2020 お盆仕入屋錠前屋

「なあ、海に行きたいか?」
「てめえに海とか言われると何でこんな妙な気分になんだろうな、おい」
 哲は銜えたままの煙草の穂先を揺らしながら、眉間に深い皺を刻んだ。
 玄関先に立っている秋野の格好は、濃紺のスーツに淡いブルーのシャツ、足元は当然革靴。間違っても海に行こうという人間のそれではない。
 ハーフパンツにタンクトップ、サングラス。そんな格好が似合わないわけではないだろうが──実際、欧米人の血が混じっているからよく似合いそうだが──そういう秋野を想像しようとすると失敗するのはなぜだろう。
 理由はまあどうでもいいが、秋野に行楽に誘われていると思うと不気味である。大分前に花見に行こうと言われたときも、同じように感じたものだ。
「泳げねえって言ってくれ」
 哲が言うと、秋野は不思議そうな顔をしつつも、復唱した。
「泳げない」
「馬鹿、誰がオウム返ししろっつった」
「違うのか」
「泳げんだろ、どうせ」
「それがどうかしたのか」
「何でもねえよ」
 カナヅチだったら面白いと思ったが、そんなわけはない。本人が望んでいるかどうかはともかく山に籠って藪に潜み、崖をよじ登る訓練をしている男が泳ぎの訓練をしていないとはとても思えなかい。懸垂下降だって軽々できそうだ。
 いずれにせよ秋野と川やプールに行くわけでなし、泳げようが泳げなかろうが影響はないのだが。
「どうでもいいわ、別に。つーか、何の冗談だ」
「何が? 泳げるぞ、俺は」
「それはもういいっつーの。海が何だって」
「だから、海に行きたいかどうか訊いてるんだ」
 結局最初に話が戻る。哲は煙草の先の灰の長さに気がついて、一瞬迷って秋野に背を向けた。床の上の灰皿を拾い上げ、肩越しに振り返る。秋野は玄関に立ったままだ。ということは、本気で海に行く気なのだろうか。
「だから、何で海?」
 灰皿を手に、なんだか馬鹿みたいな気分で玄関で突っ立つ秋野の前に戻る。
「訊いたことなかったな。嫌いか?」
「そういうことじゃねえだろ」
「好き?」
「どっちでもねえよ」
 大体、子供の頃の海水浴以降、海と直結する記憶はそれほどない。海が見える場所に行くことはあっても、海そのものが目的ではないからだろう。
「海で何しろってんだよ」
「さあ……夕陽が沈むのを見るとか」
「日ぃ暮れてんじゃねえか、三時間くらい前に」
 秋野は動じるふうもない。
「泳ぐとか?」
「夜にか。俺に死ねってか」
「死んだら困るが、泳ぎたいなら止めないぞ」
「泳ぎたくねえし。つーか、盆に海には行かねえぞ、普通」
 煙を吐き出し、哲は煙草を灰皿に押し付けた。
 今は所謂お盆期間だ。哲のバイト先も当然ながらお盆休みである。普段ならバイトの時間に部屋にいたのはそのせいだが、知らせてもいないのに秋野がそれを知っているのは毎度のことだ。
 それにしても、今日は一段と暑いし湿度が高い。哲はクーラーの冷風が苦手だから、設定温度は高めにしてある。そのせいなのかどうか、玄関先でドアを開けて話をしているだけで、皮膚が湿ってくるようだ。立秋はとうに過ぎたが秋の訪れは遥かに遠く、訪ねてくるのは歓迎し難い「秋」だけだ。ドアを閉めろと呟くと、涼しげな名前の男はようやくドアを閉め、それでも狭い三和土に突っ立っている。
「見てるだけで暑苦しいな、その格好」
「仕事帰りだ」
「そうかよ、だったらわけわかんねえこと言ってねえでとっとと帰れ。海なんか行かねえ」
「クラゲが出るからか」
「高潮とかクラゲとか色々言うけど、ほんとかどうか知らねえよそんなの」
「死んだ人間に会えるって迷信は、一般的なのか?」
 秋野の薄茶の瞳がゆっくり瞬き哲を見つめる。
「……何言ってんだ、お前は」
 哲は本気で困惑し、秋野の顔を見返した。

 秋野は日本生まれの日本育ちだから、日本の風習も当然よく知っている。自分では経験していないことについても見聞きしたことから知識は持っているようだが、どうやら、迷信の類については弱いらしい。母親が日本人ではないせいもあるし、数年間一緒に暮らした尾山一家がその手のことに無関心だったせいもあるのだろう。
 今日、秋野が仕事で会った相手が言ったのだそうだ。今日は仕事を早く切り上げて海に行く、死んだばあちゃんに会えるかもしれないから楽しみにしている、と。
「あのな」
 哲は無理矢理部屋に上がらせた秋野にペットボトルを放り投げ、シンクの縁に尻を乗せた。
「本当かどうかは別にして、普通はあれだ、会えるとかそういうんじゃなくて、引っ張られるから行くなって言うんだよ」
「引っ張られる──」
「死人に連れてかれるっつーこと」
「ああ、何だ、そういうことか」
 秋野はペットボトルのキャップを捻り、水を呷った。平気な顔をしてはいるが、やはり暑かったらしい。ジャケットを脱いで床に胡坐を掻き、煙草を取り出す。
「あの言い方だと、てっきり会いに行くのが通例かと」
「いや、違うだろ。怖えだろ、それは」
「まあ、俺は興味ないからどうでもいいけどな」
 紫煙がまるで幽霊の痕跡のようにはかなくゆらめき、何かを語るように捩れて消える。実際のところそれはクーラーという家電が起こした空気の流れでしかないし、どんなに複雑に渦を巻いても、そこには何の意味もない。少なくとも、哲にとって目に見えないものはその程度の存在だった。
「……お前は時々わけわかんねえ気の遣い方すんな」
 秋野がどう思ったかはさすがに分かった。死んだばあちゃん、という客の言葉で哲の祖父を思い出したに違いない。まさか本気で祖父に会わせるつもりではなかったろうが、哲が行きたいと言えばどこかの海まで連れていったのだろう。
「別に気を遣ってるわけじゃない」
 秋野は口元を歪め、薄茶の目を細めて笑った。
 何年か前にもそういうことがあった。祖父の墓に揺れる白い花。どうやって場所を知り、具合が悪いというのに哲より早く花を供えに行ったのか。
 あの頃と今では違うものもあるが、変わらないものもある。行動の理由が同じなのか違うのか、それは哲には知る由もない。
 気遣いでなければ一体何か。訊ねてもいいが、知ったところで違いがあるわけでもないから口にはしなかった。
「そんなに行きてえなら行くけど。想像上の夕陽にでも叫ぶか?」
「俺が行きたいわけじゃないよ。叫ぶって、何を叫ぶんだ」
 床に腰を下ろしている秋野の黄色にも金にも見える双眸は、いつもよりずっと低い位置にある。太陽は水平線の向こうに沈んでしまったが、見ようによっては似たようなものだ。
「好きな食い物とか?」
「何?」
「寿司ー! とかよ」
「何を言ってるんだお前は」
「玉屋ー! とか」
「花火じゃないのか、それは」
「鍵屋ーじゃなくて、錠前屋ー! とかな」
 秋野の唇の端が曲がって笑みが浮かぶ。
「好きな食い物?」
「とか、だ。とか」
「じゃあお前は仕入屋って叫ぶのか」
「んなわけねえ。俺は寿司にする。酒でもいいけど」
「そうか」
 哲は、音もなく立ち上がった秋野をぼんやり眺めた。首を掴まれ引き寄せられて、夕陽より黄色く、鈍く光る瞳に覗き込まれて身体が竦む。
 笑っているのに瞳の奥にあるそれは柔らかくも甘くもなくて、暗い海のように深くて底の知れない何かだった。冷たくはない。だが、熱くもない。
 暑い夏の夕方、足を突っ込んでみた生ぬるい海水のように。
「何て叫ぶか、訊かないのか?」
「……言いたきゃ言えよ」
 聞きたくない、と言いたいところだが、耳は塞がないと決めたのだ。
 長い睫毛の黒さが夜の空を思わせる。都会の空はこんなふうに黒くない。瞬く星もほとんど見えず、美しくもなんともない。そんなことは知っているのに、それでも。
「聞きたくないくせに、馬鹿だね」
「うるせえ、放っとけよ」
 低く笑う秋野の身体が押し付けられて、尻に硬いステンレスの角が当たる。シンクの縁を掴む哲の手の甲に秋野の掌が重なって、一見優しく、実のところこちらの意思などお構いなしに押さえつけてくる。
 シャツ越しに感じる秋野の身体。脱がせなくても、見なくてもどんなかたちかは知っている。体温も、皮膚の手触りも、骨の硬さも、味も匂いも。忌々しいことに、何もかも。
 身体を屈めた秋野に喉を噛まれて思わず掠れた声が出た。
 打ち寄せる波のように、何かがひたひたと足元を侵食し、嵩を増していく。
「哲」
 呼んだだけなのか、それともそう叫ぶというのか。
 瞼を閉じ、うわべだけは穏やかな低く柔らかい声に身を任せた。深い水の底に沈んで揺れているように錯覚する。誰かが海に向かい、誰かの名前を叫んでいる。
 溺れているのに息ができるような不思議な感覚。そう、多分、ずっと前から溺れたまま息をしている。
 ここは、水面が見えないほど深いのになぜか光射す海の底。
 白い花びらがひとひらたゆたう、海の底。

 

 

| 本編完結後、仕入屋錠前屋 a sequel のどこかの時点の二人 |