2006年 クリスマス仕入屋錠前屋

 甘いものは好きじゃない。

 今目の前に、生クリームが蛇のようにとぐろを巻いたパフェがあるとする。それを食わなければ向こう一ヶ月食うものがないとしたら、そりゃもう喜んで食わせて頂く。ただ、自分から進んで甘いものを口にしようと思ったことは余りないし、金を払うなら尚更だ。

 だから、世の中が赤と緑と金銀一色になる今頃のケーキ屋の前を通ると、女というのは何であんなもんに目の色を変えるのだろうかと心底不思議でならなくなるのだ。一ヶ月も前から予約を勧めるチラシの山、ショーケースの中の見本の数々。ケーキ屋だけでなくファーストフードやコンビニ、スーパーや果てはパン屋まで参加してのヒステリックなクリスマス商戦は、見ているだけで正直腹いっぱいの感がある。
 どうせ今年も一緒に祝う家族や恋人がいるわけでもない。何より祝う意義もよく分からない。いつもと同じ、延々と続く時間のうちたった二十四時間、どこで何をしていようが大した違いはないのだ。

 

 クリスマスイブは今年は日曜で、ちょうどバイト先の定休日に当たる。この日だけは忘年会も少ないし、各々予定もあるのだろう。店主をはじめ従業員も前日はどこか嬉しげだった。哲はといえば特に予定があるわけでもなく、昼近くまで寝て洗濯をし、近くの美味くもない蕎麦屋で遅い昼飯にたぬき蕎麦を食べただけという有様だった。
 クリスマスどころか正月すら来ないのではないかと思わせるこ汚いその蕎麦屋は、たれは不味くないのだが、麺が柔らかくていまいちだった。多分手打ちではなく機械打ち、下手をすれば乾麺だ。分かっていてもたまに来るのは単に部屋から近いからで、別に常連と言うわけでもない。その蕎麦屋で食後にカルキ臭い水を飲んで煙草を吸っていると、秋野から電話が来たのだった。
「お前今日は休みだろう?」
 秋野の声は普段と変わらず、哲は唸るように返事をした。店員なのか店主の母親なのか腰の曲がった婆さんがこちらを向いたが、自分に向けられた声でないと分かるとさっさとプラスチックの観葉植物の葉を拭く仕事に戻る。
「ああ、だから?」
「誰かと予定あるのか」
「ねえよ。だからってお前と楽しいクリスマスイブを過ごす気も俺にはねえ」
 哲の減らず口にもまるで動じない秋野が煙を吐く音がする。
「頭数で、付き合ってくれ」
「何に」
「知り合いの店のプレオープン兼クリスマスパーティー」
「嫌だね」
 哲はさっさと電話を切って立ち上がり、伝票を掴んで立ち上がった。老婆がよたよたとレジに向かう間に尻から財布を出して中身を覗く。今月は仕事が少なく、財布の中身はいささか心許ないが、ある程度の金は流石に口座に置いてあるし、年末年始だからと言って特に物入りなわけでもない独り者の気安さだった。それでもどこかしけた気持ちで不味い蕎麦に六百円を払って店を出ると、薄茶の目をした人食い虎——平素は猫と狼と優男の皮を被っている——がつまらなさそうな顔で立っていた。
「人が話してるのに電話を切るなよ」
「人のこと言えねえだろうが、てめえは。耀司と自分の胸に聞いてみるんだな」
 吐き捨てた哲を眺め、秋野は口の端を曲げて笑った。

 

 店の真ん中に立つ真っ白いツリーには寒色で統一された飾りがセンス良くぶらさがり、客もそれに合わせてか洒落た格好の奴らが多かった。結局タダ酒と後日の晩飯一回で強引につき合わされ、哲はカウンターの隅で上等な酒を舐めていた。
 出てくるものはどれも高価で、別段不満もないが別に楽しいこともない。部屋にいても寝転がって同じことをしているのだから別にいいが、秋野に丸め込まれたと思うと不愉快ではある。
「景気の悪い顔するんじゃないよ」
 秋野は可笑しそうに目を細めると、哲の銜えた煙草を取って一口吸い込み、また哲の唇の間に押し込んできた。
「勝手に吸うな」
「宜しければその煙草を一口吸わせて頂けませんか」
「遅えよ」
「そうか」
 秋野が笑いながら自分の煙草を取り出し、銜えて火を点ける。カウンターの向こうにいたバーテンダーが灰皿を持ってやって来ると、カウンターに置いてまた戻っていった。哲は中年のバーテンダーから目を逸らし、肩越しに背後に目をやった。
 店にはカウンターと、本来ならそれなりの数のテーブル席があるようで、今は席数以上の人間がひしめいていた。立食パーティーなのでテーブルは片付けられており、数箇所に置かれた椅子やソファに座っているものはあまりおらず、あちらこちらで立ち話の輪が出来ている。
「頭数なんて要らねえじゃねえかよ」
「そうだったかもな」
「お前の知り合いって?」
 哲が訊くと、秋野は煙草を歯の間に挟んで噛みながら、前髪をかき上げた。それなりにめかしこんだ秋野は先程から何人かの女の視線を集めているが、実はそれと分からないほどではあるが機嫌が悪かった。
 電話をかけてきたときには分からなかったが、ちょっといつもとは違う不機嫌さで、哲もいつもなら気にもしない秋野の知り合いのことなど尋ねてみる気になったのだ。
「まだ出てきてないな」
 秋野はかなり広いフロアを一通り見渡して肩を竦めた。フロアの向こうからモデルのような目を引く女が秋野の名を呼び、秋野はスツールから億劫そうに腰を上げる。勿論女から顔が見えていないのは言うまでもなく、振り返ればあの穏やかな笑みを浮かべるに違いない。ろくでなしの本領発揮だ。
「ちょっと飲んでろ。後で何か食い物も出るし」
「あーお前がいないほうが俺はすっげえ楽しいクリスマスだから気にすんな」
「口が減らない奴」
 片頬を歪めて笑うと、秋野は哲に背を向けた。女に近寄り、腰を抱く。女は喉を反らして楽しげに笑い、秋野の肩に手を置いた。哲はしかめた顔を元に戻すと手に持った煙草の灰をゆっくり払う。哲から女と笑い合う秋野の顔は見えなかったが、きっと女が思う『魅力的』な顔なのだろう。薄茶の目は優しげなのか、それとも色気でも振り撒いているか。どちらでも別に構いはしないが、さっき見せた取って食うぞと言わんばかりの凄みのある目はしていないに違いない。
「……性質の悪ぃ奴」
 心底女に同情しつつ、哲はグラスを傾けた。

 バーテンダーと先ごろ終わった九州場所で活躍した大関の話でじじむさく盛り上がっていると、フロアがざわついた。背後へ目をやった哲に、住田と言うバーテンダーがオーナーですよ、と教えてくれる。腰掛けている哲からは人の頭でよく見えないが、急な商談を終えた主賓がようやく登場したようだ。
「社長?」
 哲の問いに住田は年齢——五十代前半だそうだ——にしては立派に密生した頭を振ってみせた。頭髪とは裏腹に痩せた首は、そんなに振るとぽっきり折れてしまいそうに見える。
「いえ、こちらはオーナーの道楽と言いますか……個人で出されたお店で」
「へえ。あいつの友達ってのがそれかな」
「ああ、お客様のお連れ様の、そうですそうです」
 人のよさそうな住田は邪気なく笑い、何度も頷く。オーナーにお祝いを述べる客の声はなんとなくこちらに近づいているが、哲からはオーナーとやらの後ろ頭の上部以外は見えなかった。住田が客に呼ばれてカウンターの中を移動し、それに合わせたように人ごみが一瞬途切れた。
 やっと顔が見えそうになったオーナーと哲の間の空間を、先程秋野を呼んだ女がクリスマスケーキを載せた皿を持って横切っていく。おかげで哲は女の見事なスタイルを拝んだだけで、オーナーはまた見えなくなった。別に興味もないから残念でも何でもない。そう思ってカウンターに向き直ると、誰かに腕を掴まれた。

 

「哲」
「何だよ」
 秋野は、これと言った表情もなく哲を見下ろしていた。
「ちょっと」
 仕方がないので引っ張られるままに立ち上がってついていくと、秋野は店の奥のドアを抜け、関係者以外立入禁止と思しき廊下に入っていった。まさか今これから仕事だとか言い出すのか、それなら住田と相撲の話なんかして顔を覚えられるんじゃなかったか、とぼんやり考えながら、哲は掴まれた腕を適当に振ってみた。
「おい、放せ」
「後でな」
 秋野は廊下の突き当たりにあるドアの前で足を止める。レバーを押すとドアは呆気なく開き、哲は益々もって首を捻った。
「カメラとか……」
「ここはオーナー室だからな。あいつがいつでも好きな女を連れ込めるよう、カメラからは死角にしてあるそうだ。この間聞いた」
「なんだそりゃ」
 言い終わらないうちに、秋野にものすごい力で部屋の中へ引っ張り込まれ、壁に全身を押し付けられた。長身に密着され、動く隙間はどこにもない。
「何してやがるんだこの馬鹿が」
「口直し」
「はぁ?」

 秋野の唇は上等な口紅の匂いがした。
 これはシャネルってやつだ。
 前に付き合っていた女がたまに付けていて、余り好きではなかったのでよく覚えている。さっきのモデルみたいなお姉ちゃんかと思うと、彼女ではなく秋野にキスされている不幸を心から嘆く気になった。聖夜とかなんとか言う割に、誰も哲に贈り物をくれる気はないらしい。
 やたら甘ったるい舌は、クリスマスケーキのせいか。女に付き合って食べたなら女も最後まで食っちまえばよかったのにと呆れた気分で、哲は自らのそれに絡みつく舌に歯を立てた。

「……ん?」
「——あま」
「何?」
「てめえの口ん中だよ。ケーキか何か食ったろ。胸焼けするじゃねえか」
「ああ、少しな」
「もういい加減離れろ、阿呆」
「お前甘いの嫌いだったか?」
「知っててやってるくせに、白々しいっつーの」
「いいから、黙れよ」

 

 口元で囁かれる秋野の声は、響きだけは洋菓子のように甘く。
 笑いそうになる膝に何とか力を入れながら、哲は目の前の唇に齧り付く。秋野は低く微かに喉を鳴らし、一層身体を押し付けて哲の舌をべろりと舐めた。
「だから甘ったるいから気持ち悪いっつってんのが聞こえねえのか」
「舐めてればそのうち消える」
「退け、くそったれ」
「後でな」

 甘くしゃがれた声で、益体もない言葉を並べる秋野。
 どうせ聞いてはいないのだから、自分も秋野も同じだけ不誠実で自分勝手だ。興奮した動物のようにお互い歯を立てながら、上っ面だけ甘い口付けは腰が抜けそうなほど深くなる。

 甘いのは好きじゃない。
 クリスマスなんかこの世から消えてなくなっちまえばいい。

 

 吐き出せずに喉に絡みつく悪態は、誰の耳にも届かない。天井に埋め込まれたスピーカーから、やたら陽気なジングルベルがまるで冗談のように二人の上に降り注いだ。