キリリク60,000

こんなものを愛とは呼ばない

リクエスト:秋野と哲のいちゃいちゃ

 

 首筋から僧帽筋にかけて、まるで鉄板が入っているようだ。
 秋野は低く呻き声を上げ、自分の頭を強く掴んだ。

 頭痛持ちというわけではないが、極度の緊張にさらされると頭痛が起こる。所謂緊張性頭痛というやつで、それに後頭部の神経痛を併発すると泣きそうな程痛くなる。実際今も子供のように泣けたらどんなにいいかと思いながら、暴れ狂う神経の痛みを何とか宥める方法を模索していたところだった。
「おい? 聞いてんのか、こら」
 携帯電話の向こうの哲は苛立ったような声を出したが、答えようと口を開いただけで眼窩の奥に錐を捻じ込んだような痛みが走った。
「秋野」
 哲が何か言ったが、その声すら頭蓋に刺し込む針のようだ。切ったと言う意識もないまま電話を切ると、よろけながら台所まで立って行き、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出した。市販の鎮痛剤を覚束ない手つきで開封しながら考えるのは頭痛の原因となった仕事の懸案のことばかり。機械的に水と錠剤を流し込みながら、破裂しそうな脳の中に哲のことなど欠片も浮かびはしなかった。

 

「生きてるか、仕入屋」
 哲の声が降って来た時、だから秋野の意識には哲のことはなかったと言ってよく、痛覚ばかりが肥大したおかしな頭で、これは何だと一瞬考える。
「……てつ?」
「多分な。てめえがそう思うならそうじゃねえの」
 訳のわからない返答は、どうでもよさそうな声音でぽとりと意識の中に落ちてきた。
「来たのか——今日は来れないんじゃなかったのか」
 あれからどのくらい経ったのか、秋野は頭を動かさないように目を開いた。ベッドどころか床の上で半ば失神するように寝入ったらしく、右肩が痛む。
「用事は延ばした。お前がでかい仕事の話しながらいきなり電話切るのはあんまり普通じゃねえからな」
「……悪かったな、わざわざ」
 哲は秋野の頭のすぐ上に胡座を掻いていた。覗き込む哲の顔を下から見上げるような格好で、何故かやけに心許ない。
 仕事の後の少し疲れた顔をしているが、哲は普段と変わらなかった。この間輪島のところで立ち回りを演じたときについた傷が、唇の端に薄く消えずに残っている。相変わらずの薄着で、見ているほうが寒そうだが本人は至って平気なのも普段どおり。
「別に。外せねえ用なら来てねえよ。まだ痛えのか」
 そう訊かれて改めて自分の頭を探ってみると、疼くような痛みの芯はまだ頭蓋の真中に居座っており、ちょっとでもつつけば襲い掛かろうと蹲っているのが感じられた。どうやって説明しようかと哲の顔を眺めていたら、哲が僅かに顔をしかめ、舌打ちした。その真意は分からないが、どういうわけだか秋野の頭の中は、瞬間的に熱くなった。

 伸ばした手で後頭部を覆って引き寄せると、さしたる抵抗もなく、哲の体は前に傾く。一瞬殺気のようなものが吹き出たが、何故かそれはすぐに消えた。
 痛みのせいで思うようには出来なかったが、何一つ出来ないというわけでもない。慣れれば痛みが酷くても引き攣りながらも笑えるし、立って歩き、仕事することすら出来るのだから。
 唇を塞いだまま、体を捻って上体を起こす。哲の喉からくぐもった、恐らく汚い罵声が漏れて、薄暗い部屋の空気が切り裂かれた。
 痛む頭。朦朧とする意識に、濡れた舌はどこか心地よく感じられた。ただ単に、喉が渇いていたのかも知れないが。
 秋野は、胡坐の解けた哲の両脚の間に起き上がって膝立ちになった。深く、ゆっくりと唇を合わせる。それが哲の口だと言う実感すら見失ったまま、隅々まで舌でまさぐった。
 どれくらいそうしていたのか、唇を離すと哲が掠れた声で低く唸った。
「おい、痛いんじゃねえのかよ、馬鹿」
「痛いよ。そりゃもう、最悪だ」
「じゃあおとなしくしてろっつーの」
「大人しいだろう、いつもより」
 言いながら舌で哲の前歯を撫でる。哲は嫌そうな顔をして、それでもいつものように手は出ない。
「大して変わんねえよ」
「お前の方がおとなしいか。どうした」
「二日酔いじゃねえ頭痛がどんなもんかは、わかんねえからな」
「そうか」
 自分に分からないものは分からない。だからそれを責めもしないし裁きもしないと言う哲の乾いた潔さ。
 この男を手に入れられるのならどうなってもいいと思う反面、八つ裂きにしたいという思いは一体何なのか。目の前の顔を改めて見つめると、憤懣やるかたない表情で睨まれた。跳ね除けたいのに頭痛に遠慮してできないと言うのなら、自分はそこに付込むまでだ。
 頬に指を這わせても、眉を顰めるだけで文句は出ない。両手で顔を挟んで何度も唇を合わせたが、哲は抵抗しなかった。露骨に迷惑そうな顔をしつつ、それでも舌を入れれば律儀に応え、あま噛みすれば倍の強さで噛んでくる。次第にいつものように深くなる口付けに、秋野の頭の真中で、痛みがどくりと蠢いた。

 

 繋がったまま突然体を入れ替えられて、秋野は目をしばたたいた。
 行為が進むにつれ、輪郭が曖昧になりかけていた痛みがまた実体を持ち始め、反応が鈍っていたのかも知れない。一瞬戸惑った秋野の頭を哲の両手が押さえつけ、噛み付くように口付けられた。言葉通り喰らいつくような激しさでも、頭を固定されているせいか、思いのほか痛みはない。
「哲」
「うるせえ。黙れ」
 短く吐き捨て、角度を変えてまた貪る。舐め合い、噛み合いしているうちに何が頭痛で何が噛まれた痛みなのか、秋野にはまるで分からなくなっていた。
「哲……」
「黙ってろ」
 顔を上げた哲は、いつもと変わらぬ険しい目をこちらに向けた。
「痛えんだろうが。——お前は、動くな」

 腹の上で動く哲の、丸みのない身体。筋肉質の痩せた硬いその身体は、うつくしいとはとても言えない。筋肉の束が皮膚の下で収縮し、秋野の周囲の粘膜も同じように収縮する。
 こんな滑稽で意味のない行為が一体どこにあるのかと自問しながら、それでも沸騰したかのように赤熱する頭を抱え、哲の腰を抱えて呻く。喉笛に喰らいつき力ずくで押さえつけ、自分の下で断末魔の悲鳴を上げさせたいと思いながら、うなじを掴んで上半身を引き寄せた。
 首筋にかかる哲の息。
 鎖骨と肩に触れる哲の前髪。
 耳朶に、首に、手当たり次第衝動のままに噛み付いてくる顎の力。
「——離せ」
 首筋を掴む手を振り払い、哲は再度体を起こす。哲の手が伸び、秋野の髪を荒々しく握り締めた。
「……すげえ顔色してんな」
 言いながら、何を思ったか哲は周りを見渡した。足元に脱ぎ捨てられた服の山から手探りで煙草の箱を見つけ出し一本銜えて火を点けながら、腕を伸ばして灰皿を引き寄せる。人の腹の上に乗ったまま平然と煙を吐き出す哲は、目が合うと酷く凶悪な顔でにやりと笑い、煙草を右手に持ち替えた。

 紫煙と一緒くたに吐き出される、長く尾を引く掠れた息。
 眉を寄せ、煙草を奥歯で噛みながら仰け反りまた戻される時の喉元の線。
「——哲、」
「……うるっせえなあ……話しかけんなっての……」
 こんなものを愛とは呼ばない。
 煙草を吸いながら、悪態を撒き散らしながら、凶暴としか言いようのない目で睨みつけながら、俺に抱かれる男に感じるこの何かを。
 こんなものを愛とは呼べない。呼びたくない。
「なんて奴だよ、まったく……」
「あぁ? 何、が」
「——煙草吸いながらする奴がいるかって。それもお前、やられてる立場で」
「……案外、悪くねえぞ」
「どうしようもないな、お前」
「何だよ、文句あるか。突っ込んでよくなっといてぐだぐだ言うな」
 不機嫌に言い捨てると、哲は歯の間に煙草を銜える。下から突き上げると、前髪を掻き毟って喉を反らす。歯軋りと煙とともに歯の隙間から漏れる唸りの中に、低い声が聞き取れた。
「さっさと……治せ、くそったれ」

 

 血生臭く、蕩けそうなこれは愛ではないが何なのか。ただ、何と呼ぼうと、結局何も変わりはしない。
 痛みの中、ただそれだけが意識の片隅に焼きついた。