理由は無い、其れ以外
その日哲は高校時代の友人と、そのまた友人と四人で飲んでいた。
隣のテーブルに座っていた同年代の女ばかりの客──こちらも偶然四人──がちらちらと視線を送って寄越したのは、その日はたまたまそれなりの見てくれのやつらが揃っていたからだろう。
とはいえ、大して長く生きてはいないが、人生の中でもっともろくでもない時期につるんでいたやつらだ。やくざこそいないが、まともなサラリーマン風情なのも一人もいない。自分で言うのも何だが、哲が一番地味で、一番まともに見えるはずだった。
そんな団体様に興味を示すくらいだから、女たちもまあ、古臭く表現すれば派手で尻軽っぽいのが揃っていて、どちらからともなくテーブルくっつけちゃおうよ、と声が上がり、飲み会は即席の合コンの様相を呈した。
声が馬鹿でかいとか、生理的に受け付けない何かがあるとか、そうでなければお姉ちゃんと飲むのに否やはない。それなりに楽しく飲んで、もう一軒行こうかという流れになった。
正直なところもう帰りてえなとは思ったが、積極的に断るのも億劫だった。それに、友人たちに一緒に行こうぜ久し振りなんだし、と言われたら、つき合ってやってもいいかという気にもなる。
男女同数だったので、並んで歩くのは自然と二人ずつになった。腕を絡めて寄りかかってくる女の長い睫毛を見下ろしながら、エクステかなとぼんやり考えた。
用事があり、知り合いの店に行き、店から出てきたら哲が向こうから歩いてきた。
秋野は、すぐそこに見える哲とその周りに目を向けた。数人まとまって歩いているから、友人と飲んでいたのだろう。哲の腕にぶら下がっている女の子は、その様子から友人という感じではなかったが。
どこかで引っかけたのか、それとも向こうがついてきたか。どちらでも別に構わないし、そんなことに目くじら立てる気もなければそもそも権利もない。
いくら秋野が哲に──色んな意味で──いかれていても、哲も同じくらい、そして同じように思っているとは言い難い。
少なくとも、今はまだ。
そういうわけで、別に腹は立たなかった。だが、何とも思わないわけでもない。秋野は思い切りよそ行きの笑みを浮かべ、哲のほうに歩き出した。
「げっ」
漫画の台詞みたいな声を出してしまったが、わざとでもなければふざけてもいない。
今の音はまさに、今この瞬間の哲の胸の内を表す音だった。
「えっ?」
哲の腕にしがみついていた女──確か名前はマユだかアユだかそんなの──が哲を見上げ、その視線を追って、哲を突き飛ばすようにして身体を離した。
ついでにあいつが身動きできねえように飛びついてくれねえかな。
そう思ったが、さすがにアユだかマユもそこまで図々しくはないらしい。哲にしなだれかかっていたときとは明らかに違う様子で頬を染めている。
行け、やっちまえ、と内心もう一度エールを送ったが、やっぱりそれほど以下略だった。
哲の前方を歩いていた男女三組がぱかりと割れる。秋野は海の中を進む預言者みたいに悠然と、真っ直ぐ哲に向かって歩いてきた。
「哲」
「何でてめえがここにいんだよ」
「そこの店に用事があったんだ」
秋野が指さしたのは雑居ビルの一階に入っている小ぢんまりとした飲食店だった。秋野の知り合いはどこにでもいる。嘘をつく理由もないから本当だとは分かっていても、ついつい浮かぶエリのGPS説に、哲は思わず呟いた。
「マジで、レントゲンで何か見つかるんじゃねえか──」
「無機物は埋め込んだことがない」
甘ったるい笑顔を浮かべて哲以外には分からないエロジジイ発言をした男は、マユアユ──もうどっちでもいい──に顔を向けた。
「こんばんは」
「あっ、えっ、こっ、こんばんはっ!?」
上擦った声の返事にも揺るがないツラの皮で、秋野はマユアユに一歩近づいた。
「借りてもいいかな?」
「ええっ!? 何を、かり、あのっ、はい、どうぞ!!」
「ありがとう。それじゃあ」
秋野に微笑みを向けられたマユアユが蕩けそうな顔になり、祈るように両手を握り合わせて身を捩る。因みに、他の三人の女も同じ状態に陥っていたがそれはこの際どうでもいい。
気がついたら秋野に腕を掴まれてその場からあっという間に拉致されていた哲の顔は、まったく蕩けるどころの話ではなかった。
眉間にどこかの渓谷くらい深い皺を刻んだ哲は、哲にしては中途半端に不機嫌だった。
連行されたのは気に食わないものの、あのまま飲みに行く気分でもなかったらしい。噛みつけばいいのか感謝すればいいのかどっちつかず、態度を決めかねているようだった。
「それで?」
秋野がグラスを差し出しながら訊くと、哲は銜え煙草のまま秋野を睨んだ。
「ああ?」
「どっちにするんだ」
「何が」
「だから、俺に腹を立てるか、それとも連れ出してくれてありがとうって礼を言うか」
「……うるせえな」
盛大に噴き上げられた煙を避けながらグラスを哲に押し付けて、カウンターを回る。
半ば無理矢理とはいえたいして抵抗されることもなく連れてきた秋野の部屋の一階。不貞腐れた顔でスツールに腰かけていた哲は、煙草を灰皿に押し付けて消し、溜息を吐いた。
「どっちでもよかったんだよ」
「何が?」
「だから、飲みに行っても行かなくても」
哲のグラスの中で氷が動き、酒の表面が微かに波立つ。
「帰りてえなって思ったけど断るのも面倒くせえし──来てくれっていうから」
「そうか」
低い哲の声には誤魔化しも嘘もない。言葉の通りなのだろう。ただ友人の誘いにつき合った。理由はない、それ以外。
隣のスツールに座って笑った秋野に横目をくれ、哲はグラスを一気に傾けた。
「おい」
いくらアルコールに強い哲でも一気に飲みすぎだ。ビールじゃないんだからと言いかけて、腰を上げた哲の目つきに口を噤む。
「……そういうとこにふらっと出てくんじゃねえよ」
間近で吐き出される吐息。今しがた哲が飲み干したばかりの酒の香りがする。酔っ払いの酒臭さとは違う。多分、唇かどこかに残っている酒そのものの匂い。
「どうして」
「分かってんのに訊くな、馬鹿」
「分からないから訊いてるんだろう、馬鹿だね」
哲の指が後頭部の髪を手荒に掴んで引っ張った。秋野の下唇に食い込む歯列の硬さ。酒の香りが鼻の奥に抜けていく。
「──哲?」
少しだけ重たげな哲の瞼が開き、凶暴な色が浮かんでは沈む瞳が眼前で瞬いた。
「理由なんかねえ、」
低く喉を鳴らすような唸り声。威嚇なのか、甘えているのか判然としないその音に秋野は思わず頬を緩めた。
「──てめえがそこにいるって、それ以外」
分からなかった。
知らなかった。
不本意極まりない口ぶりで吐き出す錠前屋を見るのが楽しいから、そういうことにしておこう。
| 本編完結後、仕入屋錠前屋 a sequel のどこかの時点の二人 |