仕入屋錠前屋とクスリ

 哲はベッドに横たわっていた。
 自分の部屋でないことは目が覚めてすぐ気づいたが、頭が水の中に浸かっているような感じがして、どこにいるのか分からなかった。空調の音が妙に耳につく。身じろぎしたら、糊の効いた寝具が肌に当たってかさついた音を立てた。
 ゆっくりと目を開けた哲は、目の前の女の寝顔に胸の内で呟いた。
──ほら、やっぱりあんた、知り合いじゃねえよ。絶対に。

 

 遡ること数時間前。
 哲は何度か訪れたことのあるバーにいた。ひとりで飲むときは大抵居酒屋とか焼鳥屋で、バーに入ることはほとんどない。こだわりがあるわけではないが、多少ざわついている店のほうが何となく落ち着くからだ。
 とはいえたまには静かなところで飲みたくなることもある。ここは知り合いから紹介されたということもあって、たまに顔を出す店だった。
 カウンターの向こう側には酒の瓶がずらりと並ぶ。酒の後ろは鏡張りになっていて、照明が反射して煌めいていた。クラシックな内装と相まって高級感があるせいかそれほど混雑することもない。
 ところがその日は哲が席について十五分ほどしてから突然混み始め、いつの間にか満席になっていた。キャンペーンだか何だかで酒が安く飲める日だったらしい。失敗したなと思ったが、騒ぐ客がいるわでもない。とりあえずは腰を落ち着けることにした。
 途中で川端から電話が入って少し話し、通話を切ったところで三十分くらい前から隣に座っていたカップルの女のほうがいきなり話しかけてきた。
「ねえ、スズキくん! スズキくんじゃない?」
 女は哲の顔を覗き込むようにしてきた。長い黒髪がさらりと流れてカウンターに毛先が触れる。細身のグレンチェックのパンツに白いニット。色白で美人。しかし、知らない女だ。
「いや──」
「すごい久し振りだよね! 最近どう? 元気?」
 否定する間もなくかぶせられたから、はあ、とかああ、とかいう曖昧な声を上げて誤魔化した。
 ササキとスズキを間違っているのかもしれない。バイト先の客は店員同士が呼び交わすのを聞いているから、一方的に覚えられていることはたまにある。
 哲のほうはまったく記憶にないが、元々一度会った顔は絶対忘れないというほどの記憶力もない。常連でもなければ個別認識はほぼできないと言ってよかった。
「そうなんだ、元気ならよかった──」
「すみません、お待たせしました」
 少し前に呼んでいたバーテンダーが哲の前にやってきて、一旦女の話が途切れる。それで終わりかと思ったら、女は哲のグラスをじっと見て訊ねてきた。
「ねえ、スズキくん、何飲んでるの?」
「これ? ウィスキー。水割り」
「あのね、今日のおすすめのクラフトビールめちゃくちゃ美味しいよ。お勧め」
 女はバーテンダーに向かって、「絶対飲んだほうがいいですよね!」と声をかけた。
「そうですね。お嫌いでなければ」
「ああ、じゃあそれにします」
 面倒くさいので頷くと、店員は微笑んでビールを取りに行った。
「よかった。試してみて! あ、邪魔してごめんね。またね」
「……はあ」
 女はすっかり気が済んだようで、連れのほうに向き直った。女の向こうからこちらを見る男の目つきが若干気に障ったが、デート中に別の男に声をかけたら腹が立つ男だっているだろう。
 本当に知り合いか人違いかはさておき、また話しかけられて睨まれるのは不本意だ。哲はとりあえず席を立ち、便所に向かった。
 用を足して手を洗い、ドアを開けたら男が入って来た。さっきのカップルの片割れだ。何か言ってくるかと思ったが、男は哲を軽く睨んだだけでさっさと個室に入っていった。
 まったく、やっぱり早く引き上げるに越したことはない。そう思いつつ席に戻った。軽く構えていたが女は真剣な顔でスマホを見ていて隣の哲には目もくれない。
 内心胸を撫でおろし、哲は口をつけていなかったビールのグラスを手に取った。
「──で?」
 思わず呟いた声は我ながらやけに弱々しい。
 あの後は女に話しかけられることもなくビールを飲み終えた。途中で秋野から仕事のことで電話がきて、どこにいるか訊かれたが面倒だったから電話を切った。ビールを飲み干し、少し迷ってもう一杯──確かスコッチか何かを適当に選んで注文したはずだ。そして、その後の記憶がない。
「ああ……? 何でだ──」
 哲の声が聞こえたのか、女はもぞもぞ動いてむにゃむにゃ言った後薄眼を開け、閉じ、そして今度はかっと目を見開いて飛び起きた。
「あーっ!!」
 驚きたいのはこっちだ。あの後、女をめぐって男と決闘し、見事勝利した哲が晴れて女をお持ち帰り──したわけではないだろう。
「あのさ」
 起き上がりかけた哲は思わずそのまま枕に頭を落とした。なんだか知らないがひどくふらつく。
「大丈夫ですか!?」
「いや……あー、なんだ……?」
「すみません、本当にすみません!」
 哲は転がったまま改めて女に目を向けた。女はバーで見た格好のままだった。化粧も落としていないようで、目の下に滲んだマスカラとアイシャドウが隈に見える。
「迎えにきてもらいましたから!」
「迎え──?」
 何を言っているのかよく分からない。天井に目を向けたらライトを直接見てしまい、目が眩んだ。一体今は何時だろう。はっきりしないがどこかのホテルの部屋らしい。強く目を閉じ、開いたらまた世界が揺れる。女。結局この女は誰なんだ。
 水に潜っているように周りの音や色のすべてが遠い。どこかでノックの音がして、女がベッドから飛び出していく。哲は唸りながら頭を押さえ、目を閉じた。

 

 

「大丈夫だと思うよ」
 手塚は秋野の顔を見て溜息を吐き、言い直した。
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「大丈夫。その怖い顔やめてくれない? 俺が倒れそう」
「知るか」
「……じゃあ、外で待ってるね」
 秋野の肩を軽く叩き、手塚は診察室を出て行った。
 この時間、当然ながら手塚医院は診療を終えていた。秋野の他に人の気配はない。ドアの向こうで寝かされている哲の気配もまた、しなかった。
 仕事のことで伝えなければならないことができて再度哲に電話をしたが、出なかった。普段なら着信を無視されることなど珍しくもないものの、仕事が絡めば渋々でも必ず応答するのに、珍しい。
 そう思って何度か間隔をあけてかけてみたが繋がらない。飲んでいると言っていたから暫く時間を置いてまた試したら、女が出たのだ。
 腰を上げて処置室のドアを開けた。哲は点滴用のベッドに横になっていた。部屋の隅から丸椅子を持ってきてベッドの脇に腰を下ろす。改めて見る哲は、顔色も、不機嫌そうな寝顔もいつもどおりだ。秋野は思わず掌で顔を覆って息を吐いた。
「──おい」
 顔を上げたら哲が秋野を見上げていた。
「……ああ」
「何でてめえが──ここ、どこだ」
「手塚のところだ」
「手塚さんとこ……」
 哲は仰向けになって天井を睨みつけ暫く何か考えていたが、また秋野のほうに顔を向けた。
「全然分かんねえ。何だ、あのお姉ちゃんは何だったんだ」
「お前に電話したら彼女が出た」
「はあ?」
「それでホテルに迎えに行って、ここに連れて来た」
「はあ……そう。よく分かんねえけど、帰る」
「明日ちゃんと説明する。ああ、起き上がるな」
「何でだよ」
「ふらつくかもしれん。手塚が車出してくれるから」
 上体を起こした哲を押し止め、秋野は手塚に電話をかけた。医院の正面に駐車しているという。
「なあ、車まで抱えて行くか?」
「ああ? 何言ってんだてめえ、馬鹿じゃねえのか? ふざけんな」
 哲は見慣れてない人なら卒倒しそうな目つきで秋野を睨み、スニーカーに足を突っ込んで身体を屈める。靴を履いて身を起こし、秋野の顔を睨んだ哲は、そのまま固まった。
「……」
「何だ、顔になんかついてるか」
「いや──顔のパーツしかついてねえけど……」
「じゃあ何だよ」
「何でもねえ」
 ゆっくりと立ち上がった哲はよろけることもなく、まっすぐ処置室のドアに向かって歩き出した。

 

「で、なんで自分とこに送ってもらえねえんだよ! おかしくねえか!」
「いやあ、おじさんは運転手さんだから何とも言えないなあ」
「俺の部屋はここじゃねえし、ここはこのクソ虎野郎んとこで」
「うん、そうだね!」
 手塚は振り返って全開の笑顔を見せた。
「いや、て──」
「ほら、さっさと下りるぞ」
 パトカーから下りたがらない容疑者を引きずり下ろす警官の気分はこんな感じだろうか。渋る哲を車から下ろして素早くドアを閉める。手塚は陽気にクラクションを鳴らして走り去り、哲はちょっと呆然とした顔で突っ立っていた。
「おい、なんで──うわ!!」
「お姫様抱っこで運ばれないだけマシと思え」
 哲を米袋のように肩に担ぎ上げた。クソとかボケとか喚きながら背中を蹴飛ばされたが、抵抗は意外にすぐ止んだ。面倒くさくなったのか、まだ本調子ではないのか。両方かもしれない。
 外階段を上がり、中二階のドアの鍵を開ける。ベッドの上に荷物のように投げ落としたら哲は罵声を上げたものの、飛び起きて蹴りつけてくることはしなかった。
「くそったれ……」
「そこで寝ろ」
「何でてめえと寝なきゃなんねえんだよ」
「俺は寝ないから安心して寝ろ」
「……は?」
「眠れそうもないし」
 哲のスニーカーを引っ張って脱がせ、床の上に放る。秋野はソファに腰を下ろして煙草を取り出した。

 

 

 秋野の部屋はいつもどおりだった。前に住んでいた部屋より更に物がなく、ベッドの周辺以外は倉庫のようだ。それでも、あの安アパートよりずっと生活感があるのが不思議だといつも思う。
 クリーニングされたばかりのように思える寝具からは何の匂いもしないのに、秋野の気配みたいなものは間違いなくそこにあって、少し前にかぶっていた病院のものとも、ホテルのそれともまるで違った。
「……お姉ちゃんは何だったわけ」
「明日説明するから寝ろよ」
「今聞きてえ」
「哲」
「説明しねえなら帰る」
 秋野は煙を吐き、分かったよ、と呟いた。中二階は全体の照明が点いておらず、洞窟の中かどこかに煙が漂っているように錯覚する。秋野の低い声が眠気を誘う気がして、哲は何度か瞬きした。
「あの女の子、お前の隣で飲んでたんだって?」
「ああ、そう。多分彼氏かなんかと。そんで俺のことスズキって呼んで話しかけてきた」
「彼氏じゃなくて、取引先の知り合いらしい。何度か誘われてて、昨日は二度目のデート」
「ふうん?」
「で、そいつがたまたまビールに何か入れたのを見たらしい」
「何かって」
「粉末状の何かだそうだ。彼女は友達から連絡がきてスマホを弄ってたらしいんだが、そのときにどこかに映ってたとかでな」
「……」
 いきなり話しかけてきてクラフトビールを勧めてきた理由が腑に落ちた。薬を盛られたのが件のビールだったのだ。
「お前の症状からして、盛られたのはフルニトラゼパムだろう」
「フル、なんだって?」
「睡眠導入剤だ」
 秋野は吐いた煙が漂っていくのを眺めながら続けた。薄い色の目がライトに透ける。
「その場で咄嗟にお前を利用しようって考えたらしい。彼女の思惑どおりお前は迂闊にも薬入りのビールを飲み干して」
「いやお前、迂闊とか言われてもな」
 さすがにそれは回避しようがないと思ったが、異議はあっさり聞き流された。
「次の酒を飲んでる最中にぶっ倒れたんだそうだ。で、知り合いだから介抱するって言って無理矢理タクシーに乗って、でもお前を自分の部屋に入れるのは論外だし、ってことでホテルにチェックイン」
「いや──ある意味すげえ頭の回転だけどよ……けど不確定要素多すぎねえか?」
 哲がビールを置いて席を立つことを予測できたわけはない。もし哲がそのまま自分のビールを飲み干してしまったら一体どうするつもりだったのだろう。よろけたふりをして薬入りビールを零すとか? 何にしても行き当たりばったりもいいところだ。
「多分テンパってたんだろうな」
「いや、それより騒ぐとか、なんかそいつに直接言うとか──ああ、でもまあ、知り合いなら却って怖えのか」
「取引先なら無碍にもできないだろうしな。警察に行ったって、実害がなきゃ動けないだろうから」
「確かに、俺がぶっ倒れたこと以外証拠はねえな」
「しかもすり替えたなら証拠にならん」
「確かに」
「もういいだろ、寝ろよ」
 秋野は煙草を灰皿に放り込み、前髪をかき上げた。哲よりずっと睡眠が必要そうな顔で溜息を吐く。
 哲に対して悪意があった者は誰もいない。言ってしまえば単なる事故。もしその場に放置されたとしてもバーの店員がなんとかしてくれたはずで、哲の身が危ないなんてこともなかった。それなのに、手塚医院からずっと、こいつの顔はやけに強張っている。
「どうせ──」
「なあおい、俺が喧嘩して怪我したって、お前は右手以外は好きにしろって感じで気にもしねえだろ」
「何?」
「おまけに頭に来たからって人の肋骨折りやがる野郎が一体何を心配してんだよ」
「別に心配してないし、」
「じゃあ、何でびびってる」
「……」
 秋野は開きかけていた口を閉じた。表情がすとんと抜け落ちて、死んだ魚みたいな目になった。さっきまでと同じ秋野のはずなのに、まるで人形みたいに見える。生気のない秋野の顔は妙に美しいのだと気がついて、ぞわりと首筋の気が逆立った。
 女に勧められたクラフトビールの色を鮮明に思い出す。普段飲むビールほど薄くはなく、黒ビールほど濃くはない。ちょうどこいつの目の色みたいな琥珀色だ。
 毒入りのきれいな酒。
 飲んだら危険、意識を失う。目が覚めた後も、ふらつくだけで済めばいいが。

 

 

 母親に、他人に預けるというかたちで育児放棄されたのは確かだ。しかし愛されていたとは思うし、虐待を受けたこともなかった。子供同士の喧嘩以上の暴力というものに触れ、慣れたのはもっと成長してからのことだ。
 だが、クスリというのが悪いものだということは小さな頃からなんとなく知っていた。
 怪我ならいい。内臓の損傷は別だとしても、程度は目視で大体分かる。何をすればいいのか判断できる。
「薬物はどんな影響があるか分からないだろう」
 一見何ともないような顔をしているが、哲は横になったまま、一度も煙草を吸わせろと騒いでいなかった。それだけで哲が本調子ではないと分かる。鼻血を出して床に転がっていても煙草煙草とうるさい男だというのに。
 そう思うとまた鳩尾が引き絞られたようになって、首筋が鉄板でも入っているかのように硬く強張った。
「怪我なら程度が分かる。放っておけば治るか、輪島さんのところへ行けばいいのか、それとも死にそうなのか、大体はな」
「……」
「まだマリアと暮らしてた頃、近所にいつも地面に座り込んでぶつぶつ言ってる男がいた」
 どこの誰だったのかは知らない。日本人でいうと就学前だった秋野の記憶は飛び飛びで曖昧だ。
「そのうち、座ったまま死んだ。朝見かけたときは前の日とも、その前の日とも同じように見えたのにな」
「お前が子供だったから分かんなかっただけじゃねえの」
「ああ、多分兆候はあったんだろう。それでも出血したり、足が変な方向に曲がったり──そういうのとは違うんだ」
「……」
「知らないうちに内側から崩れていく」
 ホテルのベッドに横たわっていた哲。眠っているだけで間違いなく生きていると分かっているのに死体に見えた。
 怖かった。
 哲が死ぬと考えたわけではない。目に見えない部分で何が起こっているか分からないと怖いのだ。状況を把握できないのが怖い。忘却に怯えるのと同じだ。対処できる範囲を、己の能力を超えるものが恐ろしい。
「俺はふらふらするだけだ」
「分かってる」
「だからお前が寝らんねえこともねえ」
「それは俺の勝手だろ」
「枕元でじっと見られてたら怖えっつってんだよ」
「じゃあ下にいるよ」
「ああ、そうしろ。あー、歯ぁ磨く……使い捨てのやつもらうからな」
 哲は起き上がり、危なっかしい足取りで洗面所のほうに歩いて行った。手塚医院でしゃっきりしていたのは気を張っていたからなのだろう。
 秋野は階段を下り、カウンターの照明を点けた。あたりが明るく照らされる。見えないものが怖いなんて、暗い部屋、幽霊や怪物に怯える子供のようだ。秋野は灯りの届かない部屋の隅に目を向け暫くぼんやり佇んでいた。
 暗闇の中に怖いもが存在するとは限らない。そして、光の当たる場所に存在しないとも限らない。見えるか見えないか、ただそれだけ。そう信じ、あるいは信じたふりをして生きていかなければ前に進めない。
 適当な酒の瓶を取って氷を入れたグラスに注ぎ、スツールに腰を下ろした。口をつけかけ、振り返る。中二階への階段は下半分だけ照明に浮き上がり、上半分は暗がりに沈んで見えた。
 グラスを置いて立ち上がり、階段を上る。ちょうど洗面所のドアを開けて出てきた哲に大股で歩み寄り、また荷物のように担ぎ上げた。
「またかよ!? 下ろせこのクソ虎──!」
 喚く哲を望みどおり放り投げ、ベッドに上がる。片手で哲を引き寄せた。後ろ向きだから顔は見えないが、ご立腹なのは間違いない。哲の背中に密着した胸骨にぐるぐる唸る振動が伝わってくる。元気だな、と思ったら何だかちょっと泣けてきた。もちろん本当に泣いたわけではないけれど。
 錠前屋が殴られ、蹴られて壊れることを心配したことなどかつて一度もない。だったら他の何かで壊れることもないのだと、そう思い込めばいい。
「離せっつってんだろ! 下にいるんじゃなかったのかオイ!」
「触ってりゃ分かるかなと」
「ああ!?」
「だからほら、目に見えないものも触ってたら分かるようになるかもしれんだろう」
「全然意味が分かんねえ!」
「そうだな、俺もよく分かってない」
「馬鹿!? 馬鹿なのか!?」
「大丈夫そうだな」
「だからふらつくだけで、心配しなくてもそんな簡単におかしくなんねえっつーの、俺は!」
「俺と離れなきゃ食えず眠れずなんてこともないしな?」
「分かってんじゃねえか、てめえがいりゃ壊れねえよ!」
 思わず緩んだ手の力を敏感に察知して、哲は秋野の腕から逃れて起き上がった。素早く蹴っ飛ばされて危うく床に転がり落ちかける。
「──蹴るなよ」
「うるせえ、そっちで寝る」
 ベッドから下りようとした哲の足首を掴んで引っ張った。もう一度抱えて今度は両腕でしっかり拘束する。暫く暴れていた哲は、不満げにひとつ唸ってから諦めた。
「ガキかよ……まったく」
「よく分かってるな。暗い部屋が怖いんだ」
「アホか」
「手を繋いでくれる?」
「おう、寄越せ。食い千切ってやる」
「それは手じゃない、口だろう」
「うるせえ、死ね」
 哲の髪の中に鼻先を突っ込んで笑ったら、錠前屋はむずむずすっからやめろとまた暴れ出した。
 そう、なにも心配することはない。
 こいつは古い錠前みたいに頑丈で、強く踏んづけたり、ちょっと身体に悪いものを摂取したくらいでは壊れないと信じよう。
 そこが例え暗くても明るくても、俺がそばにいる限り。
  

 

| 本編完結後、仕入屋錠前屋 a sequel のどこかの時点の二人 |