2010-2011 年末年始仕入屋錠前屋

 「見つけたわよ!」
 コンビニで煙草を買い、外に出た瞬間だった。
 でかい声に、哲だけでなく通行人が一様にそちらに目を向ける。
 そこには、腰に手を当てたでかい女装の男が仁王立ちになっていた。通行人はあんぐりと口を開けて彼女——いや、生物学的には彼——を凝視し、哲は眉間に皺を寄せた。
 「よう。明けましておめでとう」
 「何呑気に挨拶してんのよ。相変わらず変に礼儀正しいんだから、もう」
 高々と結い上げ、でっかい造花を飾った髪。ふわふわのファーの襟巻。やたらきらびやかな振袖。哲は、キャバクラの正月イベントに来てしまったような錯覚に陥った。赤紫にピンク、金に銀と、とにかく眩しく飾り立てたでかいものが接近してきて、目の前に立つ。
 「ギラギラしててすっげえなあ。ハレーション起こしそうじゃねえか」
 「お正月なんだからいいのよ。めでたいんだから派手なのがいいの……ってそんなことはどうでもいいわ。行くわよ!」
 「は? 行くってどこに——」
 「初詣よ! 早く早く!」
 着飾ったエリにがっしりと腕を掴まれ、引っ張られて哲は思い切りつんのめった。
 「お、おまわりさ——」
 助けを求める哲に、通行人が一斉に背を向けた。

 

 初詣に行こう、という秋野の誘いは一瞬で断った。
 初詣といえば、人間の海。寄せては返す人の波である。歩き煙草も出来ない人混みに行って一体何が楽しいものか。しかも秋野と一緒だなんて、とんでもない。秋野と寺や神社にお参りなどしたら、秋野の分の禍まで引き受けることになりそうである。
 一体何でそんなことを言い出したのかは、訊ねなかった。後で思い返し、初詣は秋野の趣味ではないから、他に理由があったのかもしれないとは思った。だが、わざわざ確認するほど年末の哲は暇ではなかった。忘年会ラッシュを乗り切り、年末の休みに入ってからはぼんやりと過ごしていて、初詣のことなどすっかり記憶から消していた。そうしたら、これである。
 「……エリ、歩けねえから離せ」
 「歩いてんじゃないさ」
 「引き摺られてんだよ」
 エリは百八十を超える長身だし、それに草履の高さがプラスされて更にでかい。女装してはいるが肉体的には男性であるから、身長および骨格は立派なものだ。哲は決して小さくもないし華奢でもないが、いかんせん身長差は埋めがたい。
 どうでもいいが、幾ら元旦ではないとはいえ、三日の今日は神社もまだ混んでいるだろう。そんなところへ着物で行くとは、哲にしてみたら狂気の沙汰だ。
 「離したら逃げるじゃない」
 「…………」
 「ほら」
 「分かった、分かった」
 哲は溜息を吐き、力なく首を振った。
 「逃げねえから」
 エリは暫し考えていたが、哲のミリタリージャケットの袖とフードを掴んでいた手を離した。キャンペーンが終わって撤去される人型のタテカンの気分だった哲はようやく一息つく。
 「初詣だって?」
 「そうよ。秋野から聞いたでしょ」
 「行かねえって返事したぞ」
 「あら、秋野はそうは言ってなかったわよ」
 エリはつけ睫毛をぱたぱたさせた。
 「誘ったら、電話が切れたって」
 「…………」
 「行かないってはっきり言ってなかったんでしょ?」
 「言ったって言わなくたって大差ねえし」
 「そりゃそうだけどね。馬鹿ねえ、てっちゃん」
 エリはにやにやしつつ、これまたぎらぎらした素材のバッグを開き、中からピンクの携帯を取り出した。
 「もしもし? あたしよ。あ、た、し。んもう、だから勝って呼ばないでよね。捕まえたわよー、てっちゃん」
 相手は秋野だろう。哲は大きく舌打ちした。
 「そうそう、そうなの。秋野が言ってたコンビニで煙草買ってたわ。監視カメラか発信機でもつけてるんじゃないの…………分かったわよ、言っとくわ。じゃあ後でね。あのねえ、秋野はてっちゃんがどこにいても分かるんだって。アイシテルから」
 「病気だな」
 「まあある意味病気だわね。しっかし、全然心が籠ってなかったわぁ」
 エリは呆れたように首を振り、携帯を仕舞うと行きましょう、と言って歩き出した。

 

 結局、初詣は三人きりではなかった。エリ、哲、秋野の他に耀司に真菜、利香、手塚、輪島と妻、それに何故かみづきと優也もいた。
 「何だこのよく分かんねえ顔ぶれは」
 「知らん」
 「呼びつけといて知らねえのか」
 煙草を吸えない苛立ちをこめて睨み上げると、秋野はちょっと肩を竦めた。今日の秋野は正月だからか、単なる気紛れか、それともこれから女と予定があるのか——これが一番ありそうだが——恐らくスーツに、端正な黒のコートという姿だった。分かるところにブランド名など書かれていないが、やたら仕立てがいいのは哲でも分かる。その辺のファッションビルで気軽に買うようなものではないのだろうが、どうせそのコートにも何の執着もないのだろう。
 「利香が一緒に行こうって電話寄越したんだ。お前も呼べっていうから、電話しただけ。他はどうして集まったのかよく分からん」
 秋野は前方に目をやり、並んで歩くみづきと優也を顎で指した。
 「カップルみたいに見えるな」
 確かに、肩を並べ、楽しそうに笑い合っている二人は一見似合いのカップルだ。実際のところみづきは所謂オカマで、中性的な美貌の優也もゲイである。
 「つーか、何だ、兄弟? 姉妹?」
 「さあなあ」
 「じゃああれはどうだ、あれは」
 哲はすぐ前を歩くエリに視線を向けた。みづきと違い、誰がどう見てもオカマのエリは、利香と手を繋いで歩いている。エリは子供の扱いが上手いのか、単に精神年齢が低いのか、おしゃべりが途切れることはないようだ。
 「友達だな」
 「少なくとも親子じゃねえよなあ」
 「やめてくれ、怖いから」
 「確かに」
 「なあ、そういえば、初詣って具体的に何をすりゃいいんだ?」
 秋野が不意にそう訊ね、哲は隣の顔を仰ぎ見た。冗談かと思ったらどうやら本気らしい。
 「初めてか」
 「そりゃそうだ。縁がない」
 「耀司の親御さんとかと来なかったのかよ」
 「来ないよ。まあ、テレビで見るから、何となく分かるけどな」
 確かに、ニュースでも、大晦日の番組でも中継があったりはするから、行ったことがなくても様子は分かる。哲にしても、子供の頃は親に連れられて行ったことがあるが、成長してからはご無沙汰だった。祖父と暮らしていた頃は大晦日の夜から渋々出掛けたこともあったが、それも祖父が亡くなるまでだ。
 秋野にしてみれば初詣は日本人の習慣だから他人事なのだろうが、日本人でもわざわざ行ったことがないという人間はいる。そう思えば、初めての初詣も、別に珍しいことではないのだろう。
 「おみくじ引いたり、お守り買ったり破魔矢買ったりすんじゃねえ。絵馬に東大合格とか書いたりよ。そんで、賽銭投げてお参りする」
 「見たまんまだな。他にはないのか」
 「別にないと思うけど」
 秋野は辺りを見回した。
 「それだけのために、この人出か。ところで、ハマヤって何だ」
 「え? ああ、縁起物の矢だよ。弓矢の矢」
 「ふうん。なあ、哲」
 「ああ?」
 「お参りって、あれ、みんな手を合わせるだろ。いつも疑問なんだが、あれはどこの神仏に祈ってるんだ」
 「祈るっつーか……今年一年健康でいられますようにとか、お星様にお願いすんのと変わんねえよ。そもそも初詣に行く先の神社が何を祀ってるか、知ってるやつなんてほとんどいねえ思うけど」
 「そうか。じゃあ俺もお星様に利香が可愛く賢く健康に育ちますようにって頼むかな」
 カラーコンタクトの嵌った目を細めて利香を見やり、秋野はポケットに両手を突っ込んだ。周囲のひとすべてが同じ方向を目指す人混みで、頭ひとつ抜け出す男。誰もが何かを願い、祈ろうと集まる場所で、台詞とは裏腹に、秋野はただ一人超然として見えた。
 「おお、絶世の美女になるように祈っとけ。そんで、嫁に行く時は泣けばいい」
 「うるさいよ」
 「俺の嫁にくれる気はねえか。美女になったらだけど」
 「誰がやるか」
 「おい、今から花嫁の父気分になってどうすんだ」
 即答に思わず笑うと、秋野は一瞬目を瞬き、そして笑った。
 「馬鹿、違う」
 「はぁ?」
 「語尾を上げるな。品がないから」
 秋野は歩きながら幅寄せし、哲の方に僅かに身を屈めた。耳元に息がかかり、低い声が耳朶を打つ。
 「お前のことだ、利香じゃなくて」
 「アホか」
 哲は一瞬置いて、喉の奥で笑った秋野の脛を蹴った。まったく、相変わらずろくでもない。
 「縁むすびのお守りは買うなよ。無駄になるからな」
 「魔除けのお札、売ってねえかな」
 「つれないねえ」
 「くそったれ」
 「ねえ、秋野、もうすぐだって!」
 前を歩いていた利香が振り返り、秋野に言う。秋野は腑抜た笑みを浮かべて利香を手招いた。
 「おいで」
 利香を抱き上げ、はしゃぐ少女の様子に頬を緩める。秋野が吐き出す息が白くなり、黒いコートの肩口に浮かんで見えた。
 「この後、どっか行くのか」
 訊ねたのに意味はない。コートが目に入ったから訊いた、それだけだ。秋野は肩の上からエリに話しかけている利香を支えながら哲を見下ろした。
 「どうして?」
 「別に。めかしこんでっから」
 秋野は、人工の膜一枚隔てた金色の目を一瞬眇め、ゆっくりと笑みを浮かべた。
 「——どこに行きたい?」
 低く、深い声がそう囁く。
 前方から耀司が秋野を呼ぶ声がして、哲は秋野の瞳から目を逸らした。

 

 どこに行くのかは分からない。どこに行きたいのかも、決めていない。
 ただ、一秒を積み重ねて一年経った。それなら、これから先もそうだろう。
 「哲、来い」
 利香を抱えた秋野が肩越しに振り返って哲を呼ぶ。
 今は黒く見える薄茶の瞳に浮かんだ傲慢さと獰猛さ。うなじの毛が逆立つ感覚に薄く笑いを浮かべ、哲は一歩踏み出した。