呼吸の仕方も忘れてしまう

「佐崎──!」
 息が止まりそうになって、次の瞬間思わず声が出てしまった。もうみっともなく追いかけたりしたくないし、とっくに諦めがついたと思っていたのに。

 栄がその日、その時間にその道を通ったのは、まったくの偶然だった。飲み屋街はこれから人が集まる時間。普段なら栄もまだ仕事中だ。
 美容室の予約客が二人も立て続けにキャンセルになったのは最近流行っている風邪のせいだった。個人事業主にとっては収入減に直結するから痛いけれど、無理して来られてうつされてもやっぱり困る。せっかくの機会だからたまにはゆっくり飲むのもいいかと、友人に連絡をした。友人が決めた店に行くのは初めてで、周囲を見回しながら歩いていたから気が付いたのだ。
 反対側の道路を歩く佐崎の横顔。距離があったから呼んだって聞こえないのは分かっていたのについ声が出た。当然聞こえたはずもなく、若干猫背気味の痩身は大股で、しかし急ぐ様子はなく栄の進行方向とは逆に歩いて行った。
 友人との待ち合わせを忘れたわけでは勿論ない。数秒迷い、多少遅れたところで怒るような相手ではないのだからと自分を納得させて踵を返した。罷り間違っても小柄ではないとはいえ特別長身でもない佐崎の頭は、人混みに紛れてしまいそうだ。染めていない髪色も、目立つとは言えない。
 数ヶ月前、突然栄の美容室に現れたからスタイルから色から何もかも変えてやったが、遠目に見た佐崎の髪にはパーマやカラーの名残はなく、刈り上げたうなじもすっかり元の長さに戻っているように見えた。当然のことなのに驚くほど落胆しながら、それを振り払うように足を速めた。
 頼まれてもいない施術は、些細な意地悪みたいなものだった。多分栄なんか眼中にもない佐崎が、それでも気を遣った様子だったのが腹立たしかったのだ。
 気遣いなんかいらなかった。意識されてるわけでもなんでもない、多分、憐みに近い感情で気遣われるなんて悔しかった。あの男は多分、佐崎にそんなふうに扱われないに違いないのに。
「佐崎!」
 角を曲がった背中を追いかけて呼ぶと、薄暗い中道の真ん中で佐崎が立ち止まった。街灯が少ない路地だから、表情まではよく見えない。誰だか分からなかったのか、肩越しに振り返って数秒、佐崎は「ああ」と低く言って振り返った。
「──伊藤?」
「久し振りだな!」
 こちらが明かりを背負っていて見づらいからだろう、微かに眉を顰めている。駆け寄って前に立つと、佐崎は僅かに頬を歪めるようにして笑った。
「そんな久々じゃねえだろ」
「あー、まあ……刈り上げ事件あったし?」
「そうそう」
 低く笑って、佐崎は改めて気が付いたというように栄の顔に目を向けた。
「まだ仕事じゃねえのか? 休み木曜だろ」
「え──あ、ええと、うん」
 佐崎が定休日を覚えていたことに動揺して思わず言葉に詰まった。そうしてお前は休みなのかと訊ねかけ、自分はそんなことも知らないのだと思い至ってまた動揺した。黙り込んだ栄に、佐崎が怪訝そうに首を傾げる。しっかりしろと自分を叱咤して、栄は小さく咳払いした。
「あ、その、たまたま二組もキャンセル入って……そんで」
「ふうん。よかったな、って言っていいのか?」
「まあ、延期になっただけだからそう痛いわけじゃねえし。お前はこれから仕事?」
「いや、今日は休み」
 だったら飲まないか、とか。
 口に出しかけて、友人を思い浮かべて自分勝手なことを考えた。あいつには電話をして謝って、外せない用事ができたと言えばいい、とか。
 もう忘れたはずだった。フェイスガーゼ越しに何か見えないかと期待して、洗ったり乾かしたりするだけだと言い聞かせて髪と皮膚に数秒だけ長く触れて。
 いくら触れても、例え身体の中に入り込んでも同じことなのは分かりすぎるくらいわかっている。何をしたって「物足りない」自分を見たりしないと知っているのにどうしても手を伸ばしたくて、ただほんの数時間、差し向かいで飲もうと口にしようとするだけで呼吸の仕方も忘れてしまうくらい胸が詰まった。
「──哲?」
 呼吸を止めたのは、栄ではなく佐崎だった。
 ほんの少し。多分、誰も気づかないくらいの、本当に些細な変化。
 もしかしたら、佐崎自身も気づいていないのかもしれない。だが、栄には見えてしまった。ほんの数ミリの髪の長さがスタイルのバランスを変えるように、呼吸を止めた佐崎の顔が、その声に触れられて変わるのを。
 当たり前の同年代の顔の下に、獲物を狙う獣みたいな獰猛な顔が透けて見えた。
 気づきたくもないのに。
「約束?」
 栄が訊ねると、佐崎は何故か渋々という感じで頷いた。
「……ああ。ちょっと、仕事の関係で」
「ご無沙汰してます」
 十メートルほど向こう側。佐崎に声をかけてきたその位置から動かずにいるのは、彼もまた気を遣っているのだろうかと思う。栄がちょっと声を大きくして声をかけたら彼──確か名前はアキノ──はその場で会釈した。
 薄暗い路地だが、アキノの佇む場所にはちょうど街灯が立っていて、その姿がよく見えた。記憶にあるとおりの長身。きれいな顔、と単純に表現できないのは精悍さが勝つからか。義兄が佐崎はともかく、あの男にはかかわるなと言っていた。ヤクザでもないのになぜかと訊ねたら、義兄はちょっと考えて、「怖いから」とだけ言ったのだ。
 自分自身は暴力事とは無縁でも、ヤクザはヤクザだ。その義兄をしてこわい、と言わせた男。じっと自分を見つめる栄に向けられる瞳は穏やかで、今は少しも怖くなかった。
「……なあ、佐崎」
「ん?」
「俺、友達と約束してて、これから飲むんだ。この近くの店で」
「ああ、そうなのか」
 店名を言ったら佐崎は場所を知っていた。どうやら栄は一本手前の道を曲がったらしい。そのおかげで佐崎を見かけたのだから怪我の功名というやつだったが。
「でさ、お前も来ねえ?」
「でもよ──」
 言いかけた佐崎を遮って、栄は早口になって後を続けた。
「アキノさんと約束だろ、終わってからでいいよ。そいつも美容師なんだけど、休み合わねえから結構久々で、多分遅くまで飲むし。店替わるかもしんねえから、連絡くれればどこにいるか──」
「伊藤」
 佐崎が静かに栄の名前を呼んだ。
 低い声にはどんな色合いもない、ただ名前を呼んだだけ。それでも栄は口を噤み、目の前の佐崎の顔を見た。
「仕事の話はすぐ終わると思うけど、あの野郎と飲むし」
「ああ、それは分かってる。だからその後」
「その後は多分、あいつんとこ行くし」
「……」
「半月ぶりに会うから、多分朝までヤってると思うし」
 息が止まる。
 分かってる。
 そんなの知ってるのに。
「つーか、ほんとのこと言うと」
 佐崎は苦虫を噛み潰したような顔でぼそぼそと言う。苦虫って何なんだろうと、どうでもいいことが頭を掠めた。誰が食うんだ、苦虫なんて。そんなものが本当にいればの話だけれど。
「飲むのもすっ飛ばして今すぐあの野郎に飛びつきてえ。だから行けねえ」
 ごめんな。
 ごく低い声で小さく言って、佐崎は栄に背を向けた。
 誇張してるのかもしれない。俺を牽制するために。一瞬そんなふうに考えて、誇張だろうが違おうが、事実は変わらないのだと思い知って鋭く息を吸い込んだ。
 止まってしまったと思った呼吸はあっさりと再開され、栄は吸い込んだ息をゆっくり吐いた。
 佐崎はアキノを追い越しざま、ものすごい勢いでその脛を蹴りつけた。栄は思わず身体を固くしたが、アキノは痛くないのか我慢しているのか、何の反応も見せなかった。
 勝ち誇った顔でもしてくれればいいのに。そうしたら、大したことがない奴だって、束の間そんなふうにあんたを蔑んだりできるのに。アキノはゆっくり栄に顔を向けると、微笑んだ。さっきとは別の意味で胸が苦しくなって、不覚にも涙が出そうになった。嫌味も優越感も、揶揄もない。栄への微かな好意──そうでなければ親近感みたいなもの以外、何も含まない笑顔だった。
 ごめんな。
 佐崎の声がまた耳の奥に響いた気がしてほんの数秒目を閉じる。目を開けた時には、街灯の下にはもう誰も立っていなかった。

 

 

 後ろから抱かれるのは嫌いだ。
 女を抱くときには決して嫌いな体位ではないが、されるとなると猛烈に腹が立つ。今まで抱いた女が同じように思っていたのだとしたら申し訳なさで胸が苦しくなるくらいだ。だが、誰も嫌だと言わなかったしそんな素振りはなかったから、彼女たちにとってそれは単なる体の向きでしかないのかなとも思う。
 哲が殊更それを忌避するのは屈服させられているように感じるからで、それは多分相手が秋野だからだ。そんなことはとうの昔に分かっているが、頭で理解するのと納得するのとは別の話だ。
 うなじを噛まれて怒りに吼える。動物の交尾のように這わされるのも嫌いだ。突っ込まれて為す術もなく揺さぶられるのも、強制的に与えられる快感に喘ぐのも、目が眩むほど頭にくる。
 それでも。
 それでも、伊藤に言ったことは嘘ではなかった。まったく、ろくでもない、卑怯なやつだ。誰と喋っているか気が付いていたくせに、あんなふうに、あんな声で名前を呼んだ。
 他の誰が聞いたって分からない、呼ばれた本人にだけしか聞き分けられないような、声音の違い。伊藤をこれ以上傷つけないように、ひそやかに。それでいて哲の奥深くには消えない爪痕を残すように、居ても立っても居られなくするように。
 耳の裏に吐息が触れ、鼻先が触れる。
「哲」
 さっきと同じ呼び方で、秋野が何度も繰り返す。声と一緒に腹の中のものが動いて自己主張する。裏側からひっくり返されそうな感覚に、歯を剥き獣のように唸り声を上げた。
「ぅあ、あ……っ! く、そったれ!」
 腕立て伏せの要領で力任せに身体を前に引き寄せた。腹の中を異物に長く擦られる感覚と、それが抜ける衝撃に奥歯を噛みながら耐え、勢いよく仰向けになる。面白がるように眉を上げた秋野の顔が、ひどく乱れた──乱したのは哲だ──髪の向こうに見えた。
「まったく、ろくでもねえったらねえ……!」
「今更何言ってるんだ」
 笑う秋野に手を伸ばす。
「さっさと終わらせろ。ただし、こっち向きで」
「うるさいよ、待てなくて飲みに行くのもすっ飛ばしたくせにぐだぐだ言うな」
 微かに掠れた笑い声が哲の唇に触れ、顎先を舐める。声が舐める、なんておかしいが、そう思うのだから仕方がない。吐息も、音も、何もかも実体があるかのように触れてくる。
「お前こそうるせえ──誰のせいだ、クソ虎野郎」
「さあな」
「あ──、ぁっ」
 もう一度隙間を埋められていく感触に仰け反った。気持ちよくて吐きそうだ。腹が立って眩暈もする。反らせた喉に上げかけた声がひっかかる。
 伊藤にはもう言ったんだったか? 腹の底と同じ、頭も秋野でいっぱいになって思い出せない。大分前の記憶とさっきの記憶が混じり合い、秋野の呼吸と己の呼吸が混じり合う。
 俺はどうしてもこいつがいい。薄暗い道端で名前を呼ばれたそれだけで、呼吸の仕方も一瞬忘れる。
 こいつ以外は誰もいらない。俺の手には余る、俺の、世界でいちばん卑怯な男以外は。
 誰も、何も。