グリル・パルツァー的キスお題8 8

8. その他に狂気のキス

「そういえば、おばちゃん駆除したぜ」
 弘瀬は自分の身体に腕を回し、寒い寒いと言う間に思い出したようにそう言った。
 吹き付ける風が電信柱に括り付けられたタテカンを揺さぶって、物寂しげな音を鳴らす。気温の低下はそれほどでもないのに、乾燥した風が切りつけるように冷たくて、惨めったらしい気分になった。
 煙草に火を点けようとして何度か風に吹き消され、ようやく赤い光が灯る。暖を取れるとは間違っても言えない小さな熱が、しかし妙に心強かった。
「おばちゃんて?」
「ほら、あのビルのエレベーターの。あんたを触ったおばちゃん」
「ああ……」
「それにしても冷えるなあ。お前の錠前屋は遅くねえか」
「俺のじゃないし、遅くない。俺たちが早いんだよ」
「あ、そう」
「で、おばちゃんはどうやって駆除したんだ」
「触られたから、俺はホモだって言ってやった。いや、バイだぜ、本当は。でもそこはまあ、おばちゃんには関係ねえし」
「……」
 ここで待とうと言ったのは弘瀬である。
 自分で言い出した割に弘瀬は薄着で、どう見ても寒そうだった。しかし、本人がいいというのだから気遣ってやる義理はない。
 襟元を大きく開けたシャツから覗く首筋が寒々しい。厚手とはいえくたびれたカウチンセーターが、だらしないとは言わないまでもさえない雰囲気に拍車をかける。伸びすぎ、褪色した茶色の前髪が吊り上った目を半ば隠しているせいもあり、普段は男女問わずそれなりにもてる男には到底見えない弘瀬だった。
「ショックだったみてえよ。なんか暗い顔して降りてってよ、それから現れねえの」
「たまには世のためになるんだな、お前も」
「うん、まあ、たまにはなあ。悪行の前の善行っつーか」
 秋野の顔を下から見上げ、弘瀬はへらりと口元を緩ませる。
 こんな夜中に弘瀬と二人、寒空の下突っ立っているには訳がある。弘瀬の仕事で、哲が解錠を頼まれたからだった。哲は別に付き添いがいるわけでもないだろうが、弘瀬が二人でというのだから仕方がない。用があるのかと訊いてみたら、顔が見たいだけだと本気か冗談か分からないことを言っていた。
 薄暗い街灯が照らす路地の先には古い倉庫が何棟も立っている。殆どは食品流通の会社が一時的に荷を置いているらしく、駐車場には同じロゴマークの入ったトラックが何台か駐車されていた。弘瀬が何のためにそこを使うかは知る必要がないから分からない。
 秋野は隣で風に文句を言っている弘瀬を横目で眺め、それにしても緊張感がないなと独りごちた。
「あー、来た来た」
 寒さに首を竦めながら、弘瀬がおおい、と気の抜けた声を出す。暗がりから現れた哲は震えながら立つ男二人を胡乱な者を見る目つきで眺め、銜え煙草で鼻から盛大に煙を吐いた。
「でけえのが二頭、鬱陶しいったらねえな」
「相変わらずだなあ、あんた。ところで髪切った?」
「見りゃ分かるだろうが」
「相変わらず可愛いなあ」
 弘瀬は哲の頭に手を伸ばす。哲は素早く手を避けて、これ以上ないくらい嫌そうな顔をした。銜えていた煙草を手に取り、一口吸いつけて煙を吐く。さっさと案内しろと低く言いながら、哲は弘瀬を振り返った。

 外側のシャッターは簡単に開いた。哲が言うには、一般家庭の車庫についているものなどは、揺さぶっていれば鍵がなくても開いたりするらしい。物騒なことだと弘瀬が言い、秋野もなんとなく頷き返す。
 倉庫の入り口は、トラックがそのままバックで入ることが出来るようになっているようだった。シャッターを開けたところは、荷の積み下ろしのためのスペースである。両脇には空の木箱や発泡スチロールの箱が山と積み上げてあった。スペースの真ん中を抜け、内部に入るドアへ向かう。ドアには南京錠が二つかかっていたが、哲はまず一つ、まるで鍵などかかっていないかのように簡単に取り外した。
「おお、流石だなあ、お見事」
「南京錠で褒められても自慢になんねえよ」
 哲は俯いて二つ目の南京錠を外しながら無愛想に呟く。弘瀬が哲のうなじを眺めている、その視線を何となく追い、秋野は不意におかしくなった。
 哲を恋愛の対象として見る男性と会うことは殆どない。哲自身にそういう嗜好がないからで、秋野が知る限り高校の同級生と弘瀬、この二人だけのはずである。伊藤とかいう青年は、哲をどうにかするにはまともすぎていたように思う。その点弘瀬は、膂力では哲に勝るし、その気になれば互角に殴り合いくらい出来る男だ。
 傍から見ている分には他人の受難はなかなか面白い。別に進んで哲を手放したいとは思っていないが、哲との関係が恋愛とは言えないだけに、こういう時には嫉妬するでも焦るでもなく面白がってしまう自分がいるのである。
 南京錠を外し、ドアの鍵に手を掛けた哲の背後。弘瀬が悪戯心を押さえられなかったのか、屈んで首筋に唇を寄せた。
 物凄い速さで後ろに振り抜かれた哲のバックブローが弘瀬の額の真ん中を直撃し、弘瀬は床にひっくり返った。哲は転がった弘瀬を冷たい視線で一瞥し、ドアに向き直る。シリンダーの回る音がして、鍵が開いた。
 哲は振り返り、突っ立つ秋野を睨みつけて鼻を鳴らす。額を押さえて呻く弘瀬を跨ぎ越え、哲はさっさといなくなった。

 

「……割れる…………」
 掌で額を押さえ、弘瀬は情けない声を出した。冷たいリノリウムの床に尻をついたまま涙目になって痛みを堪える姿は、まるで悪ふざけを叱られた子供だ。
 これからどんな仕事をするのか知らないが、弘瀬という人間に、秋野は好意以外の何も持ってはいない。思わず漏れた秋野の笑いに拗ねたような視線を向けて、弘瀬は小さく舌打ちした。
「馬鹿、だから迂闊に手を出すなって言ったろうが。大丈夫か」
「大丈夫じゃない、痛えよ。しかしあのくらいでこれは、きつすぎやしねえか」
「相手が俺ならもっと容赦ないぞ、あれは」
「キスひとつでこれかよ。まったく、あんたも物好きだな」
 尻を払って立ち上がり、弘瀬はぶるりと頭を振った。伸びた前髪が、弘瀬のきつい目元を覆う。
「あんなんで、抱けんの」
「ああ」
「最後まで辿りつくのに何時間かかるんだか」
「そんなこともない。やってる間中ぎゃあぎゃあ喚いて煩いけどな、悪くない」
「うなじにキスひとつで裏拳だぜ? 他にどこにキス出来るっての」
 窓の外を通り抜ける突風が、シャッターを揺らす。金属の軋みが、哲の不機嫌な唸りのように耳の中に何度も響いた。
「やろうと思えばどこにでも出来るさ」
「手とか首とか唇とか?」
「爪先から頭の天辺、どこでもだ」
 弘瀬が肩を竦め、ふうん、と低い声を漏らした。秋野は哲が放り出した南京錠を袖口で摘み上げ、積んであった箱の上にそっと置く。前髪の間から秋野の手元を見つめる弘瀬の目つきは、相変わらずの呑気さだった。
「怒ったか?」
「何が。さっきのか? 別に。好きにすりゃいい」
「変な関係だな」
「自分でもそう思う」
 手を上げ、秋野は弘瀬に背を向けた。シャッターの隙間をくぐり、夜気の中へ出る。吸い込む息の冷たさに、思わず身体が硬くなった。冷たい空気が喉を通り、肺に達するのがよく分かった。吐き出す息はまるで煙草の煙のように白く、それなのに何故か温かそうに見えた。
 煙草を銜え、何の気なしに前方に向けた視線の先に哲が居た。いつもと変わらない仏頂面は、短くした髪のせいかどこか幼く、尖って見える。昔のヤンキー座りというやつでしゃがみこみ、伸ばした腕の先、右手に挟んだ煙草は今火を点けたばかりという長さ。足元に転がる二本の吸殻が、風に吹かれて左右に揺れる。
「どうにもなんねえな、弘瀬ってのは」
 地面を見つめたまま哲は言い、煙草を口元に運んで煙を吐き出した。最前自分が吐いた息のように白く、呼気よりはどこか人工的な煙が暗がりのなかにゆるりと流れ、渦を巻く。
 横に立っても、哲は視線を上げなかった。屈み込み、弘瀬と同じ場所に口付ける。バックブローは飛んで来ず、離れ際に舐め上げても哲は舌打ちしただけだった。

 弘瀬への言葉どおり、哲の身体の至るところに唇を寄せ、舐め、噛みながらふと思う。
 確かにおかしな関係だ。他人に是非を問うまでもない。間違っているのは明白で、だが、だから何だと言い切れる。
 哲の瞼に、額に、頬に、首から腕に。口汚く秋野を罵る唇に、殴りかかる手の甲に、無理矢理開かせて掌に。どこにしてもキスはキスだ。意味などない。
 咀嚼するかのように相手の舌を貪る行為が、食いたいという願望と無縁だとは思えない。愛情のキス、親愛のキス、意味などどうせ後付けだ。自分と哲のこの関係も。
「狂気の沙汰だな」
「何が」
 荒い息をつきながら、哲が問う。膝が秋野の鳩尾を押し上げる。隙あらば攻撃しようとする右手を押さえつけ、秋野は哲に顔を寄せた。
「こういうことが」
「正気でやってんじゃねえのか、てめえは」
「ああ、正気だよ」
「…………」
「だから、狂気の沙汰だって言ってるんだ」

 今この瞬間、弘瀬は誰かの命を奪ったか。
 哲の頭を抱きながら、一瞬脳裏を赤い夕陽の色が染める。切れた哲の唇は、金気臭い血の味がした。