2005年 年末仕入屋錠前屋

理由もなくふらりと立ち寄ったその日が大晦日だったということは、知ってはいたが意識していなかった。
 大晦日も営業、と言うか普段も営業してるのかしてないのかよくわからない”まつ乃湯”から戻ったばかりだと言う秋野は、夕飯を始めようとしていた所だったらしい。普段は上げた前髪が全て下りていて、額に被さっている。
 テレビでは子供みたいな顔のアイドルが音程の外れた流行の曲を歌っていた。紅白歌合戦。何でこんな男が紅白なんだ、と半ば呆れる。幾ら大晦日だってお前にそれは似合わんだろう。
「こんなもん見てんのか」
 言いながら勝手に上がりこんで座り込むと、秋野はつまらなさそうにアイドルのアップを眺めた。
「見てないけど、一応大晦日だからな」
 テレビのリモコンを取って音量を下げ、目にかかる前髪を煩げに払いのける。つまらないなら見なければいいのに、変なところで辛抱強い。
「お前こそ、どこも行くとこないのか」
「別に。親兄弟もいねえし、普段と変わらねえよ」
 実際、祖父が生きているうちはまだ正月らしいこともしたが、ここ三年ばかりは本当に寝正月だった。一年半ほど前から始めたバイトはそこそこに忙しいが、流石に大晦日と三が日は休みだし、行くところもなければすることもない。
「食う?」
 ごく普通の晩飯を箸で指して秋野が聞く。腹は減っていなかったが、家に戻って作り直すのも億劫なので頷くと、勝手によそえ、と身振りで示された。何が悲しくて一年の終わりにむさ苦しく男二人、胡坐を掻いて紅白歌合戦かとも思うが、どうせ他に自分に似合いの年の暮れなどありはしない。
 派手な着物の演歌歌手のだみ声を聞きつつ黙々と飯を口に運びながら、こうやってどれだけの時間が過ぎるのか、とほんの少し眩暈を感じた。

 後半になるにつれ演歌のパーセンテージが上がってきた番組を終了間近でいきなり消すと、秋野は床に寝転がった。長い体が横になると、それほど広くない床面積が更に狭くなって邪魔臭いことこの上ない。哲は秋野を跨いでソファに腰掛け、煙草に火をつけた。足元にでかい荷物があるようで気に入らないが、荷物本人の部屋だと思い出し、寸前で蹴るのを止めた。
「新しい年か」
 秋野は興味もなさそうに呟いて仰向けになると、哲に手を差し出した。
「煙草くらい自分で取れ」
 言いながらも足元の秋野に煙草の箱を落としてやると、寝転がったまま火をつけ、薄茶の目で哲を見上げる。
「来年の抱負は?」
「ねえよ、そんなもん」
 実際、年が明けたらああするこうする、という感覚はとうの昔に忘れてしまった。学校を出て以来年次どころか月次と言う言葉とも縁がない。もっとも秋野にしたところでそんな生活とは無縁なのだろうが、意外に普通に見えるときもあるから、そんなありきたりの言葉も全く不似合いと言うわけでもない。
「そういうお前はあんの」
「別に……。今年は色々あったからな、来年は普通でいいよ」
「お前のフツーってどんなだ」
「さあねえ」
 秋野はにやりと笑うと、勢いをつけて素早く体を起こした。前屈みにソファに座る哲の、すぐ傍に顔がある。背が高いので座高も高い。いきなり目の前に現われるとあまり心臓によくない顔だ。
「お前に会ってよかったのか悪かったのか」
 前髪の間から覗く目は、普段と変わらず鋭くて凶悪だった。にたりと顔を歪めて、虎のように笑う。今すぐ腹を裂いて内臓を食らってやるとでも言うこの顔は、自分にしか向けられないものらしいと最近気がついた。
「知るか」
 煙と一緒に吐き捨てると、秋野は喉の奥で笑った。笑いを含んだ柔らかな低い声が、呟くように名前を呼ぶ。
「哲」
 柔らかなのは響きだけ。見上げる瞳は刺すように厳しい。
「——哲」

 

 ただの区切りでしかない年が一つ暮れ、新たな年が明けても。
 何一つ変わらない。
 目の前で黄色く光るこの双眸は、いずれ変わらずそこにあるのだろう。安堵も幸福もないけれど、そんなものはどうせ自分には似合いはしない。良かったのか悪かったのかそんなことは知らないが、今ここにあるのならそれは必然で、迷うことなど何もない。

 

 気付けば、時計の針はとうに新しい年を指していた。
 ただ流れる時間のほんのひとこま。それだけなら、振り返ることすら馬鹿げている。立ち昇る煙草の煙は古い年と新しい年の間を彷徨うようにゆらゆらと漂い、端から霞んで融けて消えた。