キリリク 3,000

秋野に頭をなでられて激しく抵抗する哲

「せめて化粧くらい落としてくればいいだろう」
 秋野がうんざりしたように吐き出したので、俺は嬉しさの余り小躍りしそうになった。とにかく中々動じないこの男をどうにかしたければ、哲を持ち出すかオカマ声で擦り寄ってやるに限る。
「オカマ差別だわ!」
「本物はいいんだ、別に。お前は贋物なだけに気色悪い」
 気味悪そうに横目で見る秋野の腕にわざとらしく絡みつくと、思いっきり脛を蹴飛ばされた。
「痛っ!! やめろよな、俺は哲じゃないんだから」
「何だそりゃ」
「繊細なんだよ、骨が」
「そうか?」
 黒いパンツに、くっきりと秋野のブーツの靴跡がついた。まったく、クリーニング代を払わせてやろうか。ぶつぶつ言いながら後に続く俺に、秋野が振り返った。俺が内心兄と呼ぶこいつは、ここ何日かずっと機嫌が悪い。
 最近請けた仕事がいまいち気に入らなかったらしく、口を開けば皮肉を吐き、哲と見れば蹴飛ばしている。
 哲も負けずにやり返しているからまあそれは好きにすればいいのだが、秋野は俺と哲以外には機嫌の悪いところは殆ど見せない。ということはとばっちりを食うのは俺達二人で、しかも哲は歩くハンムラビ法典みたいな奴だから、結局やられ損なのは俺だけってことになるのだ。
「で、それは何なんだ、一体」
 秋野が俺の持った包みに目をやる。
「真菜の焼いたケーキ」
「ケーキ?」
 秋野が目を剥いた。そんなに怖い顔をしなくてもいいだろう。俺の真菜が作るものはケーキだろうが味噌汁だろうが世界一うまい(と、俺は思っている)んだから。
「——哲にやっても喜ばんと思うが」
「仕方ないだろ、真菜が哲にって言うんだから。最近オーブン買ったら朝から晩まで何か作ってるんだよね。うちはケーキだらけ、パンだらけ」
「耀司、お前肥るなよ」
「余計なお世話だっつーの」
 俺も哲を見習って足を出したが、軽々と避けられてヒールが虚しく地面を蹴った。そう、秋野も哲も喧嘩の強さでは人後に落ちない。どうせ俺が敵う相手ではないのだ。
「さっきお前のとこ置いてきたやつもケーキだからな」
「勘弁しろよ……」
 俺はケーキを抱えなおして、うなだれて前を行く辛党の秋野を追いかけた。

 

 俺の最愛の彼女である真菜は、先週買った念願のガスオーブンにぞっこんだ。元々料理好きだが、新しい調理器具と言うのはそれを何倍にもしてしまうらしい。ケーキ型ひとつ、キッチンクロス一枚でやる気が変わってしまうのだから、女と言うのは面白い。そして大変に可愛らしい。
 そんな彼女が日々生産する焼き菓子は、さすがに二人で消費するには多すぎた。友人知人にと言ってもそんなに大勢いるわけではないので、今日は秋野と哲に白羽の矢が立ったのだ。
 哲の部屋は俺一人でだって行けるが、仕事帰りに秋野のところにパン(奴にケーキと言ったのはほんの可愛い嫌がらせだ)を置いたついでに無理矢理誘うと渋々ついてきた。
 どうせ暇なくせに、大事な、かどうかは疑問が残らないでもないが、哲に会えると言うのに、まったくやる気がない奴だ、こいつは。
 秋野はさっさと哲のアパートのボロい階段を上がって行く。よくある、歩くとカンカン言う鉄板の階段だ。仕事帰りのオカマのままの俺の靴は、お約束のように高い音を立てた。
「哲、帰ってきてるかなあ」
「さあ。どうせ開いてるからな」
 秋野がちょっと俺を振り返った瞬間だった。哲の部屋のドアが勢いよく開き、何かが転がり出てきた。

 

 固まった俺の脳が動き出し、心臓が打ち始めた。よくよく見ると、俺の足元まで迫って止まったそれはどこにでもいそうな初老の男。見上げれば、秋野はドアの横の壁に張り付いている。
「……秋野」
「何だ?」
「お前、避けるなよな。俺が落ちるだろ!」
「オトナなんだから自分で何とかしなさい」
「ひっでえなあ」
 男はううん、と唸り声を上げて身じろぎした。
「ああ? お前ら何してんだ、こんなとこで」
 部屋から大股で出てきた哲が秋野と俺を見て声をあげ、俺の格好を見て眉を吊り上げる。
「耀司、お前その格好何とかなんねえのか」
「うるさいなー、仕事着なんだから放っといてよ」
 俺は足元で呻いている親父をパンプスの先でつついて哲を見上げた。
「で、誰これ」
 男はことさら大きく唸ると目を開けた。左の頬骨の辺りが真っ赤に腫れている。その顔で俺を見て、首を捻って哲を見上げると怯えたように後ずさった。
「空き巣。のち、居直り強盗」
 哲は事も無げに言って階段にしゃがみこむと男を見下ろした。
「おっさん、まだやる? うち本当に盗るもん何もねえけど」
 男は狂ったように首を振って、俺を押しのけて階段を這い降りて行く。秋野が哲を見下ろし、無表情に言った。
「哲、いい子にしてたら今度猛犬注意のステッカーを買ってやるからな」
「うるせえ、いらねえ、くそったれ」
 下品な哲の悪態の後を追いかけ、俺も部屋の中に入った。

「帰ってきたらあの親父がいて」
 哲は安っぽいやかんに水を入れながら言う。部屋の中は相変わらずとっ散らかっていて、空き巣の仕業か哲の仕業か俺にはよく分からなかった。
 椅子やソファがないので、積み上げて紐で括ってある新聞紙の上に腰掛ける。重心が定まらなくてぐらぐらしたが、パンツの膝が出るのは嫌なのだ。ああ、でもさっき秋野に蹴られたからどうせクリーニング行きだっけ。俺は溜息を吐いた。
「何か盗られたの?」
「さあ。わかんねえ」
 哲は俺を見て肩を竦めた。あまりにもいい加減すぎる。俺だって別に几帳面じゃないし定職にも就いてなくてろくでもないけど、お前ほどいい加減じゃない。
「確かに金目の物はなさそうだけどさ……」
「財布持って出かけてるからなあ。居直って金を出せ、なんつってたんだから、盗ってねえんだろ?」
「だから鍵くらいかけろと言ってるだろうが」
 秋野が煙草をふかしながら言う。物凄く不機嫌な言い方なのは別に哲が空き巣に襲われると思ったからではなくて、不機嫌キャンペーン実施中だからに過ぎない。
 哲は毛を逆立てた獣みたいな秋野にもまったく怯まず、ふん、と鼻を鳴らすと「お前の部屋じゃねえ」と言い捨てて床に座った。
 それにしても、と俺は二頭……違った、二人を見ながら、時間が経つのは早いような遅いような、と思う。
 初めて哲と会ったのは確か去年の春先だった。まだ一年も経っていないけれど、もっと前だった気もするし、つい昨日のことのようにも思えた。
 秋野は最初、哲相手にこんなに全部丸出しじゃなかったし、哲は哲で本気で怒った秋野には怯えていた。それが今では同じ縄張りの中に共生して、威嚇しあいながらもお互いにそれが気に入っているようだ。
 本当に、犬かオオカミか、何でもいいけどそういう動物みたいな二人だと思うのだ。

「で、何しに来たんだ、結局」
 すっかりお茶で寛いでいたところに哲に訊かれ、俺は慌てて真菜のケーキを取り出した。
「真菜から哲にプレゼント」
「はあ?」
 哲は訝しげに眉を上げて、目の前に置かれた紙包みを睨んだ。そんな目で見たらケーキが怯えて崩れちまうからやめてほしいよ、まったくもう。
「食い物だから」
「あ、そう。どうも」
 哲はそれっきりケーキに興味を失ったようで煙草を銜える。真菜に正直に言ってやろう。二度とこいつらに物はやらないほうがいい、と。俺は肩にかかる鬘の毛先を振り払って新聞の山から床に降りた。秋野は寝転がって目を閉じ、寝ているのか起きているのか、さっきからずっと黙っている。
「秋野ー、俺帰るよ。どうすんの」
「帰る」
 秋野は目を開けて、ネコ科の動物が体を伸ばすような仕草の後、身を起こした。目の前の哲の口から煙草をむしり取ると銜えて吸い込む。哲は慣れたもので、秋野の膝をすかさず蹴飛ばしながら手は既に新しい煙草に伸ばしている。返ってこないとわかっているのだろう。
 それにしても、人の吸ってる煙草を吸う、っていうのは、傍から見たらかなり親密な行為だと思う。これでこの二人が恋愛中だったりしたら俺はいたたまれないのだろうけれど、どこからどうみても仲の悪い犬が二頭だから、平静でいられた。
 もしも実際はやることやっちゃってたとしても——いや、どうやら本当にそうみたいなんだけれど——それは恋心とは程遠い所にあるらしかったから。
「さっきの秋野じゃないけどさあ」
 俺は思わず口に出した。
「本当、犬みたいだよね」
「誰が」と哲。
「お前だろう」と秋野。
「お前じゃねえのか」
「俺じゃないね」
「——二人ともだよ」
 うちの猛犬どもは、こんなところは素晴らしく息が合う。呆れて溜息混じりに俺が言うと、秋野が今日始めて笑った。残念ながら、爽やかとはまったくもって言いかねる笑顔だったけれども。

「なあ耀司、犬なら撫でれば喜ぶよな」
 秋野が手を伸ばして哲を撫でた。
「やめろ」
 哲はすごい目で(後で秋野に聞いたらあれで普通だ、と言った)秋野を睨むと、うるさそうに秋野の手を払った。
 でも哲、今日の秋野はご機嫌ななめだ。嫌がったらもっとやりたがると思うよ。
 俺の声に出さない、いや、出せない忠告は当然哲には聞こえず、長年のお付き合いで俺が知ったとおり、秋野は俄然やる気を出した。
 秋野の長身に比例して大きい手が、哲の髪の毛をくしゃくしゃにする。哲は嫌そうに頭を振るが秋野はやめようとせず、益々しつこく撫でる。
 一見微笑ましい図に見えるが、にやつきながら振り払われても叩かれても髪を撫でる秋野はちょっと恐ろしい。歯を剥き出して唸る哲も段々人外な感じになってきた。
 ああでも、哲は本当に犬っぽい。しかし今そんなことを言ったらハイキックを決められることは必至だろうから、俺は口を引き結んで失言を避けた。
 哲の抵抗が徐々に刺々しくなってきた。声が低くなって目が据わっている。
「触るんじゃねえ」
「撫でてるだけだろう」
「やめろって言ってんのが聞こえねえのか、じじい」
「ジジイ? もしかして俺のことか」
「耳が遠いから爺だっつうんだよ」
「聞こえてないわけじゃない。聞いてないんだ」
「ああそうかよ、口だけは達者で結構」
「それはどうも、お褒め頂いて」
 放っておけばいつまででも罵りあっているに違いない。見ている分には大層面白いが、段々と本当にただ仲が悪いだけなのかと誤解しそうになってきた。
 秋野が哲の髪を撫でていた手をいきなり握り締めた。今までくしゃくしゃにしていた髪を掴むと、哲を引き倒す。
「よく吠えるな、まったく」
 おいおい。それは痛いんじゃないか、秋野。手加減してる? ああ、でもどっちもどっちだ。哲のボディーブロー炸裂。哲の上に吐くなよ、秋野。
「誰のせいだ、誰の」
 二人を知らなければ110番通報してしまいそうだ。険悪とさえいえる雰囲気に、俺の腕もちょっと鳥肌が立っていた。
 頼むから真菜の前ではやらないで欲しい。鉄鍋でも持ち出してきて仲裁しようとしかねない。これは女の真菜にはちょっと理解しがたいことだろうから。俺は立ち上がってパンツの皺を伸ばしながら声をかけた。
「秋野、帰んないなら先行くよ」
「あ? ああ、帰るよ」
 秋野は哲の髪からあっさりと手を放して体を起こし、頭を振る哲を見下ろす。
「まったく——躾の悪い犬はどっちだ」
 哲が忌々しそうにそう吐き出した途端、秋野がそれこそ犬のように素早く哲の喉に食いついた。
 俺は、本当に犬のおまわりさんを呼んだほうがいいのか、と一瞬本気で考えた。

 人間のものとは思えない唸り声を上げる哲に渾身の力で蹴り上げられた秋野は、蹴られた腹を押さえながらげらげら笑って哲のアパートを後にした。
 なんで俺が謝るのかわからないが、俺は出来の悪い息子を持った親みたいに哲に謝って、哲は哲で真菜によろしく、とつらっとした顔で言って寄越す。まったくこの二人はどうなってるんだか。
 それでも、ここのところ何をどうやっても不機嫌だった秋野がとりあえず浮上したのはいいことだ。勿論哲は秋野を楽しませてやろうとしたわけではないし、元々そんな親切心やサービス心は微生物の脳みそほども持ち合わせていないだろうけど、そんな哲だから秋野があれほど執着するんだろう。
 背後でアパートのドアがさっさと閉まる。秋野は既にかなり先を行き、哲を振り返ることもしなかった。おかしな二人には違いないが、とにかく文句なく、珍しいくらいぴったりな二人だということも否定は出来ない。それで秋野が満足なら、俺には何も言うことはないのだ。

 

 俺は歩きにくい靴で精一杯早足になると、先を行く秋野を追った。
 穏やかで冷静で大人に見える秋野。
 本当は凶暴で、性悪で、傲慢で、挙げ出したらキリがないけれど、だからと言って悪人というわけでもない秋野。
 その、とても大事な、俺の兄のような人の背中を。