一歩近づけば世界が揺れる

「ああ、くそ」
 非常に短く、且つ的確に、哲は自分の気持ちを表現した。
 我ながら自分の文学的才能に惚れ惚れする、と自虐的な冗談を胸のうちだけで呟いて、寝転がったまま手を伸ばしてベッドの下の布の塊を一纏めに拾い上げる。
 起き上がるのも億劫だったが、黙っていても服は勝手に身体に乗ってくれはしない。ベッドの上に起き上がり、目の前に積んだ服の山に手を突っ込んだ。取りあえず今は要らないものと、秋野の衣類は行き先も見ずに放り投げる。下着とジーンズを穿いてシャツだけ羽織ると、残りは後にすることにして煙草を探してその辺を見回したが、そもそもベッドの上に煙草が落ちているはずもなかった。
「秋野」
 明かりのついている向こうの部屋に向けて不機嫌に唸ると、冷蔵庫の開閉の音と人が動く気配がして、入り口に秋野の長い影が立った。
「何」
「煙草」
 見上げる秋野の顔は、哲からはよく見えない。
 秋野の部屋は哲のボロアパートよりは新しいが、それでも築年数はそれなりだ。そのせいか、玄関から居間への戸口の高さは二メートルくらいあるのだが、その他は何故かどこも百八十くらいの高さしかなかった。当然真っ直ぐ立てば秋野の頭はドアの枠に激突することになる。だから今も、僅かに下げた頭とその上の枠に付いた手が秋野の顔に影を作り、表情どころか造作さえも隠していた。
 哲の要求に無言で背を向け、居間へ戻る。戻って来た秋野の手から、煙草の箱とライターが飛んで来た。
「どうも」
 哲の煙草ではなかったが、ニコチンということには変わりない。火をつけて吸い込むと、ぼんやりと掴みどころがなく、それでいて確かに質感のある毒素が肺の血管を侵すのがよく分かった。それはまるで目の前の男のようだと何となく思い、哲は黙ってその場に立ったままの秋野に目を向けた。
 ジーンズはジッパーこそ閉まっているが、ボタンすらかけていないだらしない姿で、前髪はすっかり下りている。裸の上半身に何箇所かついた赤い痣が犬ではなくて人に噛まれた痕だというのが何やら間抜けだ。
 普段、着崩していても結局はきちんとしている秋野しか知らない誰かが見たら恐らく意外に思うだろう。秋野が容易に他人に見せない部分は山ほどあるということに哲が気づいたのは知り合って暫く経ってからだ。今でもすべてを知っているとは思わないし知りたくもないが、意外にものぐさだと言う事は『知っていること』のうちのひとつだろうか。
「腹減ったな」
 哲が頭を掻きながら呟くと、秋野が口元を歪めて笑った気配がした。
「……灰皿」
「——ああ」
 もう一度あちらに引っ込んだ秋野が、灰皿を手にして現れた。流石にガラス製のそれを投げるのは気が引けたのか、秋野はそのまま部屋に踏み込んできた。
 一歩、近づく。
 その一歩ごとに、居間の明かりが遠ざかり、秋野の削げたように肉のない顔の細部が目に入った。薄茶の恐ろしいほど獰猛な目も、歪んだ笑みを刻んだままの唇も。明かりから離れるほどに見えるというのも何やらおかしな話だと、哲はぼんやりと考えた。
 そして一歩近づくごとに視界が揺れるように思わせる何か。
 それは胸の鼓動ではなく、こめかみの血管が脈打つことを想起させる。結局本をただせば同じ血流でありながら、心ではなく本能が送り出すと言ったらいいか。
「ほら」
 秋野は哲の膝の上に灰皿を落とし、哲が灰を払うのを待ってその肩をいきなり押した。馬鹿力で肩を押さえつけながら馬乗りになり、シャツを剥ぐと低く、底意地悪く喉を鳴らして笑いを漏らす。
「俺はもう腹いっぱいだ。降りろ、クソ虎」
 右手の煙草を銜えなおし、哲は秋野の頭を思い切り平手で叩いた。
「そうか? 俺は食い足りない。……ような気もしないでもない」
「いい加減なこと言ってんじゃねえぞ、馬鹿」
 秋野は片眉を上げ、憎らしいほど優しげに笑んで見せる。勿論それはどこまでも嫌がらせの一環でしかない。
「どこまで食い散らかせば気が済むんだ。意地汚ねえ野郎だな」
「さあねえ。俺のせいじゃないよ」
 恐らく哲の嫌がる顔を見たいがためだけにそう嘯く、腹の上の黄色い目をしたろくでなしに、哲は煙を吐きかけた。本当なら唾のひとつも吐いてやりたいところだが、流石に人様の寝台の上だと思い直す。
「一歩近づいたらやりたくなった」
「ああ? てめえは発情期の猫かなんかか。俺はやりたくねえぞ。心の底から、本気でだ」
「まあそう言うな」
「死ね、くそったれ仕入屋が」
「死ぬ前に一回やらせろ」
 哲の煙草を掠め取り、銜えて吸い込みにたりと笑う。薄暗い部屋の中に、煙草の穂先が赤く光った。あえなく揉み消された煙草から上がる煙は暗がりに溶けて判然としないのに、痩せた虎のように残忍に笑う秋野の顔はよく見えた。

 

 哲は力の限り殴り、蹴飛ばして抵抗した。押さえつけられることに我慢がならず、苛立ちのままに吼え、歯を立てて秋野の血を流す。
 それでも結局は抵抗の延長のように身体を重ね、苦痛に喘ぎ、腹の底から秋野を呪った。怒りと不快と苦痛の狭間に吐きそうなほど、感じながら。

 

 一歩近づけば、世界が揺れる。
 狩の太鼓か、開戦を告げる銅鑼の音か。
 耳の奥で、頭蓋の内部で鳴り響く荒々しく低い音が、近づく脅威を叩き潰せと視界を揺らすほどに哲を煽る。
 秋野が、一歩近づくその度に。