2010 お盆仕入屋錠前屋

「お願いがあるんだが」
 ほとんど無意識に近い状態で通話を終わらせようとした哲は、ボタンに触れるか触れないかの距離で、指先を静止させた。
 電話の相手は仕入屋である。
 こいつからの着信の場合、最初の一回は出ないか切るかすることが多い。別に、構って欲しいわけでも焦らしているわけでもなんでもない。どうせろくでもない内容がほとんどなのだ。気が向けば付き合ってやってもいいが大抵は面倒くさいし、本当に用事があるなら掛け直してくるからその時出ればいい。
 だから、今回も同じように切りかけた。しかし、手の中の電話から聞こえてきた小さな声に、咄嗟に指が反応したのだ。
 大体、あの傲慢虎野郎がお願い、なんて言うことは滅多にない。口ではそう言ったとしても、実はお願いなんかではないこともまたよくある。だが、今小さな機械を通して聞こえてくるのは紛れもなく「お願い」のようだった。
「槍が降るな」
「いっそ降ってくる槍に刺されてくたばりたいよ」
 携帯を耳に当てたら声はそれなりに大きくなったが、少なくとも張りはなかった。
「一応屋根の下入っとけ。道端で死んだら汚ねえから」
「優しくないねえ……」
 吐き出された息はやたら長いし、締まりがない。哲は耳から離した携帯を三秒見つめ、もう一度耳に当て直した。
「おい、どこにいるんだ徘徊老人」
「なんてことを言うんだ、クソガキめ」
 返す言葉にもいつもの妙な迫力はなかった。
「なあ、俺のお願いをきいてくれる気はあるのか」
「内容によるけど」
 まったく、とかなんとかぼやいた後、部屋に来てくれと言って電話は切れた。

 

 重い腰を上げて秋野の部屋までやってきてみると、部屋の前にでかくて黒いものが鎮座していた。よくよく見ると、塊は黒い服を着た人だった。更に近づいてみると塊には廊下を塞ぐように投げ出された長い脚が生えていて、それが仕入屋本体だと確認できた。
「よう」
 秋野の右脚を跨いで立ち、上から見下ろすと、前に垂れていた頭がゆっくりと上を向いた。蛍光灯の白っぽい光を反射する、薄茶に金色の斑点が散る美しい虹彩。その中心の漆黒の瞳孔が蛍光灯の光を受けて小さくなるのが、妙に動物的に見えた。
「すまんな」
 長くて濃い睫毛が上下するたび、薄い色の瞳に影が落ちる。普段なら哲に目を向けた瞬間閃く獰猛さが、今はどこにも見当たらなかった。
「ケツが汚れるぞ」
「洗うよ」
「で、何だ」
 秋野は哲が跨いだ右脚をだるそうに持ち上げ、膝を立てた。外側に傾いた脚の膝頭が、哲の脛を擦るようにして止まる。
「鍵」
「ああ?」
「ここ、開けてくれないか」
「……」
 無言で秋野の凭れるドアを見る。視線を戻すと、秋野は億劫そうに頷いた。
「鍵は」
「落としてきたみたいだ」
「取りに戻りゃいいじゃねえか」
「頭痛がな」
 そう言われて見てみれば、確かに秋野の顔は青かった。蛍光灯のせいかと思っていたが、そういうわけでもないらしい。
 緊張で筋肉が凝ることによって頭痛になるらしく、秋野はたまにこういうふうになる。鍛えられた筋肉を持ち、人並み外れて身体能力の高い男が訴える症状が緊張性の頭痛というのはおかしな気がする。だが、人間の身体はそれほど単純でもないのだろう。
「落とした場所は分かってんのか」
「ああ」
 首を振ったら痛むのか、秋野は束の間目を閉じて眉間の皺を深くした。再度開いた目が一瞬彷徨うような動きを見せる。
「分かってるが、戻りたくない」
「いいのかよ、部屋の鍵どっかに置いたまんまでよ」
「戻るくらいならここで夜明かしする方がマシだ」
「通報されて、別なところで夜明かしする羽目になんじゃねえ? 電話して持ってこさせりゃいいだろうが」
「面倒くさい」
「……女かよ」
 その言い方に閃くものがあった。訊ねると、秋野は片頬を歪めて小さく笑った。
「——連絡が来ないってことは、多分どこかの隙間に挟まってる」
 恐らく、ソファとかベッドとか、そいうものの隙間だろう。呆れて哲の声からも気が抜ける。
「落とすなよ、そんなもん。暴れたのか、女の部屋で」
「どっちかっていうと向こうがな」
 秋野がにやりと笑い、肩を竦める。生々しい情景を想像することは放棄して、哲は小さく溜息を吐いた。
「電話しろよ」
「勘違いされたら困る」
「自業自得じゃねえのか」
「頼むよ、開けてくれ。説教なら後で聞く。死んじまいそうだ」
 頭を壁に預け、秋野が唸る。頭痛では死なないと思ったが、秋野の頭痛は二日酔いのあれとはまた違うらしい。どれだけ辛いか知らないから、大したことはないだろうと一蹴する権利は自分にはない。
「分かったよ。まったく、仕方ねえ奴だ」
「愛してる」
「気色悪ぃな。死んでくれ」
 微塵も心の籠っていない言葉を吐く男の傍に立ち、哲はポケットに手を突っ込んだ。
 今日は道具を持っていないが、一般住宅の錠前など短い針金二本ですぐに開く。それでも、解錠の瞬間感じる歓喜に嘘はない。シリンダーが回る。凹凸が噛み合う。あるべきところにあるべきものが嵌るその感覚。がちゃりと安っぽい音がして、鍵が開く。哲は針金をジーンズの尻ポケットに押し込んで、空いた右手で秋野の頭をつついた。
「おい、開いたぞ」
 軽くつついただけなのに、秋野はそのまま横倒しになった。
「寝てんじゃねえよ、コラ。汚れるぞ、服が——おい?」
 哲は秋野の白い顔を見下ろして、こいつの体重は何キロあるのかと、かなり真剣に考えた。

 

 襟首を掴み、部屋の中まで引き摺って進む。
 結局、哲が考えた最善の策はそれだった。自分より十センチでかい上、筋肉が乗った秋野の身体は結構重い。見掛けから想像するよりは大分重い。抱えて行くのは論外、背負うにしても、横倒しになっているから無理がある。上等そうな服は汚れるかも知れないが、仕方ない。
「いつまでくたばってんだ、おい」
 居間の真ん中まで引き摺って、哲は秋野の服を離した。ぐったりした秋野はうんとかああとか声を出したが、それ以上は反応しない。電気を点け、エアコンのスイッチを入れ、カーテンを閉めて回る間、秋野は身じろぎもしなかった。
 秋野の靴を引っ張って脱がせ、三和土に放る。ベッドサイドのキャビネットを勝手に漁り、何故かSOGとかいうメーカーのナイフと薬とドライバーがいっしょくたに放り込まれた抽斗を発見した。市販の鎮痛剤を探し出し、冷蔵庫に入っていた飲みかけのペットボトルと共に秋野の頭の横に置く。
「帰るからな。薬飲めよ」
「お前、バイトは」
 しわがれた声で秋野は問うが、目はきつく閉じたまま、手足は力なく投げ出されたままだった。
「盆休み」
「……ああ、そうか」
 今にも死人の仲間入りをしそうな男はそう呟いて目を開けた。
「地獄の釜の蓋も開くって、あれか」
「だな。だから、店と同じで俺もこれで店仕舞いだ。てめえも寝とけ。薬飲めよ」
「ああ」
 見上げてくる双眸は、底なしの深い淵。苦痛に掠れた声が手足に絡みつく。
 まったく、ここは地獄の一丁目だ。
 哲は転がる秋野の肩を蹴飛ばし、屈んでペットボトルと薬を手に取った。
 水と薬を口に含み、膝をついて秋野に覆いかぶさる。人さし指と中指を突っ込み唇と歯列を強引にこじあけて、口内の物を強制的に流し込んだ。秋野の口の端から溢れた水が伝う。掌で乱暴に拭い取ったら手首を掴まれ、齧られた。青く太い血管が見える手首の皮膚に残された秋野の歯形。見下ろした哲の身体の下で、秋野は血の気のない唇の端を曲げて笑った。
 哲は勢いよく身体を起こし、振り返らずに部屋を出た。
 もう一度ポケットから針金を取り出して、錠前に突っ込んで施錠する。緊張性頭痛くらいで人は死なない。哲はさっさと帰途に着いた。

 翌日の午前中、暑くならないうちにと、やたら明るい黄色の花を携え祖父の墓に足を向けた。まだ人の少ない霊園の隅、素っ気ない灰色の墓石に既に供えられた繊細な白い花。
 一体、どうやって哲より早くここに来たのか。誰かに依頼したとは思えなかった。痛む頭をどこかに捨ててきたか、それとも、首の上に載せたままでうろうろしたか。
 霊園の入口に佇む長身に、哲は鋭い視線を向けた。背後から当たる午前中の光で身体全体が薄らと青く陰って見える。目の下に浮いた隈が苦痛と睡眠不足を物語り、それでも少しはマシになったのか、煙草を銜えた唇の端が片方上がり、薄茶の目が細められた。
 盆だか何だか知らないが、本当に恐ろしいものは年がら年中ここにいる。
 水辺であろうがなかろうが、脚を引っ張り引き摺り込もうと狙う男はここにいる。
「地獄に二丁目ってあると思うか」
 疲れた顔を見上げ、口元の煙草に手を伸ばす。秋野は片笑みを浮かべたまま、僅かに首を傾けた。
「お願いしたら一緒に行ってくれるのか」
「死んでも行かねえ」
「馬鹿だね」
 秋野は腹を空かせた虎のようににたりと笑う。
「どう足掻いたって、引っ張るさ」

 吐いた煙が八月の空に流れ、誰かに持って行かれたように、唐突に掻き消えた。