グリル・パルツァー的キスお題8 5-7

5. 瞼の上に憧憬のキス

 そうそう、秋野ってさあ、昔からこうやって格好よくって。
 女たちは声を上げて笑い、秋野に思い思いの一瞥をくれる。
 それは、多少恨みがましい視線だったり、共犯者めいた色っぽい笑みだったり、憧れめいたものだったり。
 全然変わらない。
 女たちは笑う。

 秋野がほんの短い間バーテンダーをやったという店は、耀司の父親、尾山が経営する店ではない。ただ、知人がオーナーであり、それで秋野はそこに一時勤務したのだとか。
 何でも学べと、短期間ずつ経理からホールスタッフ、バーテンダーから店長、様々なことをやらされたとは秋野の話だ。
 若いお姉ちゃんの体を売りにした店とは違い、ホステスはみな長いから三十代が多い。酒も値が張り、場所代も安くない。簡単に寝てくれる女は一人もいないが、誰もが美貌と利発さを併せ持って、侍らせるだけでステータスを得ることが出来る、そんな店なのだという。
 なるほど、店内はマホガニーと上品な緑色で統一され、ところどころに入った黒が全体を引き締める。バーテンダーとしての腕前の程はともかく、一張羅を着込んだ秋野を突っ立たせておけば、それだけで調度品の一部のように溶け込むだろう。
 欧米を意識したデザインは、ここが日本であることすら忘れそうな雰囲気だった。
 赤いチェックのシャツに破れたジーンズ、ファーつきの黒いダウンジャケットという適当な格好の自分がいかにここに似合わないかは誰に聞くまでもないが、と哲は秋野の顔を一瞥した。
 秋野が表面上はともかく、浮かない気分でいるらしいことが解せなかった。仕事で訪れた閉店後の店には客もいないし、秋野を煩わせるほどねっとりとした視線を送ってくる女もいない。
 首を傾げる哲を横目で見て、秋野は僅かに頬を歪ませた。

 

「ハーフだって説明してたんだ」
 上着を放り投げ、ソファにだらしなく腰を下ろして秋野は溜息と台詞を一緒くたに吐き出した。
「面倒だから。アメリカと日本のハーフ。外見的にはそっちのほうが近いからな」
「あの店で?」
「ああ。オーナーはちゃんと知ってたんだがね。当時はカラーコンタクトも今みたいによくなくて、装用時間が短くて」
 秋野の部屋は肌寒かった。哲がそう感じるのだから秋野は結構寒いだろう。それなのに上着を早々に脱いだ秋野は、その薄い色の目をこちらに向けた。
「哲、来いよ」
「……面倒くせえ。命令されんのも気にくわねえ」
「そう言うなよ」
 ここのところ秋野は仕事が忙しかったのか姿を見せず、家も空けていたようで、会うのはほぼ一ヶ月ぶりだった。
 部屋の中がやけに冷えているのはそのせいか。連れて行かなくてもいい仕事に哲を誘った理由はそれだろう。多分、自分がここにいるわけも。
「あそこにいる間、ずっと外国人扱いされて、結構面倒でな。目の色を絶えず褒められるのも嫌だった」
「自分の目の色、好きじゃねえって言ってたな、そういや」
「来いよ、哲」
 掠れた低い声に仄見える疲れは、演技なのか。分からないまま、哲は数歩近づき、秋野の前に立つ。
 秋野は酷くゆっくり腕を伸ばして哲の腰を抱き、脚の間まで引き寄せた。すかさず脛を蹴飛ばすと、腰を抱く手に力が篭る。
「腹減ったな」
 哲はそう言いながら秋野の瞼に唇を寄せた。うなじを乱暴に掴んで引き寄せ、もう片方の手で腰から尻を這う掌を払い除けた。唇を瞼に押し当て、薄い皮膚越しにゆっくりと舌の先でカーブを辿る。
「——食うなよ」
 前にも同じようなやり取りをしたことを思い出す。ただ、場面は思い出せなかった。
「食いてえな」
「目玉をか」
 呆れたような秋野の声に、哲は喉の奥を鳴らして低く答えた。
「色が綺麗だから、美味いんじゃねえの」
「鍋に入ってる魚の目玉じゃないんだぞ、哲」
 秋野が頭を引き、顔を離した。頭を軽く揺すって、長い前髪を後ろに払う。目にかかっていた前髪がなくなって、何ともいえない色の双眸が露になった。
 薄茶、黄色、金色、鳶色、琥珀色。どれも当て嵌まるようで当て嵌まらず、当たる光によって色を変える不思議な瞳。
 ただ、その色はあくまでもこのアジアの国では不思議だというだけで、欧米人の間に紛れてしまえば凡庸にもなるはずだった。
「異国への憧憬、ってやつか」
「何が」
 そこだけ漆黒の瞳孔が、哲を真正面から見つめて僅かに収縮する。肉食獣に酷似した瞳を暫し見つめ、哲は秋野の髪をきつく掴んだ。
「お前の目の色、どうやったって外国を連想すっからな。店の人間が自分の憧れを投影したって無理ねえって」
 呟いて、再度瞼の上にキスをした。
 舌先で触れるのではなく舌全体で瞼を舐め上げ、睫毛の一本一本を確かめる。
 秋野の両手がダウンの前から入り込み、シャツとTシャツをジーンズから抜いてたくし上げた。わき腹を撫でるように這い上がる掌の温度は相変わらず高くない。
 目を閉じ瞼に口付けられたまま、秋野はそうか? と短く言う。疑問形ではあるが、訊いてはいない。
 こいつのことだ、答えはどうでもいいに違いない。弱さを平気で見せるくせに、その弱さごと強い傲慢な虎。
「味見させろよ。外国の味がすっかな」
「嫌だね。舐めたら減る」
「減りゃしねえよ」
「減るって。そういう昔話なかったか?」
「知らねえ」
「お前も、ガイジンと同じ眼の色に何かを投影するのかね」
 舌の上、瞼越しに秋野の眼球の動きを感じる。目頭と鼻の間の窪みに口付けて、鼻筋を舐めた。そのまま舌を這わせ、唇に辿り着く。噛み付くように口付けられ、瞼の裏が赤く染まる。
「……何も」
 唇の隙間からようやく声を押し出した。
「ふうん」
「でも色は好きだ」
 背中に直接触れる秋野の皮膚の感触に、身体中の毛穴が開く気がする。掌が背骨の脇の筋肉を確かめるように上っていく。着たままのダウンの表地のナイロンが、独特の衣擦れの音を立てる。
「見てると舐めてみたくなるのは嘘じゃねえぞ」
「目玉じゃなくて他のところにしてくれんか」
 秋野が言葉を紡ぐたび、触れ合う唇がぞわりと背筋に悪寒をもたらし、哲は僅かに眉をひそめた。
「いいぜ」
 ゆっくりと瞼が開き、異国への憧憬を呼び起こす薄茶の瞳が至近距離で面白がるように瞬いた。
 誰かが抱く憧れが、必ずしも歓迎すべきものにはなるとは限らない。
 自らの目玉の色に辟易し、どこに属すか分からない悲しみを抱えた男に、他人の勝手な思いなど迷惑もいいところだったのだろう。
「目玉でなけりゃ、どこがいい」
「……何だよ、一ヶ月ぶりだからサービスか? 錠前屋」
 喉の奥で低く笑い、秋野は哲を抱き寄せた。胴体に絡まる腕の力の強さに舌打ちしつつ、哲は間近の薄茶を覗き込む。
 細められた目だけで笑い、腰を屈めた秋野が哲のわき腹に歯を立てた。傷つけられて興奮する趣味はない。だが、噛まれる度に息が上がる。
 哲は、ベルトにかかる秋野の長い指をぼんやり眺めた。
 長い睫毛、整った眉、濃くはないのに彫りの深い鋭い造作。
 姿形は端正、という言葉が似合う。だからと言って、そんなところに惹かれはしないし、綺麗な色の目にも憧れはない。

 それとも、知らずどこかで憧れているのだろうか。
 強さに、獰猛さに、性質の悪さに、その弱さに。

 秋野という存在そのものに。

 

 哲のジーンズのボタンを外し、ジッパーに手をかけながら、秋野はしゃがれた声で囁いた。
「憧れなんか要らんよ。そんなのただの感傷だ」
 またしても、頭の中を覗かれたような不快感。鳩尾を這う舌の感触に身震いし、秋野の髪に指を差し込みきつく掴んだ。痛かったのか僅かに眉を寄せ、秋野は薄茶の目を上げる。哲の視線を絡め取り、唇の端を歪ませて低く呟く。
「俺もお前のそういう目が好きだが、憧れはしないな」
 哲が自分から床に落としたダウンがばさり、と音を立てる。
「泣いて勘弁してくれって、言わせたくなる」
「……くそったれサド野郎。誰が言うか」
「そうか?」
「言わねえよ馬鹿」
「——まあ見てろ」
 遠い異国の黄昏のように沈む色に、血が騒ぐ。

 

6. 掌の上に懇願のキス

「寿司好きか」
「好きだけど、何で」
「食いに行くか」
 陰鬱な空だった。
 今にも雨が落ちそうな黒い雲はグラデーションを描いて空を染め、風に含まれる湿気が髪に纏わりつく。汗をかいているわけでもないのに服が肌に貼りつくような感触は、冷や汗をかくような危険な仕事の最中を思わせた。
 突然寿司と言い出した秋野の表情は空模様と大差なく、愁眉、という単語がぴったりという具合だ。しかし愁眉だけでなく秀眉、という言葉もこいつには合っているかと思いながら、哲はその不機嫌そうな顔を見上げて首を捻る。
「まわるやつ?」
「回らないやつ」
 誘っている割には断って欲しそうな不機嫌さだ。普段傍にいなければ分かり難いかも知れないものを読み取って、哲は敢えて頷いた。
 実は寿司などどうでもいいが、来てほしくなさそうにしていたら行きたくなるのが人情というものだ。哲の顔を忌々しげに見下ろすと、秋野は舌打ちして煙草を銜える。灰色の空を背景に、黄色い目の色と煙草の穂先の赤が鮮やかに網膜に焼きついた。

 

 寿司屋はこぢんまりした構えではあるが、改築したばかりということで小奇麗だった。柔らかな照明が灯った広い店内は、清潔そうだ。真新しい白木のカウンターにはまだ殆ど傷がない。
 カウンターは埋まっていて、秋野と哲は通路の奥、襖で仕切られた小上がりに通された。何色と呼べばいいのか、くすんだ薄紫の着物を着た結構な美人に案内され、まだ青い畳の上の座布団に腰を落ち着ける。
「誰か来んのか」
 哲の問いに、秋野は相変わらずの不機嫌さで何も言わずに頷いた。
 予約が入っているようだったが、カウンター席ではないという。どう考えても二人ではないというのは明白なのだが、秋野は連れについても何も触れず、仏頂面で煙草をふかしているばかりだった。
「おっかねえ顔」
「悪かったな」
 ようやく吐き出された声は低く、流石に腕の皮膚が粟立つ。天井の隅を見つめて眇められていた秋野の目が不意にこちらを向き上から下まで見られたが、文句を言うのも憚られて黙っていた。
 こういう顔をしている時の秋野は本当におっかない、というのが哲の偽らざる本心だ。恐怖を感じるわけではないが、喉から胃に冷たい手を突っ込まれたような気持ちになる。黙っていると視線は自然に逸れていき、煙草の煙と同じ方向に流れて逃げていく。
 秋野は深い息を吐き、壁際の白い花が活けられた花瓶に目を向けたまま口を開いた。
「去年のクリスマスに行ったバーがあっただろう」
「は?」
「知り合いがオーナーだっていう。お前バーテンダーと相撲の話してなかったか」
「ああ、パーティーだかなんだかあったところな。あそこがどうかしたのか」
「あの店のオーナーと仕事の話がある。ついでにお前の顔も見たいって言うんで」
 確かあの日は頭の天辺しか見えなかったオーナーが何者なのか、結局哲は知らされていなかった。
「俺に何の用だよ」
「知らん。大体」
 秋野の声に被せるように、着物の女の声がした。秋野が言いかけた言葉を飲み込んでどうぞ、と呟く。襖が開いて女の柔和な笑顔が覗き、更に広げられた空間から長身の男が個室に入ってきた。
「すまんな、待たせて」
 驚くほど秋野に似た雰囲気のその男はそう言って僅かに笑い、ゆっくりと視線を哲に向けた。

 

 要するに、あの時見逃した哲を見物に来た、とそういうことらしい。
 三科善行という男が秋野の知り合いで、ミユキ・フーズという企業の社長だということは分かったし、秋野とは似たようなタイプだからか反発するらしいというのも見ていて分かった。
 それにしても秋野の周囲には何故こういう手合いが多いのか。
 レイとかいう調査員にしても手塚あたりにしても、目の前でいかにも余所行きの笑顔を披露している三科というこの男も、結局哲をネタに秋野をいじりたいだけなのだろう。
 このろくでもない仕入屋に普段それだけ弱味がないということなのか、確かに哲が思い付く弱点は昔の女とその娘くらいのものだ。流石にそこを突くのは地雷原で暴れるようなものだということには、誰でも思い至るに違いない。
 大して突っ込んだ質問もしない三科は、あくまでも行儀がいい。世間話とともに上品に握られた寿司をつまむ。
 そうして暫く経った頃、秋野がちょっと、と哲の肩を叩いて促した。
 三科は眉を上げて秋野を見たが、秋野は三科を見ずに襖を開けて通路に出る。背中に当たる三科の視線を、秋野が閉めた襖が遮った。
「何だよ」
 通路の奥に引っ張っていかれ、体育館裏に呼び出された学生の気分になる。
「あいつももう気が済んだろう。お前、このまま帰れ」
 幾ら寿司が美味くてもこの場にい続けたいとは思わないから哲としては構わなかった。ただ、何故秋野がそこまで嫌がるのかはよく分からない。
「別にいいけどよ」
「じゃあ帰れよ」
「お前さあ」
 秋野の長身の向こう、かぎの手に曲がった通路の先から、微かに人の気配が伝わってくる。真新しい建材の微かな匂いと柔らかな明かりが穏やかにあたりを包んでいる。
「帰れ帰れって言われたら帰りたくなくなるのが人間ってもんだと思わねえ? 何か知らねえけど、俺が邪魔ならはっきり言えよ。別に俺だって居たくて居るわけじゃねえんだしよ」
 秋野は口を噤み、不機嫌な顔で哲を見下ろした。絞られた照明が秋野の顔に淡い影を落とす。
「居たくないならどうでもいいだろう」
「そういうことじゃねえって分かってんだろ。俺だって釈然としねえんだっつーの」
 秋野は今日は不機嫌に寄りっぱなしの眉を更に寄せ、哲の左手首をゆっくり握った。
 振りほどこうと思えば簡単に振りほどける、そんな力の入れ具合に逆に戸惑って、掴まれた手首が自分のものではないように黙って見つめる。
 もう片方の秋野の手が、哲の肩を軽く押す。背後の壁に背中を押し付けられ、左腕を壁に沿って持ち上げられた。
「理由が聞きたいか?」
 いきなり強くなった手首を握る秋野の力に辟易しつつ、視線を上げた。
 三科は一人で大人しく食っているのか。
 実際は個室を出てからほんの何十秒かに過ぎないこの時間が、酷く長く感じられるのは何故だろう。
「あいつと俺と、似てると思うか」
「ああ。顔は似てるわけじゃねえけど、雰囲気そっくりだぜ」
 確かに、印象は秋野によく似ていた。顔の造作はまったく異なるが、目つきや物言い、佇まいに同じものが匂うのだ。
「……だから嫌なんだ」
「何が」
 丁度顔の横辺りで壁に押し付けられた手の甲が、ひりひりと痛む。
 秋野の体が近付いて、視界が薄暗い影に覆われた。哲の掌に押し当てられた秋野の唇が、触れながら言葉を紡ぐ。
「あいつと俺が一緒にいるところにはいて欲しくない」
 砂壁を模した壁紙に手の甲の皮膚が擦れる。微かな呼気と唇の薄い皮膚の感触が、掌をくすぐった。指先に触れる秋野の前髪の先が、秋野が言葉を発するたびに微かに揺れた。
「頼むから」
 囁いた秋野の唇が、掌からゆっくりと離れていった。同時に手首を握る力も弱くなって、指が解ける。大股に一歩下がり、秋野はすぐに哲に背を向けた。

 秋野の背中が消えた襖の向こう、三科の横顔がちらりと見える。一瞬で閉ざされた細い隙間から、秋野によく似た、唇の端を曲げる三科の笑みがはっきり見えた。

 

 結局雨は降らなかった。冷たく湿った空気が鬱陶しい夜道を、どこか腹立たしい気持ちを抱えて歩く。
 確かにあの二人は似ているが、似ているというだけで同じものとして括りはしない。
 それとも、比較されることが気に食わないとでも言いたいのか。
 辿り着いた自分の部屋、靴を脱ぎながら哲は思わずひとりごちた。
「——わけのわかんねえとこで弱気になりやがる。何だあれは」
 テーブルの上に一本だけ転がっていた煙草を取り上げて銜え、火を点けかけて哲は思わずそれを吐き出した。
 床に転がった煙草を眺め、悪態とともにテーブルの端を蹴り上げる。

 秋野の懇願に動揺している自分こそ、一体何だ。
 哲は唸りながら髪を掻き毟る。
 煙草を逆さに銜えたのは、多分人生で今日が初めてだ。

 

7. 腕と首に欲望のキス

 男三人並んで銭湯など、正直言って何の楽しみもない。哲はげんなりしつつ、脱衣所の籠の中にTシャツを放り込んだ。

 秋野と仕事の話をしながら定食屋で麻婆豆腐を食べ、煙草をゆっくり二本吸った。じゃあな、と手を上げたそこに仙田が通りかかったのは単なる偶然に過ぎない。
 寒いね、と仙田が言ったのが挨拶なら、そうだな、と秋野が返したのも単なる挨拶。
「こういう日はお風呂入って早く寝るに限るねー」
「かもな」
「仕入屋さん、背おっきいから、お風呂からはみ出るんじゃない?」
「だからたまに銭湯に行くんだよ」
 仙田がいいなあと大きな溜息を吐く。深く長い溜息に、秋野は仙田の向こうから哲を見て、薄茶の目をしばたたいた。

 仙田の刺青が腕だけでないとは、秋野も哲も与り知らぬことであった。
 青みがかった紫色の蔦模様は、仙田の肩から胸、腹、左の太腿の途中まで這っているらしい。仙田は明からにヤクザではないが、それだけの彫り物を背負っていれば、銭湯も温泉も入れないはずだ。
 入り口に刺青の方の入湯お断り、の注意書きを出していないところは最早ないと言ってもいい。しかし、秋野がまつ乃湯にはその類の注意がなかったと言い出したのだ。
 仙田に無理矢理引っ張られ、帰途につくはずの哲までまつ乃湯に連れて行かれた。相変わらず客の姿がないまつ乃湯は、それでもきちんと営業している。
 相変わらず秋野をオギノさんだと思っている老婆は、満面の笑みで仙田を迎えた。
「いいんですよ、いつでも来て頂いてねえ、ええ」
「本当ですか!? あの、でも俺結構な面積スミ入っちゃってますが……」
「何もねえ、ヤクザさんだからって、周りに迷惑かけなかったらお風呂くらいね」
「いや、あの、俺ヤクザじゃないんですけど」
「ねえ、オギノさん」
 お客さんもそんなに来ませんから、という彼女の言葉に、仙田はすっかりご機嫌だった。タオルは貸すから入っていきなさいと、ばあさんは親切にも余計なことを言う。そういうわけで、はしゃいで一緒に入っていこうよと騒ぐ仙田を振り切れず、今に至るのだ。

 

「それにしてもすっげえな。仙田、おい、ちょっと見せろ」
「うわーやだあ、恥ずかしいからそんなまじまじと見ないでよっ」
「てめえの股の間なんか見たくもねえわ。そうじゃなくて刺青だっつーの」
「あれ、そうなの?」
「阿呆」
 今時そこいらのヤクザでもこれだけ彫っているのはいないのではないか。
 感心して眺める哲に妙に照れる仙田を一瞥し、秋野は呆れた顔をして通り過ぎた。哲も仙田もどうでもいいらしく、さっさと洗い場に行ってシャワーの栓を捻っている。
 今日は今にも倒れそうな年寄りもいない。完全に貸切状態で、本当にどうやって営業しているのかと哲は毎度抱く疑問に首を傾げた。
「うわーうわー何年ぶりだろうっ」
 仙田は嬉しそうに言い、秋野の隣の洗い場にいそいそと腰掛けた。秋野は横目で仙田を見て一度は顔をしかめたが、思わずと言ったふうに苦笑した。
「はしゃぎすぎて転ぶなよ」
「子供じゃないんだから! うわー仕入屋さん細いのに腹割れてる。錠前屋さんも割れてるけど」
 まるで小学生だ。
 哲はシャワーで身体を流し、湯船に腰を下ろして肩まで浸かった。
 まつ乃湯の湯は、年寄り客が多いせいか、それとも湯を沸かすボイラー代の節約か、かなり温めだ。だが、それが却って具合がいい。
 冷えた指先に流れる血流を感じて手を握り、また開く。仙田と秋野の背中が湯気の向こうに滲んで見える。
「ねえねえ、つかぬことをお伺いしますが」
 左右を見回し、身体を擦りながら仙田は秋野に顔を向けた。ほかに誰もいない銭湯は、やたらと声が反響し、少し離れた哲のところまでしっかりと声が届いた。立ち上る湯気に洗い場の鏡が曇り、秋野が目の前の鏡にシャワーの湯をかけた。
「何だ」
「あの、お二人は、お互いが真っ裸ですぐそこにいるのにどうしてそんな平常心なんですか」
「色気を感じないから、に決まってるだろう」
 水をかけられた鏡越しに、そう返答する秋野と目が合った。一瞬眇められた黄色い瞳が獰猛な色を帯び、ゆっくりと逸らされる。秋野は視線の動きを隠そうともせず、仙田が肩越しに哲を振り返る。
「えー。だってさあ」
「別に一日中全裸で目の前うろつかれても同じだ。男の身体見て興奮する趣味はない」
「そうなの? 何か変じゃない、それって」
「何がだよ」
「そんならどうして二人はそういう関係なのさー」
「さあね」
 にやにやしながら仙田の刺青の肩を叩き、秋野は頭を洗い始めた。仙田が何やら文句を言いながら再度哲を振り返り、秋野をそっと指差した。声を出さず、身振りと目つきでシャワーで水をかけてやろうか、と伝えてくる。
 やっちまえ、と声に出さずに言ってみたが、仙田は結局笑うだけで、本当に水をかけはしなかった。

 

 今度は葛木と来よう、と嬉しそうに言い、仙田は蒸したての饅頭のようにほかほかになって帰って行った。
 秋野と哲は、まつ乃湯からは同じ方向に歩いていくことになる。煙草を銜え、少しの間無言で歩いた。風はそれなりに冷たいが、長風呂をしたせいで寒くはない。哲のアパートの前で秋野は一度足を止め、片方の眉を上げて哲を見た。
 整髪料がすべて落ち、下りた前髪が冷たい夜風に揺れた。

 

「あれだけ刺青入れるってのは」
 大変だろうな、と酒を舐めながら秋野は呟く。確かにあれだけの面積に刺青を入れるというのは、彫師も苦労だろうし、仙田に至ってはかなりの我慢を要したに違いない。
「案外根性あるよな」
「お前も入れてみれば」
「何でよ」
「根性試し」
「意味ねえ」
 テーブルの前に胡坐を掻いた秋野は、冷凍庫から氷を出しかけていた哲を見上げる。グラスを持ったままの右手が哲を手招いた。
「何だよ」
 のこのこ寄っていけば、どうせろくなことをされないに決まっている。おまけに別に近くに居たくもない。哲は秋野から距離を取りつつ冷蔵庫の前を離れ、テーブルを挟んで向かいに腰を下ろした。
 秋野は眉を上げ、次いで口の端を曲げてにやりと笑った。
 反応できない速さでテーブルが蹴飛ばされ、横滑りして斜めに止まる。胸ぐらを掴まれて力任せに引きずり倒され、床で側頭部を強かに打った。
 氷だけが入ったグラスが転げてからからと呑気な音を立て、テーブルの脚にぶつかって止まる音がする。
「刺青入れるならやっぱり腕か? 彫師紹介してやろうか」
「だから要らねえっつってんだろうが! 聞こえねえのかこのクソ馬鹿男!!」
「聞こえてるよ」
 秋野は銜え煙草で、片手にグラスを持ったままだった。余裕綽々、というその様子にむかっ腹が立ち、尻の辺りを思い切り蹴り付ける。痛かったのか僅かに顔をしかめつつ、秋野はにやけた顔を崩さない。
 銭湯で全裸を見ようが、洗い場で擦れ違って体が触れようが、性的な欲求は一切感じなかった。
 仙田がいるからでも、公共の場所だからでもない。そんなものが欲しいわけではないからだ。
 にやにやしながら哲を片手で押さえつけ、煙草をふかす冷静なその顔にこそ、猛烈に欲情するのは一体なぜか。
「腕か、でなきゃ首がいいな」
 どうせ冗談なのは分かっているが、誰が入れるかあんなもん、とつい真面目に答えてしまう。秋野はグラスを床に置き、煙草を哲の口に突っ込むと、四つん這いになって哲に覆い被さった。
 犬が餌を食うように、秋野は哲の首に噛み付くようなキスをした。
「痛え、馬鹿」
 両肘を床に固定され、袖の上から二の腕を強く噛まれる。哲は思わずフィルターを奥歯で噛み締めた。
「——なあ哲、刺青なんか、やっぱり止せ」
「誰も入れるなんて言ってねえ」
「お前の中に入るのは、針じゃなくて俺だけでいい」
「死ね、くそったれ」
 つまらなさすぎて涙が出る。
 底光りする目が哲の視線を絡め取り、にたりと笑う。

 

「死ぬほどいいこと、してやろうか」

 マジで死ね。