2019-2020 年末年始仕入屋錠前屋

「てっちゃん……」
「気にすんな、噛みつかねえから」
 ちらちらと背後に視線を向ける男に、哲は溜息とともにそう伝えた。
 嘘ではない。哲に対しては息をするように噛みついたりするが、少なくとも哲の見ているところで食い物以外を齧っているのは見たことがない。
「いやそういうことを心配してんじゃ……犬じゃないんだから」
「じゃあ何だよ」
 両手で髪をわしゃわしゃされながら顔をしかめる。シャンプーの泡の小さな塊がひとつ飛んでぺたりと床に落ちた。
「だっていい男すぎだろ!? 見られてるだけで俺だって緊張しちまうよ! さっきからうちのかあちゃんなんか挙動不審すぎて茶とか出してやがるし、つーか服がもう二回も変わってんだぜ!」
「知らねえよもう、そんなん。放っといたら? ろくでもねえ野郎だけど奥さんに手ぇ出したりしねえから」
「いや別にそんな心配はしてねえんだけどさ」
 ぼそぼそと会話を交わしながら鏡越しに背後を見ると、薄茶の目と目が合った。
 床屋の奥さんが出してくれた煎茶を啜っている秋野は、隣に座ってカットの順番を待っている近所のじいさんと並ぶと、まさに異世界の住人としか思えなかった。
 金色の斑紋は遠すぎて見えないが、形のいい眉の下の瞳はよく見える。一瞬歯を剥いて短く唸った後、哲は店主に促されて身体を前傾させた。
 この床屋のシャンプー台は美容室とは違って前、鏡の下部にある。
 若い頃から通っているここは祖父の行きつけで、当時は今の店主の父親がやっていた。親父さんは十年くらい前に引退して、息子が後を継いでいる。そういうわけで哲の知り合いではあるが年齢は一回り以上違う店主は、哲にとっては近所の年を食ったお兄ちゃんといったところだ。
 ちょっと前にED薬を頼まれ秋野に入手を頼んだことがあったせいか、年が明けて髪を切りに行くと言ったら何故か秋野がついてきた。
「顔も剃るかい?」
「うん」
 椅子を倒されたので一瞬視線を上に向けたが、天井しか見えなかった。頭のてっぺんに視線を感じたが、睨み返すこともできないから無視するしかない。
「気持ちよさそうですね」
 刷毛でシェービングフォームを塗りたくられている哲ではなく、店主に向けて秋野が言う。
「ああ、これ、いいですよね」
 店主がどこか緊張した声で秋野に返す。
「おっさんくせえ匂いするよな」
 哲が言うと店主が笑う。
「てっちゃんなあ」
「いや、このなんかおっさんくせえのがいいんだって。俺好きだぜ、これ。なんか安心するつーか」
「笑わせたら眉毛剃っちゃうぞ」
「やべえ、逮捕されるから眉毛は温存して」
 無駄口をたたきながらもあっという間に顔剃りは終わって、蒸しタオルが顔に載せられた。鼻の孔だけ露出した自分の顔はミイラみたいだろうなあなんて思いながら、気持ちよさにぼんやりしつつ、秋野が隣のじいさんと何かのニュースの話をしているのを聞くともなく聞いていた。
 つけっぱなしのラジオから聞こえる野球解説者の喧しい声、奥さんが秋野に話しかける華やいだ声、妬いているに違いない店主の普段より偉そうな声。どこか懐かしいクリームの残り香とタオルの温かさに眠くなる。
 タオルが剥がされて椅子が動き始め、気が付いたら鏡の中の自分の顔を見つめていた。
 乾かしただけの髪に縁取られた寝起きみたいな気の抜けた顔の向こうに、秋野の顔が映っていた。
 ここは哲の世界で秋野のいるべき場所ではない、とそう思う。
 だが、秋野は決して連れて行けと強要はしなかった。ただ、床屋に行ってるお前を見たことはないなと言っただけ。来たきゃ来ればと告げ、ついてきているかも確認しないでドアを開けたのは自分だった。
「お疲れさん。じゃあ今日もいつもと同じね」
 財布を取り出して札を渡す。店主は釣りとビニール袋に入れた無地のタオルを寄越した。薄っぺらくて向こう側が透けて見えそうな白いタオル。毎年同じ、年始の粗品だ。
「毎度どうも、今年もよろしくな、てっちゃん」
「こちらこそ、今年もよろしくお願いします」
「よかったらお兄さんも来てくださいよ。床屋だしこじゃれたカットはできねえけどさ、顔剃りだけでも、てっちゃんと一緒に」
 ここぞとばかりに営業した店主を止める間もなく、秋野は柔らかく笑って頷いた。
「はい、是非」
 哲以外、その場にいた誰もが秋野を知らないのに、多分それは社交辞令でもその場凌ぎでもなんでもないのだというのが分かったのはなぜだろう。
 名前も知らない近所のじいちゃんすら「そうかそうか、またな、あんた」なんて秋野の腕をばしばし叩き、床屋の奥さんは頬を赤らめ、店主もつられたように耳を赤くした。
「──マジで来る気かよ」
 店を出て数メートル、黙って先を行く秋野に何となく訊いてみたが、返ってきたのは返事ではなかった。
「そのまま行くのか?」
「ああ? あー……いや、一遍戻るかな。さすがに普段着すぎるし」
 耀司の実家に呼ばれているのを思い出して溜息を吐く。哲を呼んだのは利香だから、無碍にも断れない。以前渡したサンキャッチャーも見てほしいというから仕方がなかった。嫌ではないが、億劫ではある。まあ、そんなものだろう。
 そのまま黙って哲のアパートまで歩き、階段を上りかけたら後ろから腕を引かれた。髪の毛とこめかみのあたりを秋野の鼻先と唇が掠める。
「嗅ぐな、勝手に!」
 今朝方その口でこいつに何をされたか──思い出すのも憚られるようなことだったのに──鮮明に思い出して腹の底がぞわりとうねり、怒りに思わず奥歯を噛み締めた。
 蹴っ飛ばしたら秋野は笑い、またあとで迎えに来ると言ってあっという間に立ち去った。このまま迎えになんか来なきゃいいのに、と半ば本気で考えて、それでもそれが百パーセントではないことに諦めと憤りを同時に感じて舌打ちした。
 安っぽい階段を上り、薄っぺらなドアを開ける。新年だろうが何だろうが、哲の部屋には変化はない。粗末だが、自分だけのもの。例え誰が土足で踏み込もうと、知らぬ間にそこにいようと、哲の場所であることに変わりはなく、誰に譲る気もない哲の腹の底。
 例えその中に秋野が手を、身体の一部を突っ込み好きに掻き回しているとしても、大半がすでに持っていかれているとしても、最後に残ったひとかけらは哲のものだ。

 

 新しい年が明け、もしかしたら数日で。そうでなければまたひとつ年が暮れて明けるまで。
 もっと先か、もしかしたらそんな日は来ないのか。
 いつかなんて分からない。
 だが、その時がきたら抵抗したって仕方がないからくれてやる。口移しで全部食わせてやるから、ひとつも余さず腹に収めて笑えばいい。

「……明けまして──とりあえず今年は、まだやらねえ」
 一人呟き、哲は静かにドアを閉めた。