仕入屋錠前屋とショートケーキ

「……」
 哲は目の前の物体に再度目をやり、それが勝手に消えてなくなってはくれないことを改めて確認した。
 外は既に薄暗いが、晩飯を食うにはまだ早い。時間帯のせいか、ファミレスは空いていて客はまばらにしかいなかった。
「そんな怖い顔してたら、せっかく呼んだ店員さんが走って逃げるだろう」
 呑気な声は、目の前に座ってにやついている男のものだ。
 没個性、という言葉を形にしたようなオフホワイトの合皮ソファ。秋野はまるで自宅のソファで寛いでいるかのようにリラックスして、長い腕を背凭れに回している。
 店の壁際、隅っこに追いやられた喫煙席の最も奥まったボックス席。
 これほどその場所が似合わない男もいないと思うが、いざ座ってみるとこれほど何でも似合う男は他にいないだろうと思わせるのが不思議で、そして忌々しい。
 秋野は店に入った時から主に女──客、店員問わず──の注目を集めていたが、濃い茶色のカラーコンタクトを装用している今日は、それでもまだマシな方だった。
「呼んでねえし」
「俺が呼んだ」
「いつ」
「さっき」
 煙草を持った右手をひらひらさせて、店員呼び出しボタンを示す。知らぬ間に押していたらしい。
 哲がまるで親の敵のようにボタンを睨みつけたところで、店員が横に立った。学生アルバイトか何かだろうか、二十歳前後の若い店員は、秋野に微笑みかけられて頬を真っ赤に染めた。
「お待たせしました!」
「コーヒーのお代わりふたつお願いします」
 穏やかな喋り方は秋野の本質を表すものではないが、そんなことはバイトのお姉ちゃんには関係のない話だ。微笑みかけられた彼女はすっ飛んで行き、またすっ飛んできてコーヒーを置くと頭を下げ、秋野の笑顔に陶然としたまま戻って行った。
「ほら、コーヒーも来たし、食えよ」
「マジでか」
 哲の煙草の先から灰が崩れ落ちる。銜え煙草の秋野が差し出した灰皿が、テーブルに落下する直前に灰を受け止めた。
「落とすなよ」
「……マジで?」
「しつこいな。マジで」
 そういう物言いは似合わないと思い、どうでもいいことだと頭の中で放り出す。
 秋野の長い指が伸びて、哲の指の間から煙草を掠め取った。短くなったそれを店のロゴ入りの灰皿に押し付けて消し、秋野は唇の端を曲げて煙を吐いた。
 この強運な男相手に賭けなどした自分が悪いのだ。分かっているが頭にくることには変わりない。
 仕事の関係で人と会うのに入ったファミレス。相手はすでに席を立ち、この場にはいなかった。ガラス越しに男を見送った秋野が今日は人通りのわりに女が少ないと言い、哲はそうでもないと言った。
 次にその角を曲がってくるのが男か女か。秋野は男、哲は女と言って、じゃあ賭けるか? と笑ったのは秋野だ。
「負けたら何でもするって約束したろ?」
 哲は秋野の顔から目を逸らし、目の前に鎮座するそれに再度目を向けた。
 三角形のイチゴショートケーキは、生クリームで飾られていた。
 専門店に比べたらクリームは少なくスポンジばかり多いのかもしれないが、それでも哲にしてみれば、空恐ろしい分量の生クリームを纏っている。
「くそ」
「いただきます、は?」
 睨みつけたところで、秋野が怯むわけはない。
「くそったれ」
「行儀が悪いねえ」
 煙を吐きながら秋野が笑う。哲はこの世の終わりに立ち会った最後の一人であるかのように、重い溜息を吐きながら渋々フォークを手に取った。
「約束だからケーキは食う」
「うん」
「けど、果物を食う約束はしてねえ」
「……うん?」
「あーん」
 フォークに刺したイチゴを差し出したら、秋野は珍しく本気で驚いた顔をした。
 ざまを見ろ、と口元を歪めた哲が優越感に浸ったのは束の間。秋野はテーブル越しに軽く身を乗り出した。
 まさか本当に口を開けるとは思わなかったから、適当に構えた哲の手の位置が低かったのだろう。少し頭を下げるようにして、哲の目をじっと見つめたまま秋野はイチゴに唇を押し当てた。
 店内の隅々まで白っぽく照らす明かり。濃色のレンズの向こうに透ける薄茶色は、見えないのに見えているようにそこにあった。
「……」
 指先が震え、フォークの先が微かに揺れる。秋野は口の端を曲げ、哲を見つめて微かに笑った。
 イチゴに沈む前歯とか、クリームを舐める舌とか、なんとか、その他諸々。
「お前な」
「何だよ。お前が出して寄越したんだろ」
「──そういうエロい食い方すんじゃねえ」
 秋野は人の悪い笑顔を浮かべて哲を見つめた。
「そんなに早く帰りたいなら、許してやらないこともない」
「……」
 睨みつける哲の視線をものともせず、秋野は笑みを大きくした。
「ちゃんとひとくち食ったらな」
 長い指が持ち上がり、生クリームを掬い上げた。

 

「あーん」
 差し出された指の先。
 指ごと食い千切ってやろうか、それとも根元まで舐めてしゃぶってやろうか。
 どっちにしたか、それからその後どうなかったかは、二人しか知らない別の話。

 

| 本編完結後、仕入屋錠前屋 a sequel のどこかの時点の二人 |