2009-2010 年末年始仕入屋錠前屋

 何も年末に当たらなくてもいいんじゃねえか、と自分の身体に文句を垂れつつ、哲は缶を持ち上げビールを飲み干した。
 数年に一遍襲ってくる不眠が、何故か年末も押し迫った今頃やってきたのである。

 どうせなら忙しい忘年会シーズンに来てくれればいいものを、バイト先も年末年始の休みに入ってしまったからすることがない。盆暮れに帰省する実家も親もない哲にとっては大晦日も正月も普段の休日のようなものだ。とはいえ、大抵の日本人にとってその数日は家族や親戚と過ごす数日であるから、誰かを付き合わせることも叶わない。誘う相手も行く場所もないときているのに眠れないのだから一日がやたらと長い。
 仕方なく同じように盆も正月も関係ない男を訪ねてはみたが、別に来たくて来たわけではないから特別楽しくもなかった。苛立ちが指先に表れたのか、煙草の灰を払う哲の手元に視線を落とした秋野が唇の端を曲げて笑った。
「散らかすなよ、灰を」
「うるせえ」
 不機嫌に吐き捨て、哲は液晶のテレビ画面に目を向けた。絢爛豪華な着物をまとった美人がねばっこい女の情念を歌い上げている。テレビのリモコンを取り上げ、勝手にチャンネルを回す。つまらなさそうなバラエティ番組にして音量を下げ、哲はリモコンを秋野の膝の上に放り投げた。
「年末年始の番組ってどうしてこうつまんねえんだかな」
「年末年始以外も同じこと言ってるぞ、お前」
「バラエティ番組ってうるさくねえか。俺には面白さが分かんねえ」
「じゃあさっきの歌番組にしときゃいいだろう」
「つまんねえほうが眠くなるかと思ってよ」
 秋野はちょっと笑い、哲が並べたビールの空き缶を避けてリモコンをテーブルの上に戻した。乱れなく一直線に並べて置いた缶——その気はなかったが秋野との間の壁にも見える——を無造作に両手で掴み上げ、秋野はよっこらせ、と年寄り臭い声とともに腰を上げた。
「ジジイ」
「ガキ」
 手が大きくて指が長いから、片手に三缶くらいは余裕らしい。あっという間に六缶パックの痕跡を持ち去った男は缶を捨てた後台所で何かやっている。
「一年終わりか。早えなあ」
 テレビ画面を見ながら呟いた哲に、背後から秋野の声がかかる。
「そう感じるようになったってことは、お前も年食ったってことだよ」
「実感が籠ってる」
「うるさいよ、いちいち」
「そういやいつかの大晦日もお前んとこ来たっけか」
「そうだったか? そうだったかも知れんな。忘れたよ」
 秋野は氷を入れたボウルとタンカレーの瓶、グラスを持って戻ってきた。銜えたままの煙草の灰が長くなっている。手に持ったものを置くと、哲の前から灰皿を引っ張り寄せて灰を落としながら、もう片方の手で二つのグラスに氷を放りこんだ。
「手は洗ったからな」
「聞いてねえよ」
「何日寝てないんだ?」
「三日。今回は長え」
「一睡もしてないのか」
「それは最初の二晩。昨日は少しうとうとした」
「今日は?」
「眠れる気がしねえ」
 こういう時、もっと酒に弱ければよかったと思う。下手に強いばっかりに飲んでも中々潰れない。秋野もそのへんは分かっているだろうが、それでも睡眠導入剤のつもりなのか、グラスにやたらとたくさんジンを注ぐ。
「まあ、眠らなきゃそのうちぶっ倒れるだろ」
「倒れたくねえんだけど。ちっとも」
「じゃあ寝ろよ」
「眠れねえっつってんだろ」
「ご愁傷様」
「笑うな、ジジイ。まったく。くそったれ」
「今年最後のくそったれ、だな」
「ああ?」
 秋野の視線を追うと、テレビ画面で出演者が騒いでいた。秋野の左手首を掴んで腕時計ごとこちらを向ける。どうやら新しい年になったらしい。
「くそったれ」
「初くそったれ」
「その口閉じてろ、うるせえ奴だな」
 ライターを投げつけたら秋野はさっとかわして屈託なく笑った。
 哲は煙草を灰皿に押し付けて、グラスの酒に口をつけた。子供のように笑った時だけ、秋野の顔は美形に近い端正な作りをしているのだと気付く。普段、この男の顔を見てそんな感想を抱くことはまったくない。新しい年、何よりも最初に考えたのがそんなこととは、今年も先が思いやられた。
「腹減ったな。お前、何か食ってから来たのか?」
「いや」
「じゃあ、何か食いに行くか」
 酒を呷り、煙を吐き出しながらそう言って、秋野は哲が投げつけたライターを拾い上げた。ほんの一瞬、新年という瞬間が来て通り過ぎて行きはしたが、それ以外には数分前と何も変わらないものがそこにあった。
 色が溢れるテレビ画面、秋野の薄い茶色の瞳、煙草の煙、グラスの中の氷にヒビが入る微かな音。
「これから? やってねえだろ、どこも」
「それは日本人の店の話だろ」
 秋野は片眉を上げ、口元を歪めて見せた。
「ああ、そうか」
「腹いっぱいになったら眠くなるかもしれんぞ」
「だったらいいけどな」
 長い前髪が眼にかかり、濃い睫毛が作る影の上を横切った。
 ジンの味がする舌が哲のそれに絡みつく。煙草の苦みと氷の冷たさ。心地いいとは程遠い。

「エスニックは食わねえほうがいいんじゃねえか。沁みるぞ」
 哲はコートを取って立ち上がり、玄関に向かった。秋野はシンクで血を吐き出し、英語でどこかの誰か——多分間違いなく哲——を罵っている。
「おい、さっさとしろ、エロジジイ」
「まったく、手加減しろよな。寝不足のくせに」
「お前相手にか。寝不足関係ねえし」
 秋野が部屋のドアに鍵をかける。錠前の閉まる音を聞きながら、哲は何となく秋野の顔を見た。
 開けっ放しになったドアの向こう側、更なる施錠されたドアを見せ、開けてみせろと誘う男を。
「何だ」
 腹を空かした虎のようににたりと笑う秋野の脛を蹴っ飛ばし、哲はアパートの階段を下り始めた。
「何でもねえ」
「何だよ」
 楽しげな声が頭の上から降ってくる。
「何食うんだ」
「何がいい?」
「激辛チゲ鍋」
「蹴り落とすぞ、錠前屋」
「死ね、クソ虎」

 眠れなくとも、別に何も問題ない。