
「別にいいけど」
「それより等身大の雛人形のほうがいいか」
 からかうような声音に目を上げると、秋野は面白そうに目を細めて哲を見た。
「お前、ああいうのが好きか? 何なら今から交渉してやろうか」
「人間は取り扱い商品じゃねえだろ、クソ仕入屋。大体、何か怖くねえか、あれ。確かにいい女だったけどよ」
 哲の返事に片方の眉を上げ、秋野は煙を空に吐き出した。晴れやかな青空がそこだけ霞がかったように紫煙に曇る。
「ちょっとくらっと来なかったか? 正直に言えよ」
 可笑しそうに喉を鳴らし、秋野は哲の脛を蹴っ飛ばす。同じ場所を蹴り返し、哲は秋野の煙草をひったくると吸い込んだ。秋野の歯型のついた煙草の吸い口。その僅かな湿り気に、それこそちょっとくらっと来た。
「まあ、素っ裸で目の前にいりゃ勃つだろうけど、おっかねえのは間に合ってる。女までそんなんじゃやってられねえ」
「その割には見惚れてたけどな」
 返せよ、と掌を差し出す秋野を無視して銜えた煙草を揺らしてみた。立ち昇る細い煙は女の首筋のようにしなやかで、儚げだ。
「そりゃ、綺麗なもんは綺麗だからな。しかし雛人形ってのは言い得て妙だぜ」
「——あれは、隣に立つ男を選ばん女だ。だから雛人形だって言ったんだよ」
 秋野は哲に屈み込み、煙草を銜えていないほうの唇の端に顔を寄せ、低い声で笑いながら囁いた。
「隣を見ない、真正面だけ見てる雛人形だ。横に立つのも悪くないかも知れんぞ? 執着されることもない」
「引っ付くな、鬱陶しいなてめえは」
 掌で顔を押し退けると秋野は可笑しそうに笑い声を立て、哲から一歩距離を取った。
「どこかの女雛の隣に立つなら早くそうしろよ。そしたら俺も楽になれる」
「一生言ってろ、クソ馬鹿虎野郎」
 秋野の唇の間に煙草を無理矢理突っ込んで、返す手の甲で横っ面を張ってやる。大人しく叩かれた秋野はにやりと笑うと煙草を足元に吐き出して、靴底で一息に捻り潰した。
 確かに見惚れた。壊れかけた女の寒気のするような美しさに。
 だからと言って女とどうこうしたいわけではなかったが、ふと感じた暗い欲を、見透かされるのは不愉快だった。哲の反応すら予想して笑う目の前のこの男。こいつを今すぐ八つ裂きにしてやれたら、雛人形のような女とやるより自分は余程感じるだろう。

 花月の空はうす青く、たなびく雲と煙草の煙は花霞のように何かをそっと覆い隠す。壊れた女雛の涼やかな笑い声が、どこかから微かに聞こえた気がした。